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神様の手

ヨリはほっとしていた。まだ少し目が熱い。とりあえず、あの大きな生き物は殺されずに済んだ。けれど、だからといって誰かが面倒を見ると決まったわけではない。オサが決めたのは、今は殺さない、群れには迎えない、ということだけだった。


木の陰に残った大きな生き物は、しばらく経ってもこちらへ近づいてこなかった。かといって森へ帰るわけでもなく、離れたところからじっと群れの様子を見ている。


ヨリは食料の中からリンガルを一つ取った。


「何するんだい」


ハネに呼び止められて振り返る。


「お腹すいてるから」


「また餌をやるのかい」


「うん」


ハネは木の陰へ目をやった。


「餌をやるから、ついてくるんじゃないのかい。昨日だってやったんだろ?」


「余ってたから」


「余ってても、やればついてくるよ」


ヨリは少し黙った。それでも、手の中のリンガルは戻さなかった。


「でも、お腹すいてる」


ハネが何か言い返そうとしたところで、オサが「一つだけだ」と止めた。


ヨリはうなずいて木の陰へ向かい、水場で餌をやったときと同じくらいの距離で足を止めた。それより先へ行く気はないし、大きな生き物の方もこちらへ近づいてはこない。リンガルを投げると、大きな生き物は少し待ってから拾い上げ、口へ入れた。


それだけだった。


日が暮れると、群れはいつものように岩の割れ目へ入り、身体を寄せ合って眠った。九人が丸くなれば、それだけで床はほとんど埋まってしまう。あの大きな身体が入り込む隙間など、どこにもない。大きな生き物は離れた木の下で一人、身体を丸めて眠った。


* * *


翌朝、ヨリが岩場から外を見ると、まだいた。


大きな生き物は木のそばに座ったまま動かない。昨日は姿が見えただけで弓へ手を伸ばしていたハネも、朝のうちは何もしなかった。リキは何度か気にしていたが、武器を構えるところまではいかなかった。


昼前から空が暗くなり、やがて雨が降り始めた。最初は木の葉を濡らす程度だったのが、しばらくすると岩場の向こうが白く霞むほどの降りになり、みんなで外へ出していた籠や薪を割れ目の中へ運び込んだ。割れ目は入口こそ二人並んで通れるほどの幅があるが、天井はオサがやっと立てるほどの高さしかなく、奥へ行くほどすぼまって低くなる。ただでさえ九人で寝るのがやっとの場所に荷物を押し込むと、壁際には籠が重なり、槍は斜めに立てかけるしかなかった。それが終わってから外を見ると、大きな生き物はまだ木の下にいた。


ヨリはリンガルを一つ持った。


「また行くのかい」


ハネに聞かれてうなずくと、「すぐ戻りな」と言われた。


雨の中へ出た途端、大粒の雨が顔と耳を叩いた。耳の中にまで水が入りそうで、ヨリは耳を伏せながら、昨日と同じところまで歩いていく。そこでようやく、大きな生き物の様子がおかしいことに気づいた。


木の幹に背を預けて座り込み、灰色の服はびしょ濡れになって身体へ張りついている。あれだけ大きな身体が、遠目にも分かるほどガタガタ震えていた。


ヨリはリンガルを投げた。これまでならすぐ拾うのに、今日はしばらく動かない。やがてゆっくり手を伸ばして拾い上げたが、その手まで震えていた。


リンガルを口へ運ぶ様子を見ているうちに、昨日までとは少し違って見えてきた。大きくて、何なのかも分からなくて、近くにいるだけで怖かった生き物。それが今は、ただ雨に濡れて震えている。


ヨリは辺りを見回した。少し横へ行ったところに、大きな木の根元がえぐれてできたうろがある。岩場からの遠さは今いる木とほとんど変わらないし、奥行きは浅いけれど、少なくとも今いる場所よりは雨をしのげる。


ヨリはそこを指さした。けれど、大きな生き物は動かない。今度は大きな生き物を指してからうろを指してみたが、やはり反応はなかった。


「……あっち」


言葉が通じないことくらい分かっている。それでも口に出しながら、もう一度大きくうろを指した。


三回跳べば真似したくせに、こういうことは分からないの?


少し腹が立った。けれど、そこで思い出した。さっきリンガルを拾うまでにも、ずいぶん時間がかかっていた。大きな生き物は座ったまま立とうともせず、さっきからずっと細かく震えている。


もしかすると、分からないだけじゃないのかもしれない。


ヨリはうろを見て、それから大きな生き物へ視線を戻した。このままじゃ、いつまで経っても雨に打たれたままだ。


「もう」


一歩だけ前へ出た。


いつもなら、ここまでだった。


大きな生き物は動かない。もう一歩近づいてみても、襲ってはこなかった。逃げもしない。何度か足を止めながら、ヨリは少しずつ距離を詰めていった。


近くで見ると、震えは遠くから見ていたよりひどかった。濡れた服が大きな身体へ張りつき、息をするたびに肩が揺れている。


怖くないわけではない。それでも、このまま置いて帰る方が嫌だった。


手を伸ばせば届くところまで来たとき、大きな生き物が顔を上げた。ヨリは一瞬だけ迷ってから、その大きな手をつかんだ。肩がびくりと跳ねたが、それだけだった。


「こっち」


手を引いても、最初は動かなかった。もう一度引くと、大きな身体がゆっくり立ち上がる。ヨリがうろへ向かって歩き出すと、おとなしく後ろからついてきた。


* * *


寒くて、頭がうまく回らなかった。服は重いし、身体の震えも止まらない。さっきもらった小さな実を食べたはずなのに、どんな味だったかもほとんど覚えていなかった。


そんな白ブタの手を、神様が握っていた。


冷えきった指に、そのぬくもりがじんわりと染みてくる。気づいたときには、白ブタのほうからぎゅっと握り返していた。放したくない。


引かれるままに歩くと、木の根元にできたうろへ連れてこられた。神様が中を指したので、今度は白ブタにも意味が分かった。身体をかがめて中へ入るあいだも、握った手は放せなかった。雨が当たらなくなって少し息が楽になった気がしたが、身体はまだ震えていた。


神様はしばらくこちらを見ていた。それから、つないでいた指がするりとほどけた。指先に残っていたぬくもりが、雨の冷たさにあっという間に奪われていく。神様は岩場の方へ戻っていき、その背中が見えなくなってから、白ブタはうろの奥で身体を丸めた。


助けてくれた……ってことか?


白ブタは、さっきまで握られていた手を、ぼんやりと見つめた。


* * *


岩場へ戻りかけたところで、ヨリは一度振り返った。うろの中に大きな身体が見える。雨には当たらなくなったから、これで大丈夫だと思っていた。なのに、まだ身体を丸めて震えている。


岩場へ戻ると、ヨリは入口近くの自分の寝場所にしゃがみ込み、敷いてあった乾いた草をかき集めた。


「ヨリ」


背後から声がして振り返ると、ハネが立っていた。


「それ、どこ持ってくんだい」


「外」


「外のどこだい」


ヨリが黙ると、ハネの目が細くなった。


「……まさか、あれにやるのかい」


「濡れてるから」


「ヨリ。あんた、何した?」


その声で、少し離れたところにいたオサまでこちらを見た。ヨリは乾いた草を抱えたまま、仕方なくうろの方を指した。


「勝手に近づいたのか」


オサの声が低くなった。


「震えてたから」


「聞いてるのはそこじゃない」


「中には入れてない」


「そういうことを言ってるんじゃない」


そこからは、かなり怒られた。何なのかも分からない相手へ勝手に近づいたこと。直接触ったこと。群れに黙って、勝手に寝場所まで世話したこと。もし襲われていたら、ヨリ一人では済まなかったこと。


最初はいくつか言い返した。けれど、オサが本気で怒っていると分かってからは、乾いた草を抱えたまま黙って聞いていた。それでも、話が終わりかけたところで、ヨリはうろの方を見た。


「でも、まだ震えてる」


オサは何も言わなかった。しばらくしてうろの方へ目をやり、大きく息を吐く。


「……お前の分だけだ。今夜寒くても知らんぞ。それと、もう勝手なことはするな」


ヨリはうなずき、乾いた草が雨に濡れないよう腹に抱え込むと、背中を丸めてもう一度雨の中へ出た。


* * *


うろの中で身体を丸めていると、神様が戻ってきた。今度は腕いっぱいに乾いた草を抱えている。神様はそれをうろの中へ置くと、白ブタの方へ押しやった。


白ブタは、押しやられた草をのろのろと身体へかき寄せた。濡れた服のままでも、雨と風が当たらないだけだったさっきより、ずっと暖かい。しばらくそうしているうちに、身体の震えが少しずつ小さくなっていった。その間、神様はうろの入口でずっとこちらを見ていた。


震えがほとんど収まったころ、神様が近づいてきた。何をされるのかと、白ブタは身体を固くした。


小さな手が頭へ乗った。そのまま、軽く二度撫でられた。


白ブタは動けなかった。神様は何事もなかったように立ち上がり、そのままうろを出ていった。


しばらくしてから、白ブタは自分の頭へ手をやった。身体が温まってくるにつれて、止まっていた頭がようやく動き出し、さっきまでのことが順番に戻ってくる。


雨の中を、神様が自分のところまで歩いてきた。昨日から何度も近づこうとしては追い払われて、だから今日は近づかなかったのに、向こうから来た。


それから、手を取られた。小さくて、毛の生えた、雨で湿った手だった。白ブタの指を何本かつかむのがやっとの、小学生みたいな手。思わず握り返したら、すっぽり包みこんでしまうくらいだった。そのぬくもりを、指がまだ覚えている。一度は帰っていった神様は、乾いた草を抱えて、また雨の中を戻ってきてくれた。


そして、頭を撫でられた。


白ブタは、撫でられたところにもう一度触れた。あの小さな手の感触が、まだ残っている気がする。最後に頭を撫でられたのがいつだったのか、どうしても思い出せない。そう思ったとたん、喉の奥がぐっと詰まった。こらえる間もなく、涙があふれてきた。白ブタは草に顔を押しつけて、声を殺して泣いた。


昨日は木の下で、地面にじかに丸まって眠った。それが今日は雨をしのげる場所があって、乾いた草まである。白ブタは草の中で身体を丸め、撫でられたところに手を当てたまま目を閉じた。


読んでいただき、ありがとうございます。

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