何も知らないくせに
森の向こうから、ヨリが戻ってくるのが見えた。
岩場の前にいたハネは、すぐに違和感を覚えた。
ヨリはいつもと変わらない足取りで歩いている。その後ろを、見たことのない大きな生き物がついてきていた。灰色の服を着て、手には何か白いものを提げている。
とっさにハネは弓を取った。
「ヨリ!」
声と一緒に、早くこっちへ来い、と強く手招きする。
見たことのない大きな生き物の足が止まった。そのまま近くの木へ寄り、太い幹の陰へ身体を隠す。
「みんな、気をつけな! 何かいるよ!」
シロが立ち上がり、そばに置いてあった槍を手にした。子どもたちは大人の背へ隠れる。
サトが短く声をかけると、巨大な亀がのそりと動いた。群れのすぐ横まで寄り、大きな生き物との間へいつでも割り込める位置で待機する。
ヨリだけが緊張感なくこちらへ歩いている。木陰に残った大きな生き物との距離は開いていっている。
「ヨリ! 早く!」
苛立ちを感じながらハネがもう一度強く手招きすると、ようやくヨリが周囲を見た。シロの槍、震えている子どもたち、自分たちの前へ出たトタスを順に見て、やっと駆け出す。
走ってきたヨリを、サトが抱きとめた。
ハネは弓を大きな生き物へ向けたまま聞く。
「怪我は?」
「ない。なんで?」
ヨリが首を傾げた。
ハネは木陰の大きな生き物を指す。
「あれが、お前についてきてたよ」
「知ってる」
ハネは一瞬、言葉を失った。
「……知ってる?」
「うん」
ヨリは昨日、森で会ったことを話した。
弱っていたからリンガルを一つやった。今日も水場にいた。追い払ったけれど、ついてきた。
「言葉は通じるの?」
「通じない」
「じゃあ、なんでついてくるの?」
「知らない」
ハネは大きな生き物から目を離さないまま、質問を続けた。
「襲ってきたことは?」
「ない」
「本当に?」
「ない」
だんだんヨリの返事が短くなる。しまいには、こんな状況だというのに大きなあくびまでした。
「あんたねえ……」
ヨリは眠そうに目をこすっている。
木の陰の大きな生き物は動かない。
シロはしばらく大きな生き物を見たあと、槍を握ったまま腰を下ろして言った。
「オサたちが戻るまで待とう」
ハネも異論はなかった。狩りに出た者たちがどこにいるか分からないうえ、弓を持つ自分がここを離れるわけにもいかない。何より、あの大きな生き物を無理に動かす方が怖い。ハネは弓を向けたまま待った。
* * *
しばらくして、森の向こうから複数の足音がした。ヨリが顔を上げると、オサたちが戻ってきたところだった。三人はハネの指さす木の陰のオークを見た。続けてハネが、オークが木の陰に留まり、それからずっとこちらの様子を伺っていることを話した。
話を聞き終えたリキが、オークを見た。
「殺そう」
「だめ」
すぐに返した。
「何でだよ」
「だめだから」
「理由になってないだろ」
「おい!」
オサの声で、リキと一緒に黙った。
オサはオークを見たまま、シロに聞く。
「シロ。あれは何だ」
「きっとオークだよ。オークの子ども」
ヨリが横から割り込む。
シロは木の陰をじっと眺める。
「オークとは違う気がするな」
「じゃあ何だ?」
「……ドワーフだろうか。ドワーフにしては少し大きいが」
みんなが木の陰を見ている中で、ハネが言った。
「ドワーフだと、襲ってこないの?」
「でも、あれが何なのか分からない以上、危ないのは変わらない」
リキが返した。
オサは少し考え、それからみんなを見た。
「どう思う」
「無理っす」
ランが言った。
「何がだ」
「あんなでかいのと戦うの」
オサは返事をせず、ほかのみんなを見る。
「襲ってきてはいないんだな」
オサが言うと、ハネがうなずいた。
「今のところはね。でも、言葉は通じないみたいだよ」
「追い払えるとも思えない」
シロが木陰を見る。
誰かが何か言うたび、別の誰かが不安なところを口にする。話は同じところをぐるぐる回った。
やがて、リキがもう一度口を開いた。
「やっぱり、殺すしかないだろ。何もしないから大丈夫なんて、分からない。襲ってきてからじゃ遅い」
「襲ってこない」
すぐに答えた。
「だから、それは今までだろ」
リキは木の陰を指した。
「襲ってきてからでは遅いんだ。ヨリの前の群れだって――」
その言葉を聞いた瞬間、周りの音が遠のいた。リキはまだ何か言っている。でも、何も耳に入ってこない。
身体が震えだした。
「何も知らないくせに!」
叫んだ途端、尻尾がぴんと立ち、目には涙が溜まった。
驚いたような顔になったリキは口を閉じ、目を逸らした。
ハネがゆっくりそばへ寄り、弓を持っていない方の腕で肩を抱く。その胸に顔をうずめると、しばらく顔を上げられなかった。
ハネがオサを見た。
「オサ」
「なんだ」
「ヨリ、あれとやり取りしたみたい」
オサがハネを見る。
「やり取り?」
「言葉じゃない。身振りで。こっちがやったことを真似したり、あっちがやったことをヨリが返したら、また返したりしたって」
「それを先に言え。ヨリ。最初から聞かせてくれるか」
鼻をすすりながら顔を上げ、昨日のことから話した。
森で見つけたときは弱っていて、腹を空かせていたからリンガルを一つやったこと。今日も水場で会い、何度も追い払ったけれど、それでもついてきたこと。
「言葉は?」
「通じない」
「身振りは?」
少し考えた。
「分かってるのか分からない。でも、真似する」
ハネの腕から抜けると少し前へ出て、木の陰へ向かって、ぴょん、ぴょん、ぴょん、と三回跳んだ。
木の陰からは何の反応もない。みんなが黙って見守っていると、やがて大きな身体が少し出てきて、同じように三回跳んだ。
シロが目を細める。
「もう一回、今度はもっと大きくやってくれ」
ヨリはうなずき、今度は膝を深く曲げて三回大きく跳んだ。
しばらく何の反応もなかったが、やがて大きな身体が三回跳ねた。
「ほお」
シロが声を漏らす。少しだけ得意になってシロを見た。視線を戻すと、大きな身体はもう木の陰へ隠れていた。
オサは改めてハネに話を聞いた。あれは武器を見て止まり、木の陰へ隠れてから、ずっと動きがないこと。
しばらく考えたあと、オサが口を開いた。
「今は殺さない」
リキがオサを見る。
「でも」
「今は、だ。こちらには迎えない。このまま少し様子を見る。危険なら、明日ここを出る」
リキはしばらく黙っていたが、やがて武器を下げた。ハネもそれを見て、ゆっくり弓を下ろす。
* * *
弓が下がった。槍も下がった。
白ブタは、木の陰でようやく息を吐いた。
ここへ来た途端、弓を向けられた。その横では槍まで構えられ、見たこともない巨大な亀がこちらへ動いてきた。
やばい、逃げようとは思った。でも、背中を向けた瞬間に矢が飛んできそうで動けなかった。
そうして固まっているうちに、森から武器を持った神様の仲間がさらに三人増えた。
もう駄目かと思った。
それから神様たちは何か話し始めた。何を話しているのかは、まったく分からない。
途中で神様がまた三回跳んだ。あれだけは白ブタにも分かったから返した。
何の意味があるのかは知らない。でも、跳んだあとも矢は飛んでこなかったので、たぶん、間違ってはいないんだろう。
そして今、ようやく武器が下がった。ひとまず助かった、ということだろうか。
耳の折れた神様も、向こうで仲間の中にいる。白ブタは木の陰からその姿をじっと見ていたが、近づくのも怖いし、逃げるのはもっと怖い。結局、そこから動けなかった。
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