また、ひとり
朝から、岩場に怒鳴り声が響いていた。
「だから、大丈夫だってば!」
「大丈夫かどうかの話じゃねえ!」
ヨリとリキが、鼻先がぶつかりそうな距離で睨み合っている。
その少し横で、ハネは地面に広げた獣の皮を膝で押さえていた。昨日の狩りで剥いだものだ。シロと子ども二人も並び、石のへらで裏に残った肉や脂をこそげている。
水汲みは、群れの雌がやることが多い。今日はハネが手を離せない作業があり、それでヨリに頼むことにしたのだった。水汲みには、漏れないように細工した大きな革袋を使う。基本は二袋で、それでも水を満たせば十分に重い。それをヨリが三袋持っていくと言い出した。
「ヨリ」
ハネが呼んだが、ヨリは聞こえなかったふりをして、空の水袋をまとめている。
「三袋は私でもきついよ」
「持てる」
「持てるのは分かってるよ」
ヨリは昨日、言われたよりずっと遠くまで採集に行った。けれど、持ち帰れたのはリンガルばかりだった。帰ってみれば狩りの成果があり、みんなで肉を食べた。ヨリのリンガルには誰も手を付けなかった。誰もヨリを責めなかったけれど、それが余計に気に触った。
だから、今日はちゃんと役に立つことをみんなに見せたい。それだけなのに!
「何やってんだ」
横から声が飛び、ヨリの左耳がぴくりと動いた。リキだった。
「何も」
「聞こえてたぞ、またむちゃしようとしてるだろ」
「してない」
「おまえな。行きに持てたって意味ねえんだぞ」
「ちゃんと持って帰れる!」
「だから最後まで無理なくやれって言ってんだ!」
リキの声が大きくなり、ヨリも負けずに声を張った。
「できる!」
「できねえって言ってんじゃねえ!」
「だから、大丈夫だってば!」
大きな声に、皮をこすっていた子どもたちが肩をすくめた。子どもの一人が、そっとハネの背中側へ寄ると、もう一人もついていく。
シロだけは手を止めなかった。石のへらを動かしながら、一度だけヨリを見る。ヨリの尻尾が、いつの間にか上がりかけていた。
「あ」
ヨリも気づいて慌てて片手で押さえたが、それをリキに見られた。
「……何」
「何も言ってねえだろ」
「今、笑った!」
「笑ってねえ!」
また声が大きくなった。
「おまえ、昨日だって――」
「昨日は関係ない!」
「関係あるだろ!」
ヨリの目が吊り上がった。押さえたはずの尻尾が、またピンと立っていた。
ハネが何か言おうとした、そのときだった。
「もういい」
低い声が割って入った。オサだった。
「準備しろ」
リキは口を開きかけ、閉じた。
「……すみません。つい」
それで終わった。リキはそれ以上ヨリを見ず、自分の準備へ戻る。子どもたちも、おそるおそる作業へ戻り、岩場は静かになった。
「ヨリ」
ハネがもう一度呼んだが、ヨリは返事をせず、そのまま森へ入った。
* * *
群れが見えなくなってから、ヨリの尻尾がぴんと立った。
「……あいつめ」
足元に落ちていた細い棒を拾い、道端の草を叩いた。
ばしっ。
少し歩くと、今度は木の幹を叩く。
「いつも文句ばかり言いやがって」
ばしっ。
言い返したいことは、まだいくらでもあった。でも、もうリキはいない。ヨリは棒を握ったまま歩いた。草を叩き、枝を叩き、しばらく何もせず歩いたかと思えば、思い出したようにまた叩く。
水場までは遠い。いつもの道を、木の根を越え、細い斜面を下り、湿った場所を避けながら進む。歩いても歩いても、朝の怒鳴り声が頭から離れなかった。
だから、後ろで何かが動いたことにも気づかなかった。
* * *
ばしっ。
何かが鳴って、白ブタは目を開けた。
木々の間から薄い朝の光が差している。昨日の夜、神様がいた岩場を見張っているうちに、そのまま眠ってしまったらしい。身体が重い。喉が痛く、口の中はからからだった。
ばしっ。
また音がした。寝ぼけたまま顔を上げると、木々の間を小さな影が歩いていた。右耳がよれている。
神様いた!
一気に目が覚めた。白ブタは立ち上がり、考えるより先に、その後を追った。
神様はこちらを見ない。手にした棒で道端の草を叩くたびに尻尾がぴんと立ち、気づいたようにまた下がる。何歩か歩くと、今度は木の枝を叩いた。
ばしっ。
何をしてるんだろう。
しばらく歩くうちに、少しずつ頭が働き始めた。神様は相変わらず、草や木を棒で叩いている。叩く場所に決まりがあるようには見えない。何もせず歩いていたかと思えば、思い出したように脇の草を叩く。
もしかして、何かの儀式だろうか。山の悪いものを追い払っているとか。そう思って見ると、ますますそれらしく見えてきた。
神様は白ブタに気づいていないようだ。白ブタにも少しずつ、神様の格好を眺める余裕が出てきた。
神様は、服が変だった。形も変だが、作りも変だった。白ブタの着ている服は、端は機械で切ったみたいに真っ直ぐで、縫い目も同じ間隔で並んでいる。神様の服はそうじゃない。布の端が少し波打ち、縫い目もガタガタで、ところどころ短い糸が飛び出していた。茶色っぽい布も均一じゃなく、色の薄いところと濃いところがあり、何度も洗ったせいなのか全体に色あせている。とはいえ、不潔な感じはしない。
腰に巻いた紐のようなもので服を留めているが、その紐さえ太さが揃っていないし、波打っている。足元には靴ではなく、草履っぽいものを履いているが、左右で大きさが違っていた。腰には古びた小さな鞘のようなものが下がっているのが見える。全体的に、素人が見よう見まねで作ったみたいだ。
これ、全部手作りなんか? 店で売ってるような物が、一つもない。
ばしっ。
また神様が木の幹を叩く。山の神様の見回りだろうか。そう思うと、オーラが見えてきた。
森は続いている。朝の冷たい空気は歩くうちに少しずつ暖かくなり、白ブタの額には汗がにじんできた。何度も木の根につまずきそうになり、息が上がる。それでも立ち止まるわけにはいかなかった。小さな背中は、こちらを待ってはくれない。
必死に足を動かす白ブタをよそに、神様は一度も振り返らず、ときどき草や木を叩きながら、同じ調子で森の奥へ進んでいった。
どれくらい歩いただろう。喉はもう、唾を飲み込むのも痛かった。
そのとき、水の音がした。
白ブタは顔を上げた。木々の向こうで、光が揺れている。
何だ?
水だあああああ!
神様のことが、頭から消えた。白ブタは前へ出ると、足元を流れる澄んだ水へ、ほとんど転ぶようにしゃがみ込んで両手を突っ込んだ。
冷たい。
顔を近づけ、そのまま飲んだ。冷たい水が口に入り、喉を通って、体内に落ちていく。止まらなかった。昨日から、まともな水を飲んでいないのだ。こんなに水がうまいと思ったことはなかった。顔を上げて息をし、また飲む。腹の中に冷たさが溜まっていく。それでも飲んだ。
しばらく飲み続けて、息が漏れた。
ふう。
水があれば大丈夫。少なくとも、喉が渇いて死ぬことはない。それだけで、どうにかなる気がした。
白ブタは水辺に座り込んだ。しばらく何も考えず、流れる水を見ていた。キラキラした光の反射を見ているうちに、身体の力が抜けていく。
助かった。本当に、助かった。
ふと、顔を上げる。
「あれ」
神様がいない。
白ブタは立ち上がった。周りを見ても、あるのは木と草と、水を飲んだ川だけで、神様の姿はどこにもない。
「神様?」
返事はない。少し歩いて探してみたが、いない。
どっちへ行った?
追いかけようにも、方向すら分からない。白ブタは森を見た。同じような木ばかりで、ここを離れたら戻ってこられる自信もない。せっかく見つけた水まで失う。ここから離れるわけにはいかない。
白ブタは、その場に座った。川の音だけが、やけに大きく聞こえる。
また、ひとりになってしまった。
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