神様
「……神様」
口に出した途端、爺さんの話が現実になった気がした。
狐みたいな顔をした神様は、三十メートルほど先で立ち止まったまま、こっちを見ている。どう見ても人間じゃない。背丈は白ブタの胸よりずっと低く、小学生くらいだろうか。右耳だけが少しよれていて、背中には籠を背負っていた。
神隠しなんて考えていたところに、人間じゃない何かが二本足で立っている。しかも服まで着ている。爺さんが言っていた山の神だろうか。
いやいや、どう見ても山の神様だろ!
そうじゃないなら、コスプレ? クオリティ高すぎだろ。
神様は何も言わない。
「……あの」
こわごわ声をかけてみたが、反応はない。
「ここ、どこですか」
やっぱり返事はなかった。聞こえてない? 言葉が分からない? それとも、神様にいきなり「ここどこですか」は失礼だったか。
どうしたらいいんだろ。ひょっとして逃げた方がいいのかもしれない。でも、足が痛くて立てそうにない。喉も渇いたし腹も減っている。走って逃げるなんて無理!
白ブタが座ったままでいると、神様は少しだけ首を動かした。何を考えているのか分からない。犬なら尻尾を見れば何となく分かりそうなものなのに、その尻尾もほとんど動いていなかった。
神様が背中の籠に手を入れて、何かを取り出した。赤くて丸い。
リンゴ?
少し茶色っぽいけど、形はリンゴに見える。神様は実を持ったまま白ブタを見て、それから、こっちへ投げた。実は白ブタの少し手前に落ちる。反射的に身体を引くと、実は地面を転がって止まった。
何だ。何をされた。
もう一度神様を見るが、襲ってくる様子はない。足元を見ると、やっぱりリンゴに見える。
食えってこと?
腹が鳴った。朝から何も食べていない。今が何時なんだろう。昨日コンビニで買ったパンは、道路に散らばったままだ。思い出したら、また気分が悪くなった。
今は考えんとこう。
知らない山で拾った、リンゴに似た実。得体がしれないし、普通なら食わない。毒入りかもしれん。でも、神様がくれたものだ。
腹がまた鳴った。
……一口くらいなら。
白ブタは実を拾って鼻に近づけた。変な匂いはしない。むしろ、甘い香りがする。服の袖で表面をこすってみる。
「……これ、食べていいんですか」
神様は答えなかった。こっちを見てすらいない。籠の中を覗いて、何かを確かめている。
その甘い香りにたまらず、白ブタは実をかじった。
うえっ、酸っぺえ!
思わず顔をしかめた。硬いし、酸味が強いし、少し渋い。でもまあ、食えないことはない。だいたいリンゴだ。スーパーで売ってるやつより、ずっと酸っぱいけど。
もう一口かじると、まだ酸っぱい。でも、腹に入る。それだけで十分だった。気づけば次々とかじっていて、腹が減っているせいか、酸っぱさにもすぐ慣れた。あっという間に最後まで食べてしまった。
全然足りない! もう一個!
顔を上げたとき、神様はもう歩き出していた。
「え」
待ってくれ、と言いかけてやめた。そもそも待ってもらう理由がない。でも、ここに一人で残ってどうする。一時間近く歩いても、道路も家も見つからなかった。神様は服を着ている。籠も、食べ物も持っている。なら、どこかから来たはずだ。ついていけば、人のいるところに出るかもしれない。
白ブタは立ち上がった。足が痛い。もう歩きたくない。それでも、小さな背中を追った。
* * *
ヨリは後ろを振り返った。
いた!
さっきの生き物が、まだついてきている。あんな生き物は見たことがなかった。身体は妙に太っていて、毛がほとんどない。着ているものも見たことがないし、匂いも知らない。何か弱々しく声を出していたけれど、意味は分からなかった。言葉が通じる相手なのかも分からないから、ヨリは返事をしない。
ただ、ぐったり座っていて、弱っているみたいだった。だからリンガルを一つ投げた。それだけ。近づく必要はないし、投げれば届く。食べている間に離れられると思った。リンガルなら惜しくない。森のあちこちになっていて、みんな好んで食べるものでもない。
今日の籠には、リンガルばかり入っていた。本当は、もっといいものを見つけたかった。木の実でも、根でも、食べられる虫でもよかった。でも、今日も見つけられなかった。これじゃまた、あいつに役立たずと言われそうだ。あいつの顔を思い出して、嫌な気分になる。
考えを振り払って、ヨリは歩いた。しばらくして、また振り返る。
いた!
子オークは歩くのが遅い。何度も木の根につまずきそうになっていて、息も荒い。それでも止まらない。ヨリが歩けば歩き、立ち止まると、向こうも少し離れたところで止まる。
ついてくるな!
このまま群れまで来たらまずい。ヨリは歩みを早めて、しばらくして振り返った。
まだいる。
さっきは、すごい勢いでリンガルを食べていた。最初は酸っぱそうな顔をしていたのに、芯まで食べていた。よほど腹が減っているらしい。でも、もうやるつもりはなかった。あれは一つあげただけだ。
そうして歩くうちに、見慣れた木や岩が増えてきた。この辺りなら、もう何度も通っていて見知っている。群れまではもうすぐだ。ヨリは足を止めて、振り返った。
白くて丸い生き物は、まだいた。
このままじゃ、まずい。
ヨリは走った。木の根を飛び越え、細い木の間を抜ける。いつもの帰り道から少し外れ、茂みを回り込んでから、もう一度振り返った。
いない。
しばらく待っても、姿は見えなかった。やっと振り切れたようだ。ヨリは息を整えると、群れへ戻った。
* * *
木々の間をすり抜ける小さな背中を、白ブタは追い続けた。
さっきの実一個じゃ、腹は全然足りていない。もう一個くらいくれてもいいだろ。ああ、腹が減った。足も痛い。喉も渇いた。それでも、離れたら終わりだ。見失ったら、また一人になる。ついていくしかない。
白ブタは何度も見失いそうになり、そのたびに、木々や草むらの間に見える小さな背中を探した。見えなくなるたびに、胸がざわつく。枝を押し分けながら強引に急いで追いつくと、今度は近づきすぎた気がして足をゆるめた。
神様が振り返る。
怒ってる?
顔を見ても分からない。白ブタはとりあえず止まった。神様がまた歩き出すのを見てから、白ブタも歩く。近づくのは怖い。でも、離れすぎるのはもっと怖い。そんなことを何度も繰り返しているうちに、神様が急に走り出した。
「え」
待ってください、と声を出した。でも、神様は止まらない。白ブタは神様を追って、いままでの人生で一番なんじゃないかと思うくらい必死に走った。足が痛んだが、それどころではない。
しかし、無理だった。足がもつれ、倒れ込んでしまった。小さな背中は、あっという間に木の向こうへ消えた。白ブタは倒れたまま、その方向を見つめていた。
見失った。
足の痛みをこらえつつ立ち上がり、神様が消えた方へゆっくり歩く。どれくらい歩いただろうか。森の匂いに煙の匂いが混じり始め、木々の向こうに、細い煙が上がっているのが見えた。
何かいる。
ゆっくり進んで、木の陰に隠れた。しばらくすると、木々の向こうで小さな火が見えた。その奥には大きな岩がある。割れ目みたいな黒い隙間があったが、中は暗くて何も見えない。誰かいるようだ。
そう思ったとき、黒い割れ目から何かが出てきた。
狐みたいな顔。よれた右耳。
神様だ。
神様は腕に細い枝を抱えていた。小さな火の前まで来ると、そのうちの何本かをくべる。火が少しだけ明るくなった。
神様、いた。
胸の奥が少しだけ軽くなった。でも、神様が出てきたあの暗い穴には、他にも何かいるかもしれない。近づくのは無理だった。白ブタは木の陰から、息を殺してじっと見ていた。
神様はしばらく火のそばにいて、それからまた岩の割れ目へ戻っていった。
ふうっ。息が漏れて、白ブタはへたり込んだ。
帰ろうにも、帰る場所がどっちなのか分からない。そもそも帰れるのかも分からない。やがて、木々の間が暗くなった。
明日の朝までここにいれば、また会える。今度こそ、絶対に見失わない。
そう決めたはずなのに、まぶたはもう半分閉じていた。




