蜂蜜採り
背中の丸い神様が、斜面の上の木の方へ歩いていった。
裂け目のまわりには、また蜂が戻りはじめている。神様はその近くにしゃがみこんで、しばらく何かごそごそしていたが、やがて片手を軽く握ったまま、何食わぬ顔で白ブタのところへ戻ってきた。
嫌な予感がした。
神様は白ブタの腕をぐいと引き寄せると、そのまま自分の脇の下に挟みこんだ。
女の脇に、腕が。というか、腕の脇に胸が!
白ブタの身体が、かちこちに固まった。腕の内側に、神様の脇腹と胸の柔らかさと温かさが伝わってくる。どこを見ていいか分からず、目が泳ぐ。
その隙に、神様が握っていた手を、白ブタの手の甲にかぶせた。手のひらの中で、何かがもぞもぞと動いて、ぐりぐりと押しつけられてくる。
何か押しつけてる。
白ブタは腕を引っこめようとした。神様の小さな身体が、腕ごとぐらりと持っていかれる。白ブタは慌てて力を抜いた。神様はよろけながらも、脇に挟んだ腕を離さず、何度も何度もぐりぐりと押しつけてくる。
五度目に押しつけたところで、神様はようやく手のひらを持ち上げた。その下から、蜂が一匹、ふらふらと飛び立っていった。
白ブタは、自分の手の甲を見た。さっき、あれだけやられた蜂だ。それを、この神様はわざわざ捕まえてきて、手の甲に押しつけていたのだ。
なんてことするんだ、この神様!
心臓が、喉から飛び出しそうなほどばくばく鳴りだした。けれど、痛みはなかった。
……刺されてない? 刺さない蜂?
* * *
サトが、大きな生き物の前に立った。巣を指さし、大きな生き物を指さし、背中の籠を叩いて、手を口もとへ運ぶ。いくつかの身振りを、流れるようにつないでいく。
ランは目を丸くした。サトが、こんなふうに身振りで何かを伝えようとするのを、初めて見た気がした。しかも、分かりやすい。言葉の通じない相手でも、何を言いたいのかが、ちゃんと見て取れる。
けれど、こいつに通じたかどうかは分からない。サトは何も言わず、ただ大きな生き物を見上げている。ランも、黙ってじっと見た。
大きな生き物は、首がちぎれそうなほど横に振った。
通じている。行けと言われているのが分かったから、嫌がっているのだ。
二人に見つめられて、大きな生き物は巣と二人の顔とを、おろおろと見比べた。泣きそうな顔になる。それでも、逃げ出しはしなかった。
それを見て、サトの口の端が持ち上がった。何も言わないまま、一歩だけ大きな生き物に近づいて、背伸びをする。そして、大きな生き物の頬を、ぺろりとなめた。
「うわ。母ちゃん、何やってるっすか。きもいっす」
「親愛のしるしさね」
嘘っす、とランは思った。今朝、ヨリに「さあねえ」と返したときと同じだ。母ちゃんは、こういうとき本当に意地が悪い。
大きな生き物の顔が、見る間に真っ赤になった。身体じゅうをかちこちにこわばらせたかと思うと、慌てて首の後ろに手を回し、垂れていた袋を引っぱり上げて頭にすっぽりかぶる。それから紐を両手でぎゅっと引いて、袋の口をすぼめた。顔は、鼻と目のまわりだけを残して隠れてしまった。その目も、サトから必死にそらしている。
隠れたつもりらしい。
サトは気にした様子もなく、黙って巣を指さした。ランも、同じように巣を指さす。
大きな生き物は、二人の指の先と巣とを見比べて、おそるおそる自分の胸を指さした。ランは、こくりとうなずいた。
どうやら、行くしかないと分かったらしい。大きな生き物の身体が、がたがたと震えだした。
サトのやり方にはついていけないが、オサには蜂蜜を採ってこいと言われている。自分には無理だ。だったら、できる奴にやらせるしかない。
ランはため息をついて、担いでいた槍を下ろした。巣を指さし、それから槍の穂先を斜め上へ突き入れて、横にすっと払ってみせる。根もとを切って、落とす。落ちたら、その籠で受ける。大きな生き物の背中の籠を、とんとんと叩く。
それから、大きな生き物の手首をつかんで引き寄せ、指を一本ずつこじ開けて、槍の柄を握らせた。
「これ、使うっす。あたしは無理っすから」
大きな生き物は、握らされた槍をじっと見下ろした。穂先が小刻みに揺れている。
* * *
怖い。
さっきの蜂は刺さなかった。それは分かった。けれど、だからといって、あの羽音の中へ入っていきたいわけがない。白ブタは、すがるように後ろを振り返った。
二人の神様が、じっとこちらを見ていた。背中の丸い神様も、手足のひょろ長い神様も、目がきらきらしている。期待に満ちた目だ。とても「やっぱり無理です」と言える空気ではない。
かあちゃん、死んだらごめん。
白ブタは槍を握り直した。ふんっ、と鼻息が荒くなる。
「やってやるぞ」
とはいえ、腰は引けたままだった。白ブタは涙目になりながら、へっぴり腰で斜面を登った。
後ろから、煙が流れてきた。手足のひょろ長い神様が、風上で枯れ草をくすぶらせている。
一歩近づくたびに、羽音が大きくなる。裂け目のまわりを飛び回っていた蜂が、白ブタに気づいて、わっと群がってきた。
「ひいいっ」
フードの上を、何かがばちばちと叩く。手の甲に、首の後ろに、蜂がとまる。白ブタは目をつぶりかけて、慌ててこじ開けた。見ないと、巣に槍を入れられない。
けれど、やっぱり痛くなかった。
白ブタは歯を食いしばって、裂け目の前に立った。中をのぞくと、薄暗い奥に、しずくを逆さにしたような形の巣が、天井からぶら下がっていた。表面には、波のような縞模様が幾重にも重なっている。昔テレビで見た、スズメバチの巣にそっくりだ。
籠を背中から下ろして、巣の真下で抱える。それから、右手の槍を裂け目に差しこんだ。巣が天井にくっついている細い根もとを探って、穂先を当てる。手応えがあった。ぐっと力を込めて、横に払う。
ずるり、と重いものが外れた。
巣が、裂け目から滑り落ちてくる。白ブタは慌てて籠を突き出した。どさっ、と腕にずしりとした重みがかかる。籠の中に、巣が丸ごと収まっていた。
「やったぞ!」
腹の底から声が出た。
言ってから、自分の声の大きさに驚いた。こんな大声を出したのは、いつ以来だろう。子どものころは、たぶん出していた。けれど、部屋にこもるようになってからは、しゃべることさえほとんどなかった。
* * *
大きな生き物が、籠を抱えて斜面を下りてきた。
頭の袋の上にも、腕にも、まだ蜂が何匹かくっついている。それでも、さっきまでとはまるで違う歩き方だった。背筋を伸ばし、籠を大事そうに胸の前で抱えて、一歩一歩、踏みしめるように下りてくる。
ランは思わず駆け寄った。籠の中をのぞきこむ。割れた殻のすき間から、黄金色の中身がとろりとあふれていた。
「お前、すごいっすね!」
ランは大きな生き物の肩を、バンバンと叩いた。サトも籠をのぞきこんで、満足そうにうなずく。
「大したもんだ」
それからサトは、籠の中の巣に手を突っこみ、殻をばりばりとむしり取った。中から、蜜をたっぷり含んだ巣がのぞく。サトはその端を、指でちぎり取った。
「採った者の役得だよ」
そう言って、ちぎり取ったかけらをさらに三つに分け、ランと大きな生き物と、自分とに渡した。大きな生き物には、口に運ぶしぐさをしてみせる。
ランは、かけらにかぶりついた。とろりと甘い蜜が口いっぱいにあふれて、尻尾が勝手に揺れた。
* * *
甘い。
かけらをかじった瞬間、白ブタは目を閉じた。とろりとした甘さが、舌から喉の奥まで広がっていく。噛むと、ろうのようなものがくにくにと歯にからんだ。
隣では、神様たちも同じようにかけらにかぶりついていた。
神様たちは、楽しそうに何か話している。何を言っているのかは、さっぱり分からない。けれど、背中の丸い神様が身ぶり手ぶりを交えて話しはじめた。槍を突き出すまね。何かが落ちてくるまね。それを、腕を突き出して受け止めるまね。それから白ブタを指さして、手の甲をぽんぽんと叩く。手足のひょろ長い神様が、口を開けて楽しそうに声を上げ、白ブタの方を見る。
自分のことを話している。しかも、悪く言っているのではない。
褒めてくれているのだ。
白ブタは、どんな顔をしていいか分からなかった。誰かに褒められた記憶なんて、ほとんどない。学校でも家でも、怒られるか、笑われるか、相手にされないかのどれかだった。照れくさくて、蜂蜜のついた指をなめるふりをして、うつむいた。
帰り道、手足のひょろ長い神様は、白ブタの隣を歩いた。何か話しかけては、ときどき肩をばしばしと叩いてくる。白ブタは、叩かれるたびによろけながら、へらへら笑っていた。
採った。オレが採ったんだ。
蜂の巣の詰まった籠を抱え直して、白ブタは胸を張った。死ぬかもしれないと思って、それでも行って、ちゃんと帰ってきた。運動会のリレーで、一着でテープを切ったら、きっとこんな気分なんだろう。
* * *
日が傾くころ、ヨリは岩棚の入口に座ったまま、森の方を見ていた。
足首はまだ痛む。今日一日、何もできなかった。
森の奥から、声が聞こえてきた。ランの弾んだ声と、サトの笑い声だった。
ヨリは岩壁に手をついて、立ち上がった。おとなしくしていろと言われているのは分かっている。それでも、気になって仕方がない。痛む足をかばいながら、一歩、また一歩と、入口の外へ出た。
木々のあいだから、三つの影が現れる。ランが何か言いながら、大きな生き物の肩をバンバンと叩いている。大きな生き物は籠を胸に抱えて、胸を張って歩いていた。足どりが、見たこともないほど軽い。サトまでが、珍しく声を上げて笑っていた。
大きな生き物は、二人の話に加わっているわけではない。言葉が分からないのだから、加われるはずもない。それなのに、三人の輪の真ん中にいた。
私と一緒のときより、ずっと楽しそうだ。
ランが、こちらに気づいた。叩いていた手が止まり、弾んでいた声がすっとしぼむ。サトも笑うのをやめた。二人は静かになって、ヨリの方へ歩いてくる。
ヨリの胸の奥が、ちりっと焼けた。どうしてこんなに腹が立つのか、自分でもよく分からなかった。
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