↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/16

意外な才能

「母ちゃん。煙、焚くっすよ」


返事はなかった。母親は、巣の前に着いてからも上の空だった。大きな生き物の籠から枯れ草と朽ち木を下ろさせると、あとはランに任せきりで、自分は大きな生き物の隣にしゃがみこんでいる。ランは仕方なく火を起こし、くすぶらせた煙を風上から巣の方へ流していった。煙で蜂を追い払っておいて、そのすきに巣を切り取る。蜂蜜採りは、いつもそうする。


蜂は煙を嫌って裂け目のまわりから離れる。けれど、少し待つとまた戻ってくる。何度枯れ草を足しても、黒く波打つ幹は少しも静かにならなかった。


「母ちゃん、全然減らないっす」


「そうだねえ」


母親は巣を見もせずに答えた。大きな生き物の指を一本ずつつまんで、爪の形を眺めている。


蜂では死なない。けれど、何か所も刺されれば何日も寝込む。こんな巣に手を突っこめば、一か所や二か所では済まないだろう。


母親はようやく顔を上げて、裂け目のまわりに渦を巻く蜂をちらりと見た。


「こりゃ無理だね。この巣は諦めるよ」


母親はあっさり立ち上がって、煙を踏み消した。燠まで念入りに踏みにじって、惜しむ様子は少しもない。


「せっかく来たのに……」


ランは肩を落として、槍を担ぎ直した。


* * *


白ブタは、まだ緊張していた。


巣の前に着いてからも、背中の丸い神様は白ブタの隣にしゃがみこんで、指を一本ずつつまんでは爪を眺めている。向こうでは、手足のひょろ長い神様が火の番をしている。女が二人。白ブタは膝を抱えたまま、なるべく息を浅くしていた。


背中の丸い神様が、煙を踏み消して立ち上がった。神様たちが帰り支度を始める。どうやら、今日はもう終わりらしい。あの羽音の中へ行けと言われたらどうしようかと思っていた白ブタは、ほっとして膝を抱えていた腕をほどいた。


煙が消えると、追い払われていた蜂が、一匹、また一匹と裂け目のまわりへ戻ってきた。羽音が少しずつ大きくなっていく。けれど白ブタは、女二人からようやく解放されることの方に気を取られていた。巣のいちばん近くに座りこんだまま、のろのろと腰を上げる。


そのとき、手足のひょろ長い神様と目が合った。


その顔が、急に引きつった。目を見開き、耳をぴんと立て、一歩後ずさる。次の瞬間、担いでいた槍の穂先が、まっすぐ白ブタに向けられていた。


え、なんで!?


白ブタは凍りついた。何かしたのか。何か怒らせるようなことをしたのか。さんざんいじり回されたあげく、こんな森の奥で始末されるのか。


けれど、手足のひょろ長い神様の目は、白ブタの顔を見ていなかった。もっと下、白ブタの腕や腹のあたりを見て、震えている。


白ブタは、おそるおそる自分の身体を見下ろした。


パーカーの袖に、蜂がとまっていた。一匹ではない。袖にも、肩にも、腹にも、膝の出たスウェットにも、黒い粒がびっしりと貼りついて、もぞもぞと動いている。耳もとで、ぶうん、と低い羽音がした。


やべえ。


「うわあああああ!」


白ブタは走った。どこへ向かうでもなく、とにかく蜂と槍から逃げたかった。けれど、十年以上まともに運動していない足は、十歩も行かないうちにもつれた。前のめりに倒れた身体が、そのまま斜面を転がり落ちていく。止まらない。ごろごろと何度も回って、ようやく窪みに引っかかって止まったときには、神様たちの姿はずいぶん上の方にあった。


身体じゅうで、蜂が羽音を立てていた。転がり落ちるあいだも、離れずにしがみついていたらしい。腕にも、背中にも、首筋にも、何かがちくちくと当たる。


「痛い! 痛い痛い痛い!」


白ブタは頭を抱えて、地面に丸くなった。涙と鼻水が一緒にあふれてくる。刺されている。全身を刺されている。こんなに刺されたら、死ぬに決まっている。


涙でにじむ目の端に、神様たちの姿が見えた。二人とも斜面の上でしゃがみこんで、何かを手のひらに挟み、くるくる回している。


何やってんの!? 助けてくれよ!


こっちは死にかけているのに、神様たちは振り向きもしない。白ブタは、ますます声を張りあげて泣き叫んだ。


* * *


「ラン、その槍で追っ払ってきな」


「無理っす」


ランは即答した。槍を構えたまま、一歩も前に出られない。あの羽音の中へ入っていったら、今度は自分が地面を転げ回ることになる。


「だろうね」


母親はそれだけ言うと、消したばかりの火のそばへ駆け戻った。さっきまでの呑気な顔は、どこにもない。けれど、火はもう跡形もなかった。燠まで、母親が自分で念入りに踏み消してしまったのだ。


「火を起こしな。急いで」


ランは言われたとおり火起こしの板と棒を取り出し、しゃがみこんで棒を両手に挟んだ。きりきりと回す。けれど、急かされるほど手のひらが滑って、棒の先が板の窪みから外れる。煙どころか、木の粉さえろくに出てこない。


「貸しな」


母親が代わったが、小さな身体では力が続かず、棒はすぐに止まってしまう。二人で代わる代わる回して、ようやく細い煙が上がり、枯れ草に小さな火が移った。母親がそれを吹き起こし、煙を上げる。けれど、煙は上へ上へと昇っていくばかりで、斜面の下に転がっている大きな生き物までは降りていかなかった。風まで巣の方へ吹き上げている。


「ラン、あおぎな」


ランは言われたとおり、両手で煙を下へ向けてばたばたとあおいだ。煙はほんの少しだけ斜面を這い下りては、すぐにまた上へ昇っていく。


ランは手を動かしたまま、斜面の下で丸まって泣き叫んでいる大きな生き物を眺めた。


「……まあ、死んでもしょうがないっすね」


「馬鹿言うんじゃないよ。死なれちゃ、もったいないだろ」


母親が、歯がみするように言った。ランは、母親が誰かの心配でこんなに慌てるのを、初めて見た気がした。もっとも、心配しているのは大きな生き物そのものというより、大きな生き物の中身の方かもしれないが。


煙を足し、場所を変え、また足す。そのあいだも、大きな生き物は丸まったまま泣き叫んでいた。その声が、少しずつ、少しずつ小さくなっていく。


静かになってきた。これは、ほんとに死ぬかもしれないっすね。


ランが冷めた目で眺めている横で、母親はますます慌てて煙を足した。


* * *


どれくらい、そうしていただろう。


泣き疲れて、白ブタはしゃくりあげることしかできなくなっていた。喉が痛い。鼻が詰まって息が苦しい。地面に押しつけた額が冷たい。


それでも、身体はまだ動いた。


おかしい、と思ったのは、それからしばらくしてからだった。全身を刺されたはずなのに、どこも痛くない。むき出しだった首筋も、手の甲も、腫れているところはひとつもなかった。さっきから身体に当たっていたちくちくした感触も、痛みとは違う気がする。


白ブタはおそるおそる、抱えていた腕をほどいた。


蜂は、まだ何匹か手の甲にとまっていた。けれど、よく見ると、針を突き立てようとしては、うまく刺さらずに滑っている。何度も尻を押しつけては、あきらめたように飛び立っていく。パーカーの袖口から、もぞもぞと蜂が這い出してきた。服の中にまで入りこんでいたらしい。白ブタは、今になってぞっとした。


あれ。


痛く、ない?


白ブタは、ぽかんとして自分の手を見つめた。羽音は、いつの間にかずいぶん遠くなっていた。


顔を上げると、斜面の上から、背中の丸い神様が下りてくるところだった。煙の名残をまとったまま、白ブタの前にしゃがみこむ。そして、白ブタの手をつかんで持ち上げ、手の甲に顔を近づけて、刺されたはずの場所をじっと見つめた。


その目が、きらりと光った。


* * *


母親は、大きな生き物の手から目を離さなかった。


「ラン、ちょっと来な」


ランはおそるおそる斜面を下りた。羽音はもうほとんど聞こえない。大きな生き物は地べたに座りこんだまま、泣きはらした顔で、ぼんやりと自分の手を見ている。


「見てごらん」


母親は、大きな生き物の手の甲を指さした。毛のない白い肌には、赤い点ひとつなかった。


「あれだけ蜂にたかられて、十も数えるあいだどころじゃない。ずっとだよ。あたしらなら、とっくに顔も手も腫れあがって、動けなくなってる」


「……そういえば、腫れてないっす」


「服の上からなら、刺さらないのも分かる。こいつの服は、腕までぜんぶ覆ってるからね。けど、手の甲と首はむき出しだった。そこにも、蜂はびっしりたかってたんだよ。なのに、ひとつも刺されてない」


母親は大きな生き物の手の甲をつまんで、指で押してみせた。ぷにぷにと沈んで、指を離すと、すぐに戻る。


「ほら。あの白い袋と同じだよ。押すとへこんで、戻る。さっき、蜂が尻を押しつけては滑ってるのが見えたんだ。針が刺さる前に、この弾むので押し返されちまうんじゃないかね」


そこまで言って、母親は顎に手をやった。ランは、母親のこういう顔をよく知っている。珍しい草の根を掘り当てたときと、同じ顔だ。


「こいつ、蜂に刺されないんじゃないかい」


「そんなこと、あるっすか」


ランは、地べたでぼんやりしている大きな生き物を見た。泣きはらした顔のそばを、蜂が一匹かすめていく。大きな生き物はそれに気づきもせず、まだ不思議そうに、自分の手を眺めていた。

読んでいただき、ありがとうございます。

続きを追いかけてもらえるなら、ブックマークをしていただけると嬉しいです。

面白いと思っていただけたら、下の★で評価をお願いします。とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。