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死にたい令嬢と、姿なき居候 ~国外追放された令嬢は、自分にしか見えない変な少年とうるさく生きる~   作者: 星乃 緋咲


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6 あなたの鼓動を、聞かせてください


 老人の畑は、宿から歩いて半刻ほどの場所にあった。


 畑の一角は大きく掘り返され、育ちかけていた作物が泥にまみれている。


 地面には、馬の蹄ほどもある大きな足跡が残されていた。


 「こいつが森へ続いている」


 老人は北に広がる森を指差した。


 「わしはここで待っている。気をつけてくれ」


 エレノアは頷き、足跡を追って森へ入った。


 ライトもそのあとへ続く。


 「ねえ、その剣、もう一回動かしてよ」


 「遊びではありませんのよ」


 「ちょっとだけ。くるくる回すやつ」


 「魔力の無駄です」


 「魔力って減るんだ」


 「先ほどから、何をおっしゃっているのです?」


 話しながら、二人は森の奥へ進んでいく。


 しばらくすると、ライトが地面を指差した。


 「エクレア、足跡がある」


 「先ほどから、それを追っているのです」


 「知ってた。今のは確認」


 「そうですか」


 「信用されてない返事だなあ」


 さらに進んだところで、茂みの奥から低い唸り声が聞こえた。


 二人の足が同時に止まる。


 枝が折れる音とともに、巨大な猪が姿を現した。


 黒い毛に覆われた身体は、エレノアの腰ほどの高さまである。口元から伸びる二本の牙は、短剣のように鋭い。


 猪は前脚で地面をかき、エレノアへ狙いを定めた。


 「……想像していたより大きいですわね」


 「今から帰る?」


 「依頼を引き受けた以上、そういうわけにはまいりません」


 エレノアは鞘から剣を抜いた。


 鋼の刃が宙へ浮かび、切っ先を猪へ向ける。


 ライトの目が再び輝いた。


 「おお、すごーい!」


 「静かにしてください。集中できません」


 エレノアが右手を振る。


 剣が空を切り、猪へ向かって飛んでいった。


 しかし猪は横へ跳び、刃をかわす。


 剣が背中を浅くかすめ、黒い毛がわずかに散った。


 怒り狂った猪が、エレノアへ向かって突進する。


 「エクレア、避けろ!」


 エレノアは慌てて横へ飛んだ。


 牙がドレスの裾を裂き、身体が地面へ投げ出される。


 衝撃で念動力が途切れ、剣が地面へ落ちた。


 猪が向きを変える。


 立ち上がる時間はない。


 再び突進してくる猪とエレノアの間へ、ライトが割って入った。


 「ライトさん、何を――」


 「剣、借りるぞ!」


 ライトは地面へ落ちていた剣へ手を伸ばした。


 その指が柄へ触れた瞬間、エレノアの胸の奥で何かがかすかに震えた。


 重いはずの剣が、まるで初めから彼の手に従うことを知っていたかのように浮かび上がった。


 「え?」


 エレノアは目を見開いた。


 ライトが大きく腕を振る。


 彼の動きに合わせて、剣が宙を走った。


 刃が猪の牙を弾き、突進の方向をわずかにそらす。


 猪はエレノアの横を駆け抜け、そのまま木の幹へ激突した。


 「僕も魔法使えるじゃん!」


 「そんなはずはありません!」


 エレノアは剣へ命令していない。


 魔法を発動させようとすらしていなかった。


 それなのに、ライトが腕を動かすたび、剣は彼自身の手足のように正確に向きを変える。


 その感触は、エレノアの念動力とひどく似ていた。だが同じものなのか、まったく別の魔法なのか、今の彼女には判別できなかった。


 猪がふらつきながら立ち上がった。


 ライトが再び剣を構える。


 「細かいことはあと! もう一回来るよ!」


 猪が地面を蹴った。


 ライトは逃げずに、その場で剣を振り下ろす。


 浮かぶ刃が一直線に走り、猪の首元を斬り裂いた。


 巨体が勢いを失い、ライトの足元へ滑り込むように倒れる。


 森に静寂が戻った。


 ライトはしばらく剣を構えたまま、動かなくなった猪を見つめていた。


 「倒した?」


 「そのようですわね」


 ライトが剣から手を放す。


 それと同時に、剣は支えを失ったように地面へ落ちた。


 エレノアの背筋へ、冷たいものが走る。


 剣を動かしていた力は、自分の念動力とあまりにもよく似ていた。


 それでも、魔力を奪われた感覚はない。ライト自身が魔法を使ったようにも見える。


 ただ一つ確かなのは、エレノアが操ったときより、はるかに速く、正確だったということだけだ。


 まるでライトの腕が、初めから剣の動かし方を知っていたかのように。


 「エクレア?」


 呼びかけられ、エレノアは我に返った。


 「なんですの?」


 「顔色悪いけど、大丈夫?」


 「……問題ありませんわ」


 答えながら、エレノアはライトの立つ場所へ目を向けた。


 猪との戦いで激しく動いたはずなのに、ライトは息一つ切らしていない。


 肩も、胸も、まったく上下していなかった。


 息が整っているのではない。


 そもそも、呼吸そのものをしていなかった。


 「ライトさん」


 「何?」


 エレノアは返事をせず、ライトの前へ回り込んだ。


 その手首をつかみ、指先を押し当てる。


 「ちょっと。いきなり何?」


 「動かないでください」


 「朝から積極的だね、エクレア」


 「黙ってください」


 脈を探す。


 しかし、いくら待っても指先には何も伝わってこなかった。


 エレノアは場所を変え、今度はライトの首筋へ指を添えた。


 それでも同じだった。


 「……ありませんわ」


 「何が?」


 「脈が」


 「え?」


 ライトは自分の胸へ手を当てた。


 しばらく黙り込み、やがて首を傾げる。


 「本当だ」


 「なぜご自分で驚いていますの?」


 「いや、普段わざわざ確認しないだろ。今日も心臓動いてるかなって」


 「普通は確認しなくても動いているものです!」


 エレノアはライトの胸元へ耳を近づけた。


 何も聞こえない。


 衣服の向こうにあるはずの心臓は、完全に沈黙していた。


 「それなのに、どうして動けますの?」


 「僕に聞かれても困るんだけど」


 「昨夜、パンをかじっていたでしょう」


 「あれ、歯形すらつかなかったんだけど」


 「では、最後に食事をしたのはいつですの?」


 「忘れた」


 ライトはしばらく考えたものの、答えは出なかったらしい。


 やがて、いつもの軽い笑みを浮かべる。


 「まあ、元気なんだからいいんじゃない?」


 「よくありません」


 地面には、先ほど倒した大猪が横たわっている。


 森の中に長居するのも危険だった。


 エレノアはまだ納得できないまま、ライトから離れた。


 「この件は、宿へ戻ってから詳しく調べます」


 「解剖とかしないよね?」


 「必要であれば」


 「今のうちに逃げようかな」


 「わたくしからは離れられないことをお忘れですか?」


 「あ……」


 エレノアは大猪へ手をかざしかけ、すぐに下ろした。


 「これは無理ですわ。わたくしが動かせるのは、せいぜい自分と同じくらいの重さまでですもの」


 「じゃあ、僕がやるよ」


 ライトが片手をかざす。


 大猪の巨体が、地面すれすれまでゆっくりと浮かび上がった。


 「……どうして、あなたにはできるのです?」


 「力任せに持ち上げるんじゃなくて、全体を包んで支えるんだよ。自分の身体を動かすみたいにさ」


 「余計に分かりませんわ!」


 木々の枝を避けながら、二人は来た道を引き返した。


 ◇


 森から戻ったエレノアを見て、宿の前にいた人々は言葉を失った。


 巨大な猪が、何の支えもなく宙に浮かんでいたからだ。


 エレノアが手を下ろす。それに合わせて、ライトが大猪の身体を地面へ下ろした。


 重い音とともに土煙が舞った。


 「まさか、本当に……」


 依頼を出した老人が、恐る恐る大猪へ近づいた。


 何度もその身体を確かめ、ようやく死んでいることを理解したらしい。


 「お嬢さんが、これを?」


 「はい。ご依頼の大猪で間違いありませんか?」


 「あ、ああ。間違いない」


 老人は大猪とエレノアを交互に見比べている。


 やがて、その目に涙が浮かんだ。


 「ありがとう。これで畑を守れる」


 その言葉に、エレノアは何も返せなかった。


 ありがとう。


 ただそれだけの言葉だった。


 けれど、誰かから心の底から感謝されたのは、いつ以来だろう。


 公爵令嬢として人々の前へ立てば、誰もが笑顔で頭を下げた。


 しかし、あれはエレノア個人へ向けられたものではない。


 ヴァルフォード家の娘へ向けられた、形式だけの敬意だった。


 今は違う。


 目の前の老人は、家名さえ失ったエレノアへ感謝している。


 「大したことではありませんわ」


 どうにかそれだけ答えると、隣からライトの声が聞こえた。


 「顔、にやけてるぞー」


 「にやけていません」


 「いや、ちょっとにやけてる」


 「黙っていてください」


 エレノアが小声で言うと、周囲の人々が不思議そうな顔をした。


 彼らには、ライトの姿も声も認識できない。


 傍から見れば、エレノアが何もない空間へ突然怒り出したようにしか見えないのだろう。


 「お嬢ちゃん」


 宿の女主人が、おそるおそる声をかけてきた。


 「疲れてるなら、少し休んだ方がいいんじゃないかい?」


 「……お気遣いありがとうございます」


 ライトが隣で腹を抱えて笑っている。


 エレノアは、その足を思い切り踏みつけた。


 「痛っ!」


 誰にも聞こえない悲鳴が上がった。


ありがとうございました。

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