4 初めて聞いたはずなのに
一階へ戻ると、幸いにも浴室はまだ空いていた。
女主人から新しい手拭いを借り、エレノアはライトとともに廊下の奥へ向かった。
浴室の扉を開けたライトが、中を覗き込む。
それから、入口を通り過ぎて湯船の脇まで歩いた。
エレノアは廊下に立ったまま、その様子を見ていた。
「いかがですか?」
「うん。この辺なら引っ張られない」
ライトはもう一度、エレノアの立っている位置を確かめた。
「じゃあ、そこで待ってて」
「分かっております」
扉が閉まる。
エレノアはその横へ寄り、壁に背を預けた。
ほどなくして、水を汲む音が聞こえてくる。
自分の入浴は邪魔されたというのに、どうして彼の入浴には付き合わなければならないのだろう。
「……まったく」
小さく呟くと、扉の向こうから声がした。
「あー……生き返る……」
心底気持ちよさそうな声だった。
エレノアは目を閉じた。
「長湯はなさらないでくださいね」
「はいはい」
返事に続いて、調子の外れた鼻歌が聞こえてきた。
とても、急いでいるようには思えなかった。
◇
浴室の扉が開き、ライトが満足そうな顔で出てくる。
「いやあ、いい湯だった」
「そのわりには、まったく濡れておりませんわね」
エレノアは思わず指摘した。
湯に浸かっていたはずなのに、ライトの黒髪は一筋も濡れていない。服にも水滴一つ付いておらず、渡した手拭いも使われた形跡がなかった。
「本当だ」
ライトは自分の髪へ触れ、不思議そうに首を傾げた。
「自動乾燥機能でもついてるのかな、僕」
「そんな人間がいてたまりますか」
「僕に言われても知らないよ」
気にはなった。
しかし今のエレノアには、その理由を考えるだけの気力が残っていなかった。
二人は女主人へ手拭いを返し、二階の部屋へ戻った。
その途中、エレノアは女主人から丈夫な縄を一本借りている。
何に使うのかと尋ねられたが、「身を守るためです」とだけ答えておいた。
部屋へ入ると、エレノアは扉へ鍵をかけた。
「それでは、寝る前にこちらを」
「何、その縄」
「動かないでください」
「待って。何するつもり?」
エレノアはライトの背後へ回り、その両腕を胴体ごと縄で縛り始めた。
さらに余った縄を使って両足までまとめていく。
あっという間に、ライトは首から下をぐるぐる巻きにされた。
「いやいやいやおかしいおかしい」
「どこがです?」
「何もかもだよ! 僕はされるよりするほうがいいんだ!」
「何をおっしゃっているのか分かりません」
ライトは身体をくねらせ、縄から抜け出そうとした。
しかしエレノアが結んだ縄は、びくともしない。
「なんでこんなに縄の縛り方がうまいの? 絶対、普段からこういうことしてたんだろ!」
「最低限の教養ですわ」
「お嬢様じゃなくて、女王様の方だった?」
エレノアはようやくベッドへ腰を下ろした。
「これで安心して休めます。では、おやすみなさい」
「ちょっと待って」
掛け布を持ち上げようとした手が止まる。
「今度はなんですの?」
「僕はどこで寝るの?」
「知りません」
「この部屋、ベッド一つしかないけど」
エレノアは無言で床を指差した。
「床?」
「床ですわ」
「縛られたまま?」
「その方が安全ですから」
「誰の安全だよ」
「わたくしのです」
ライトは何か言い返そうとしたが、やがて諦めたらしい。
身体を横へ倒し、縛られたまま床へ寝転がった。
後頭部が床板へ当たり、こつんと硬い音がする。
「……硬いなあ」
エレノアは聞こえなかったふりをして、靴を脱いだ。
「床、すごく硬いなあ」
掛け布を持ち上げる。
「おまけに冷たいなあ。これ朝になったら身体の半分くらい床板になってるかもしれないなあ」
エレノアはベッドへ横になり、ライトへ背を向けた。
「はあ……」
「……うるさいですわよ」
「大丈夫。気にしないで。僕はこの冷たくて硬い床で、静かに朝を待つから」
「まったく静かではありません!」
「独り言だよ。寒いなあ。硬いなあ。背中痛いなあ」
「もう分かりましたわ!」
エレノアは勢いよく身体を起こした。
「わたくしが床で寝ますから、ライトさんがベッドをお使いください!」
「え、いいの?」
「一晩中ぼやかれるよりはましです!」
「じゃあ、この縄も解いてくれる?」
「それは駄目です」
「扱いが捕虜なんだよなあ」
エレノアはベッドから降りると、床に転がるライトへ手を伸ばした。
縄の中央をつかみ、その身体を持ち上げる。
「うわー、力持ち」
エレノアはライトをベッドへ放り投げた。
「うわっ!」
縛られた身体が、柔らかな音を立てて寝台へ沈む。
「もっと丁寧に置けないの!?」
「ベッドで眠れるだけありがたいと思ってください」
エレノアは床へ予備の毛布を敷き、その上へ横になった。
確かに硬く、冷たい。
けれど、何日も馬車に揺られ続けた身体には、それさえ気にならないほど疲労がたまっていた。
「おやすみなさい、ライトさん」
「二人で寝ればいいのに……」
「結構です」
最後にそれだけ答えて、エレノアは目を閉じた。
意識は、すぐに眠りへ沈んでいった。
◇
朝。
窓から差し込む光に、エレノアはゆっくりと目を開けた。
身体が温かい。
背中にも、床の硬さを感じなかった。
頭の下には柔らかな枕があり、胸元まで掛け布がかけられている。
エレノアは何度か瞬きを繰り返した。
どう見ても、ベッドの上だった。
慌てて身体を起こし、床へ目を向ける。
そこには、縄でぐるぐる巻きにされたライトが転がっていた。
「おはよう」
ライトが床に横たわったまま言った。
「ベッドの寝心地はどうだった?」
「なぜ、わたくしがベッドにいますの?」
「さあ」
「あなたが、わたくしをベッドへ移したのではありませんか?」
「さあ」
ライトはそれだけ答えると、さりげなく視線を逸らした。
ライトが身体をわずかに揺らす。
両腕も両足も、昨夜と同じように縄で固く縛られている。
「では、わたくしが寝ぼけて……? まあ、いいですわ。何もされていないようですし」
エレノアは、自分が寝ていたベッドを見た。
続いて、床へ転がるライトを見る。
ライトを縛る縄は、昨夜エレノアが結んだときとまったく同じ形を保っていた。
「いつまで床で転がっているつもりですの?」
「好きで転がってるわけじゃないんだけど」
ライトが身体を揺らし、縄を解くよう訴える。
エレノアはベッドから下りると、固く結んだ縄を一つずつほどいていった。
ようやく自由になったライトは立ち上がり、大きく両腕を伸ばす。
「二度と味わいたくない目覚めだ……」
「それはこちらの台詞です」
エレノアは縄をまとめながら、ふとライトの手首へ目を向けた。
一晩中、あれほど固く縛っていたはずなのに、肌には縄の痕が一つも残っていない。
赤くすらなっていなかった。
「どうしたの?」
「……いいえ。なんでもありませんわ」
昨夜から不可解なことばかりだ。
一つ一つ気にしていたら、きりがない。
エレノアは借りた縄を手に、ライトとともに一階へ下りた。
ありがとうございました。




