3 離れられないのは、どちらでしょう
浴室には、木の香りと白い湯気が満ちていた。
エレノアはゆっくりと湯船へ入った。
温かさが、冷えていた身体へ染み込んでくる。
「……はあ」
思わず息が漏れた。
ようやく、静かになった。
隣から口を挟まれないだけで、こんなにも落ち着くものなのか。
そう思ったところで、ふと気づく。
そういえば、まだ名前を聞いていなかった。
こちらは名乗った。
エレノア・ヴァルフォードだと、きちんと伝えた。
それなのに、妙な名前で呼ばれるたびに訂正するばかりで、相手の名前を聞きそびれていた。
「……わたくしばかり名乗って、不公平ですわね」
どこから来たのかも、なぜ自分にしか見えないのかも分からない。
それどころか、名前さえ知らない相手と、こうして宿まで来てしまったのだ。
お風呂から出たら、まず名前を聞こう。
またふざけたことを言い出しても、今度はきちんと答えてもらう。
そう決めて、湯船の縁へ背を預けたときだった。
「あー!!」
壁の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「……はい?」
エレノアが顔を向ける。
木の壁から、少年の背中が飛び出してきた。
壁が壊れたわけではない。
穴が開いたわけでもなかった。
まるでそこに何もないかのように、少年の身体だけが通り抜けてくる。
「えっ――」
避ける間もなかった。
少年の背中がエレノアの肩へぶつかり、大きな水しぶきが上がった。
「きゃっ!」
エレノアは慌てて湯船の縁へつかまる。
その脇で、少年が湯の中から顔を出した。
「うわっ! 何!? 今度は何!?」
「それはこちらの台詞です!」
少年が顔を向けかける。
「見ないでください!」
「うわーお。ごめん!」
少年はすぐに背を向けた。
濡れた髪から、ぽたぽたと湯が落ちている。
「違うんだって。なんか身体が引っ張られて!」
「どうして、それでお風呂に入ってくるのですか!」
「僕も知らないよ! 外にいたのに、急に引き戻されたんだよ!」
エレノアは少年が出てきた壁を見た。
傷一つない。
先ほどと同じ木の壁が、そこにある。
確かに、扉から入ってきたわけではなかった。
「……壁を、通り抜けましたわよね?」
「うん。ぶつかると思った」
「わたくしにはぶつかりましたけれど」
少年はエレノアに背を向けたまま、湯船から出た。
そのまま壁へ手を伸ばす。
手のひらは、木の表面でぴたりと止まった。
押しても、擦っても、今度は少しも通り抜けない。
「……あれ。普通に壁だ。引っ張られてるときだけ、物を貫通するってことかな?」
少年は壁から手を離し、自分の身体を見下ろした。
「引っ張られる?」
「外を歩いてたら、あるところから急に後ろへ引かれてさ。無理に進もうとしたら、もっと強くなって」
「それで、ここまで?」
「足が滑って、一気に。ゴムで飛ばされたみたいだった」
エレノアは少し考えた。
自分にしか見えない少年。
その少年が、離れようとしたら引き戻された。
扉も壁も関係なく、まっすぐ自分のところへ。
「……あなた、わたくしから離れられないのではありませんか?」
少年が黙る。
「えー」
それから、振り向きかけた。
「こちらを見ないでください」
「はい」
「お話はあとにしましょう。まず、外へ出てください」
「また引っ張られちゃうかもよ?」
「扉のすぐ外でお待ちください。それなら、あまり離れませんでしょう?」
少年は慎重に扉へ向かった。
一歩進んでは足を止め、身体が引かれないことを確かめている。
少年はようやく取っ手へ手をかけ、廊下へ出ていった。
扉が閉まった。
エレノアはしばらくその扉を見つめ、やがて深く息を吐いた。
名前を聞く前に、確認しなければならないことが増えてしまった。
身支度を整えて浴室を出ると、少年は扉のすぐ横に立っていた。
こちらへ顔を向け、片手を上げる。
「ちゃんと待ってたよ」
エレノアは返事をしかけて、少年の姿に目を留めた。
「……あら?」
なぜか、少しも濡れていなかった。
シャツの袖も裾も乾いている。髪にも水気はなく、先ほど湯船へ落ちたことなどなかったかのようだった。
「あなた、お召し物はどうなさったのです?」
「服? 何が?」
「先ほど、ずぶ濡れでしたでしょう?」
少年は自分の袖をつまんだ。
それから髪にも触れ、不思議そうに首を傾げる。
「あ。本当だ。乾いてる」
「乾かしたのではないのですか?」
「何もしてないよ。ここで待ってただけ」
本人にも分からないらしい。
エレノアはもう一度少年の服を見たが、眺めたところで理由が分かるはずもなかった。
「……分からないことばかり増えていきますわね」
「僕に言われても」
エレノアは小さく息を吐き、廊下の先へ目を向けた。
「お部屋へ戻る前に、確かめておきましょう」
「何を?」
「どこまで離れられるのかです。また飛んでこられては困ります」
「僕も、もう飛びたくない」
その点については、意見が一致した。
浴室の前から少し移動すると、酒場へ続くまっすぐな廊下に出た。
今は誰も通っていない。
エレノアは壁際に立ち、少年へ手を向けた。
「わたくしは、ここにおります。あなたはゆっくり離れてみてください」
「はいはい」
少年はエレノアの隣から歩き始めた。
「一、二、三……」
歩幅を揃え、一歩ずつ進んでいく。
五歩。
まだ何も起こらない。
「意外と行けるね」
「油断なさらないでください」
「六、七……八」
そこで、少年の足が止まった。
腰の辺りへ手を当て、少しだけ身体を傾ける。
「あ。ここ」
「引っ張られますか?」
「ちょっとだけ。後ろから引っかけられてる感じ」
少年は片足を半歩ほど前へ出した。
上半身がわずかに後ろへ揺れる。
「うん。強くなった」
「それ以上は進まないでください」
「分かってるって。さすがに二回も同じことはしないよ」
エレノアは返事をせず、少年の足元を見ていた。
少年は前へ出した足を戻した。
「信用してないでしょ?」
「今度は、わたくしが動きます。そのままでいてください」
エレノアは少年へ一歩近づいた。
少年の肩から、ふっと力が抜ける。
「あ、なくなった」
確かめるため、エレノアは元の位置へ戻った。
少年が再び腰へ手を当てる。
「戻った」
エレノアが近づけば緩み、離れれば引かれる。
少年は自分の周囲を見回してから、エレノアを見た。
「僕が歩かなくても、お前が離れたら引っ張られるんだ」
「そのようですわね」
「僕だけ不便じゃない?」
「わたくしは、入浴中にあなたが飛んできましたけれど」
「ああ。お互い不便だね」
少年は慎重にこちらへ戻ってきた。
今度は踏ん張らず、自分の足で歩いている。
少年の歩幅で、八歩ほど。
そこを越えると、離れるにつれて引く力が強くなる。
ひとまず、それだけ分かれば十分だった。
「これからは、離れる前に声をかけてください」
「エクレアもね。僕がぼんやりしてるときに走り出さないでよ」
「あなたを引きずって走る趣味はありません」
「よかった。そういう趣味があったらどうしようかと思った」
エレノアは小さく息を吐き、階段へ向かった。
少年は今度こそ、すぐ隣をついてきた。
◇
部屋へ戻ると、エレノアは机の上へ鍵を置いた。
少年がベッドへ近づきかけたので、その背中へ声をかける。
「わたくしのベッドです」
「まだ何もしてないんだけど」
「座る前に申し上げているのです」
少年はベッドから離れ、窓際に立った。
その姿を見て、エレノアはようやく思い出した。
お風呂から出たら聞こうと、決めていたことがあった。
「そういえば、まだお名前を伺っていませんでしたわね」
少年は自分を指差した。
「僕?」
「ほかに誰がいるのです」
「イナバライト。イナバが名字で、ライトが名前。ライトでいいよ」
「イナバ……ライト」
聞き慣れない響きを、エレノアは確かめるように繰り返した。
初めて聞いたはずの名が、なぜか胸の奥に引っかかった。
けれど、理由を探ろうとすると、地下牢で過ごした最後の数日と同じように、記憶に白い霧がかかる。
エレノアは小さな違和感を、疲れのせいだと片づけた。
それから、少年の服装へ目を向ける。
襟元の開いた白いシャツに、首から垂れ下がった細長い布。初めて会ったときから、どこの服なのだろうと思っていた。
「お召し物を見て、そうではないかと思っておりましたが……やはり、異国の方でしたのね」
「まあ、遠くから来たのは確かだね」
少年はあっさり答えた。
エレノアは小さく頷く。
見慣れない服装も、ときどき口にする意味の分からない言葉も、そのせいなのだろう。
「では、ライトさんとお呼びします」
「うん。よろしく、エクレア」
「……わたくしも、名乗り直した方がよろしいですか?」
ライトは何も言わずに笑った。
エレノアは、それ以上の訂正を諦めた。
ともかく、ようやく名前が分かった。
呼びかけるたびに「あなた」で済ませなくてもよくなっただけ、少しはましだろう。
窓の向こうは、すっかり暗くなっている。
気が緩んだせいか、身体の重さを急に思い出した。
何日も馬車に揺られ、見知らぬ道を歩き、ようやく宿へ着いたと思えば、この騒ぎである。
これ以上、何かを考える余裕はなかった。
「……もう、休みましょう」
エレノアはベッドへ腰を下ろした。
薄い掛け布を持ち上げたところで、ライトが口を開く。
「あ。その前に、僕もお風呂に入りたい」
「いいですよ。どうぞ、ご自由に」
返事をして、靴を脱ごうとする。
しかし、ライトは扉へ向かわなかった。
「いや、ついてきてもらわないと」
エレノアの手が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……なぜです?」
「さっき測ったじゃん」
ライトが床を指差した。
「お風呂は一階。ここは二階の突き当たり。お前がここにいたら、途中で引っ張られるよ」
エレノアは黙った。
つい先ほど、二人で確かめたばかりだった。
離れられるのは、少年の歩幅で八歩ほど。
階下の浴室は、この部屋とは反対側の端にある。
ここからでは、明らかに遠すぎた。
「ですが、先ほどお入りになったでしょう?」
「あれは落ちたんだよ。洗ってないんだよ」
「ずいぶん豪快な入り方だとは思いました」
エレノアは掛け布を見下ろした。
ようやく眠れると思ったのに。
「……わたくしに、浴室の前で待てと?」
「そう。扉のすぐ外なら大丈夫だったし」
「あなたが入っている間、ずっと?」
「途中で部屋に戻られたら、僕も戻ることになるね」
ライトが、浴室のある方角へ顔を向けた。
「壁を抜けて」
「分かりました。そこまでで結構です」
エレノアは掛け布を元に戻した。
脱ぎかけた靴を履き直し、立ち上がる。
「手短にお願いします」
「ありがとう、エクレア」
「エレノアです」
訂正を諦めたはずなのに、口が勝手に動いていた。
――――――――――――――――――――
【第四話 縄と一つのベッド】
一階へ戻ると、幸いにも浴室はまだ空いていた。
女主人から新しい手拭いを借り、エレノアはライトとともに廊下の奥へ向かった。
浴室の扉を開けたライトが、中を覗き込む。
それから、入口を通り過ぎて湯船の脇まで歩いた。
エレノアは廊下に立ったまま、その様子を見ていた。
「いかがですか?」
「うん。この辺なら引っ張られない」
ライトはもう一度、エレノアの立っている位置を確かめた。
「じゃあ、そこで待ってて」
「分かっております」
扉が閉まる。
エレノアはその横へ寄り、壁に背を預けた。
ほどなくして、水を汲む音が聞こえてくる。
自分の入浴は邪魔されたというのに、どうして彼の入浴には付き合わなければならないのだろう。
「……まったく」
小さく呟くと、扉の向こうから声がした。
「あー……生き返る……」
心底気持ちよさそうな声だった。
エレノアは目を閉じた。
「長湯はなさらないでくださいね」
「はいはい」
返事に続いて、調子の外れた鼻歌が聞こえてきた。
とても、急いでいるようには思えなかった。
◇
浴室の扉が開き、ライトが満足そうな顔で出てくる。
「いやあ、いい湯だった」
「そのわりには、まったく濡れておりませんわね」
エレノアは思わず指摘した。
湯に浸かっていたはずなのに、ライトの黒髪は一筋も濡れていない。服にも水滴一つ付いておらず、渡した手拭いも使われた形跡がなかった。
「本当だ」
ライトは自分の髪へ触れ、不思議そうに首を傾げた。
「自動乾燥機能でもついてるのかな、僕」
「そんな人間がいてたまりますか」
「僕に言われても知らないよ」
気にはなった。
しかし今のエレノアには、その理由を考えるだけの気力が残っていなかった。
二人は女主人へ手拭いを返し、二階の部屋へ戻った。
その途中、エレノアは女主人から丈夫な縄を一本借りている。
何に使うのかと尋ねられたが、「身を守るためです」とだけ答えておいた。
部屋へ入ると、エレノアは扉へ鍵をかけた。
「それでは、寝る前にこちらを」
「何、その縄」
「動かないでください」
「待って。何するつもり?」
エレノアはライトの背後へ回り、その両腕を胴体ごと縄で縛り始めた。
さらに余った縄を使って両足までまとめていく。
あっという間に、ライトは首から下をぐるぐる巻きにされた。
「いやいやいやおかしいおかしい」
「どこがです?」
「何もかもだよ! 僕はされるよりするほうがいいんだ!」
「何をおっしゃっているのか分かりません」
ライトは身体をくねらせ、縄から抜け出そうとした。
しかしエレノアが結んだ縄は、びくともしない。
「なんでこんなに縄の縛り方がうまいの? 絶対、普段からこういうことしてたんだろ!」
「最低限の教養ですわ」
「お嬢様じゃなくて、女王様の方だった?」
エレノアはようやくベッドへ腰を下ろした。
「これで安心して休めます。では、おやすみなさい」
「ちょっと待って」
掛け布を持ち上げようとした手が止まる。
「今度はなんですの?」
「僕はどこで寝るの?」
「知りません」
「この部屋、ベッド一つしかないけど」
エレノアは無言で床を指差した。
「床?」
「床ですわ」
「縛られたまま?」
「その方が安全ですから」
「誰の安全だよ」
「わたくしのです」
ライトは何か言い返そうとしたが、やがて諦めたらしい。
身体を横へ倒し、縛られたまま床へ寝転がった。
後頭部が床板へ当たり、こつんと硬い音がする。
「……硬いなあ」
エレノアは聞こえなかったふりをして、靴を脱いだ。
「床、すごく硬いなあ」
掛け布を持ち上げる。
「おまけに冷たいなあ。これ朝になったら身体の半分くらい床板になってるかもしれないなあ」
エレノアはベッドへ横になり、ライトへ背を向けた。
「はあ……」
「……うるさいですわよ」
「大丈夫。気にしないで。僕はこの冷たくて硬い床で、静かに朝を待つから」
「まったく静かではありません!」
「独り言だよ。寒いなあ。硬いなあ。背中痛いなあ」
「もう分かりましたわ!」
エレノアは勢いよく身体を起こした。
「わたくしが床で寝ますから、ライトさんがベッドをお使いください!」
「え、いいの?」
「一晩中ぼやかれるよりはましです!」
「じゃあ、この縄も解いてくれる?」
「それは駄目です」
「扱いが捕虜なんだよなあ」
エレノアはベッドから降りると、床に転がるライトへ手を伸ばした。
縄の中央をつかみ、その身体を持ち上げる。
「うわー、力持ち」
エレノアはライトをベッドへ放り投げた。
「うわっ!」
縛られた身体が、柔らかな音を立てて寝台へ沈む。
「もっと丁寧に置けないの!?」
「ベッドで眠れるだけありがたいと思ってください」
エレノアは床へ予備の毛布を敷き、その上へ横になった。
確かに硬く、冷たい。
けれど、何日も馬車に揺られ続けた身体には、それさえ気にならないほど疲労がたまっていた。
「おやすみなさい、ライトさん」
「二人で寝ればいいのに……」
「結構です」
最後にそれだけ答えて、エレノアは目を閉じた。
意識は、すぐに眠りへ沈んでいった。
◇
朝。
窓から差し込む光に、エレノアはゆっくりと目を開けた。
身体が温かい。
背中にも、床の硬さを感じなかった。
頭の下には柔らかな枕があり、胸元まで掛け布がかけられている。
エレノアは何度か瞬きを繰り返した。
どう見ても、ベッドの上だった。
慌てて身体を起こし、床へ目を向ける。
そこには、縄でぐるぐる巻きにされたライトが転がっていた。
「おはよう」
ライトが床に横たわったまま言った。
「ベッドの寝心地はどうだった?」
「なぜ、わたくしがベッドにいますの?」
「さあ」
「あなたが、わたくしをベッドへ移したのではありませんか?」
「さあ」
ライトはそれだけ答えると、さりげなく視線を逸らした。
ライトが身体をわずかに揺らす。
両腕も両足も、昨夜と同じように縄で固く縛られている。
「では、わたくしが寝ぼけて……? まあ、いいですわ。何もされていないようですし」
エレノアは、自分が寝ていたベッドを見た。
続いて、床へ転がるライトを見る。
ライトを縛る縄は、昨夜エレノアが結んだときとまったく同じ形を保っていた。
「いつまで床で転がっているつもりですの?」
「好きで転がってるわけじゃないんだけど」
ライトが身体を揺らし、縄を解くよう訴える。
エレノアはベッドから下りると、固く結んだ縄を一つずつほどいていった。
ようやく自由になったライトは立ち上がり、大きく両腕を伸ばす。
「二度と味わいたくない目覚めだ……」
「それはこちらの台詞です」
エレノアは縄をまとめながら、ふとライトの手首へ目を向けた。
一晩中、あれほど固く縛っていたはずなのに、肌には縄の痕が一つも残っていない。
赤くすらなっていなかった。
「どうしたの?」
「……いいえ。なんでもありませんわ」
昨夜から不可解なことばかりだ。
一つ一つ気にしていたら、きりがない。
エレノアは借りた縄を手に、ライトとともに一階へ下りた。
ありがとうございました。




