2 半透明人間?
灯りの正体は、国境沿いに建てられた小さな宿屋だった。
一階は酒場になっているらしく、中から人々の話し声が聞こえてくる。
エレノアが扉を開けると、恰幅のいい女主人が顔を上げた。
「いらっしゃい。泊まりかい?」
「はい。二人で一晩、お願いできますか?」
エレノアの隣では、少年が珍しそうに宿の中を見回している。
しかし女主人は、不思議そうに首を傾げた。
「二人?」
「ええ。わたくしと、こちらの方です」
エレノアが少年へ手を向ける。
女主人の視線は、その手の先を素通りした。
「お嬢ちゃん、一人じゃないか」
「……え?」
「こんな時間に女の子一人で危ないねえ。連れとは、どこかではぐれたのかい?」
エレノアは隣に立つ少年を見た。
少年も女主人を見つめている。
「おーい、おばさーん、ボケてんのかー」
少年は女主人の正面まで歩いていき、その顔の前で手を振った。
それでも女主人はまったく反応しなかった。
「ちょっと待て」
少年の顔から、いつものふざけた表情が消えていく。
「エクレア……僕のこと見えてる?」
「見えています」
「本当に?」
「先ほどから、ずっと見えています!」
「ちょっと待って」
少年はそう言うと、酒場の奥へ歩いていった。
向かった先では、体格のいい男が一人で酒を飲んでいる。そのすぐ後ろの席には、別の男が背中を向けて座っていた。
「何をするおつもりですの?」
エレノアの問いには答えず、少年は酒を飲んでいる男の背後に立った。
そして、何のためらいもなく後頭部を殴った。
「いってえ!」
殴られた男が勢いよく振り返る。
当然、そこに立っている少年には目もくれない。
男の視線は、その向こう側に座っていたもう一人の男へ向けられた。
「てめえ、いきなり何しやがる!」
「はあ? 何の話だよ」
「とぼけんじゃねえ!」
「誰がとぼけてるってんだ!」
胸ぐらをつかまれた男が立ち上がり、相手の手を振り払う。
酒の入った杯が床へ落ち、派手な音を立てて砕けた。
「表に出やがれ!」
「上等だ!」
二人の男は怒鳴り合い、そのまま殴り合いを始めた。
椅子が倒れ、テーブルが揺れる。
騒ぎを聞いた周囲の客たちが、二人を止めようと集まっていく。
その中心にいる少年へ目を向ける者は、誰一人としていなかった。
「なるほど」
少年は殴った方の手をさすりながら、納得したように頷いた。
「何が『なるほど』ですか! なぜ突然、無関係な方を殴ったのです!」
「最終確認」
「確認のために人を殴らないでください!」
少年は女主人の正面へ戻ると、その顔の前で何度か手を振った。
女主人は少年に気づく様子もなく、酒場で始まった喧嘩へ向かって怒鳴っている。
「店の中で暴れるんじゃないよ!」
「おーい」
少年が呼びかけても、女主人は振り向かない。
少年の表情から、少しずつ笑みが消えていく。
エレノアの隣まで戻ってくると、自分の両手を不思議そうに見つめた。
「殴ることはできる。でも、姿も声も認識されてない」
「そうみたいですわね」
少年はしばらく黙り込んだ。
やがて、確かめるようにエレノアを見る。
「……エクレア」
「なんですの?」
「僕、どうやらお前にしか見えてないらしい」
「そのようですわね」
「透明人間になっちゃった」
「わたくしには見えているのですが」
「じゃあ、半透明人間」
「少しも透けていません」
少年は自分の腕や身体を確かめるように見回した。
エレノアからは、普通の人間と何も変わらないように見える。
床には少年の影が落ちているし、歩けば靴音も鳴っている。
しかし、周囲の者たちは誰も少年へ目を向けない。
まるで少年だけが、この世界から切り離されているかのようだった。
「でも、触ることはできるんだね」
少年が握った拳を見つめる。
その向こうでは、先ほど殴られた男たちがまだ取っ組み合いを続けていた。
「嬉しそうに言わないでください」
「見えない。聞こえない。でも殴れる」
「最悪の組み合わせですわね」
「これなら王様の頭を後ろから殴っても」
「絶対にやめてください!」
「冗談だって。エクレアは冗談が通じないな」
「あなたの場合、実行しそうだから止めているのです!」
女主人が、酒場で暴れる男たちへ怒鳴りながら近づいていく。
これ以上ここで話していれば、エレノアまで騒ぎへ巻き込まれかねない。
「それで、泊まるのかい?」
喧嘩を仲裁しながら、女主人がエレノアへ尋ねてきた。
「はい。お願いします」
「一人部屋なら、銀貨二枚だよ」
エレノアは少し迷った。
少年の姿が女主人に見えていないのなら、二人分の料金を支払う必要はない。
そもそも少年に寝床が必要なのかすら分からなかった。
「それでは、一人部屋でお願いします」
「え? いいの?」
「あなたは数に含まれていないようですから」
「なんか嫌だな、その言い方」
女主人へ銀貨を手渡すと、代わりに部屋の鍵を渡された。
「部屋は二階の突き当たりだよ。風呂を使うなら、一階の奥にあるからね」
「お風呂もあるのですか?」
「ああ。今なら誰も使ってないよ」
女主人から手拭いを受け取り、エレノアは階段を上がった。
少年もそのあとをついてくる。
案内された部屋は、ベッドと小さな机が置かれただけの簡素なものだった。
窓の外には暗くなった森が広がり、階下からは酒場の騒がしい声が聞こえてくる。
これまで暮らしていた屋敷の部屋とは、何もかも違う。
それでも、今夜は屋根のある場所で眠れる。
エレノアが荷物を机へ置く横で、少年は真っ先にベッドへ腰を下ろした。
「お、意外と柔らかい」
「わたくしのベッドです」
「え?」
「横になろうとしていましたわよね?」
少年は上半身を倒しかけた姿勢で止まった。
「嘘でしょ……」
エレノアは小さく息を吐くと、手拭いを手に取った。
何日も馬車に揺られ、そのあとも土埃の舞う道を歩いてきたのだ。
温かい湯が使えるのなら、今は何より身体を休めたかった。
「わたくしは、お風呂に入ってきます」
「じゃあ……僕は少し外を見てくる……」
少年もベッドから立ち上がった。
「また騒ぎを起こさないでくださいね」
「大丈夫。景色を見るだけだから」
「本当に、見るだけにしてください」
「信用ないなあ」
「知らない方を突然殴る人の、何を信用しろとおっしゃるのです?」
少年は聞こえなかったふりをして、部屋から出ていった。
◇
一階でエレノアと別れると、少年は裏口から外へ出た。
宿の裏手には、薪を積んだ小さな小屋と、踏み固められた土の庭があった。
夜風が、シャツの裾を揺らしていく。
見上げれば、山々の黒い輪郭の上に、無数の星が瞬いていた。
「……すげえ」
少年はしばらく空を眺め、それからゆっくりと息を吸い込んだ――つもりだった。
胸が痛まない。
息が詰まることも、咳き込むこともなかった。
今日はずいぶん歩いた。それなのに、まだ歩ける。
そんな当たり前のことが、不思議で仕方がなかった。
少年は病院で死んだ。
病気は、最後まで治らなかった。
それなのに今の身体は、生きていた頃のものよりも自分になじんでいるように感じられた。
最後に覚えているのは、誰かが自分を呼ぶ声。
返事をしようとしたのに、声が出なかった。
まだ死にたくないと、それだけを考えていた。
大したことがしたかったわけではない。
学校へ行って、くだらない話をして、帰りにどこかへ寄り道をする。
そういう明日が、まだ自分にもあると思いたかった。
けれど、病室で次の朝を迎えることはなかった。
気がつくと、見知らぬ崖のそばにいた。
知らない森。
知らない山。
目の前には、見覚えのない服を着た少女がいた。
どうしてここにいるのか、説明してくれる者は誰もいなかった。
そして、その少女は明らかに死のうとしていた。
自分が欲しくてたまらなかった明日を、手放そうとしていた。
だから、腹が立った。
彼女が何を抱えているかも知らないくせに。
自分の悔しさをぶつけただけだったのかもしれない。
それでも、放っておくことはできなかった。
「……で、今度は誰にも見えないと」
少年は自分の手のひらを眺めた。
握れば、握れる。
物に触れることはできる。
なのに、あの少女以外には見えていない。
生き返ったのか。
それとも、死んだままなのか。
それすら分からなかった。
夜空へ文句を言い、少年は裏庭の先へ歩き始めた。
小屋の脇を通り、宿から離れていく。
「……ん?」
不意に、腰の辺りが後ろへ引かれた。
服が何かに引っかかったのかと思い、振り返る。
何もない。
シャツの裾を触ってみても、どこにも引っかかってはいなかった。
少年は首を傾げ、もう一歩踏み出した。
今度は、先ほどよりも強く引かれた。
「何これ」
進めないわけではない。
力を込めれば、足は前へ出る。
ただ、その分だけ、身体を後ろへ引く力も強くなっていった。
まるで、腰に巻きつけられた見えないゴムを、無理やり引き伸ばしているようだった。
「なんだ……これ……」
少年は腰を落とし、両足で地面を踏みしめた。
身体を前へ傾け、一歩。
さらに、もう一歩。
背中を反らされそうになりながらも、なんとか持ちこたえる。
「いや、行ける。もうちょっと」
踏み出した靴の下で、小石が転がった。
「あ」
足が滑る。
支えを失った身体が、一気に後ろへ引き戻された。
「うわっ!?」
足をつこうとしても、地面を捉えられない。
少年は肩越しに振り返った。
宿の壁が、すぐそこまで迫っていた。
「なんだよ、これ!」
止まらない。
少年は慌てて目を閉じた。
ありがとうございました。




