1 誰か、私を止めてください
「エレノア・ヴァルフォード。貴様との婚約を破棄し、本日をもって国外追放に処す」
広間に響き渡った王太子の声を、エレノアは静かに聞いていた。
驚きはなかった。
いずれ、こうなるような気がしていたからだ。
王太子の隣には、エレノアの義妹が立っている。
その細い肩を抱き寄せながら、王太子はまるで罪人でも見るような目をエレノアへ向けていた。
義妹の毒殺を企てた罪。
もちろん、エレノアには身に覚えがない。
毒物が自室から見つかったことも、義妹の紅茶へ毒を入れたところを侍女が目撃したことも、すべて誰かによって仕組まれたものだ。
事件が起きてから裁決が下される今日まで、エレノアは十日間、城の地下牢へ閉じ込められていた。
昼も夜も分からない暗闇の中で、取り調べのたびに同じ言葉を繰り返した。
「わたくしはやっていません。信じてください」
そう訴えた。
何度も、何度も。
声が枯れても、取り調べ役も、食事を運んでくる牢番も、まともに耳を貸してはくれなかった。
疲れ切っていたせいだろうか。牢で過ごした最後の数日だけは、深い霧の向こうにあるように記憶が曖昧だった。
けれど、一つだけはっきりしている。
誰も、エレノアを信じなかった。
婚約者である王太子も。
屋敷で働いていた使用人たちも。
そして――。
「お父様」
エレノアは広間の端に立つ父親へ目を向けた。
せめて父親だけは、自分を信じてくれる。
心のどこかで、まだそんな期待を抱いていた。
しかし父親は、娘と目を合わせようともしなかった。
「ヴァルフォード家は、お前との縁を切る」
返ってきたのは、それだけだった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていった。
エレノアは目を伏せる。
涙は出なかった。
泣いてしまえば、義妹を憎んでいるからだと言われる。
声を荒らげれば、罪を認めたも同然だと笑われる。
ならば最後くらい、公爵令嬢として振る舞おう。
エレノアは牢暮らしで汚れ、ところどころ不自然にちぎれたドレスの裾をつまみ、優雅に腰を落とした。
「謹んで、お受けいたします」
広間がざわめく。
無実を訴えると思っていたのだろう。
泣きながら許しを請うとでも思っていたのだろう。
しかし、もうどうでもよかった。
信じてほしいと願うことにも、疲れてしまった。
◇
エレノアを乗せた馬車は、その日のうちに王都を出発した。
何日も走り続け、やがて国境へ到着する。
馬車を降ろされたエレノアへ、護送を担当していた騎士が小さな袋を差し出した。
中に入っていたのは、わずかな銀貨と硬いパンだけだった。
「二度と、この国の地を踏むな」
騎士はそれだけ告げると、エレノアへ背を向けた。
引き止める間もなく、馬車は走り去っていく。
車輪の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
あとに残されたのは、エレノア一人。
振り返れば、これまで暮らしてきた国。
前を向けば、薄暗い森へ続く見知らぬ道。
どちらにも、自分の居場所はなかった。
エレノアは行き先も決めないまま歩き始めた。
日が傾き、空が赤く染まっていく。
王都から遠く離れた国境に、宿屋など見当たらない。
森の奥からは、魔物と思われる低い鳴き声が聞こえていた。
夜になれば、気温もさらに下がるだろう。
このまま歩き続けたところで、どこへ行けばいいのか分からない。
貴族として育てられたエレノアには、一人で金を稼ぐ方法も、森で食べ物を探す方法もなかった。
それ以前に、生きたいと思えなかった。
どれくらい歩いただろう。
気がつくと、エレノアは切り立った崖の前に立っていた。
眼下には、深い谷が広がっている。
底は暗く、ここからでは見えなかった。
ここから落ちれば、すべて終わる。
もう誰かに嫌われることもない。
身に覚えのない罪を責められることもない。
信じてくれない人たちへ、必死に無実を訴える必要もない。
エレノアは銀貨の入った袋を地面へ置いた。
硬いパンも、その隣へ並べる。
これを見つけた誰かが使えばいい。
目を閉じ、ゆっくりと足を前へ出す。
怖くないわけではなかった。
それでも、生き続けることの方がずっと恐ろしかった。
誰かが呼び止めてくれるはずもない。
そう分かっているのに、エレノアはなぜか背後の静けさへ耳を澄ませていた。
あと一歩。
その一歩を踏み出そうとしたときだった。
「ねえ。飛び降りる前に、そのパンもらっていい?」
背後から聞こえた声に、エレノアの足が止まる。
誰もいなかったはずだ。
驚いて振り返ると、先ほど置いた袋の前に、見知らぬ少年がしゃがみ込んでいた。
その姿を目にした瞬間、胸の奥に、魔力を使ったときと似たかすかな震えが走った。
けれど今は、その違和感を考えている余裕などなかった。
年齢は、エレノアと同じくらいだろうか。
整えられていない黒髪に、襟元の開いた白いシャツ。細長い布が首からだらしなく垂れ下がっている。
どれもエレノアには見覚えのない服装だった。
少年は硬いパンを手に取り、指先で何度か叩いている。
「これ、本当にパン? 鈍器じゃなくて」
「……どなたですの?」
「通りすがりのイケメンな少年だ」
「イケメン……?」
「そこ? 気になるの? ぶっ飛ばすよ、これで」
「人の荷物へ勝手に触れる者は、通りすがりではなく盗人と呼びます」
「僕には捨てたように見えたけど」
少年はパンを持ち上げ、崖の方へ視線を向けた。
「金と食い物をきれいに並べて、自分だけ崖の前に立ってる。何をしようとしてるのかなぁ」
「あなたには関係ありません」
「じゃあ、このパンも関係ないな。もらうぞ」
「どうぞ、お好きになさってください」
「お、太っ腹。さすがお嬢様」
少年は遠慮なくパンへかじりついた。
ガリッ、とパンとは思えない音が鳴る。
少年の動きが止まった。
「……歯、折れたかも」
「その程度で済んでよかったですわね」
もう一度、崖へ向き直る。
しかし少年が現れたことで、先ほどまでの静かな決意が乱されていた。
「飛ぶの?」
「そうだと言ったら?」
「死んじゃうよ」
「当たり前です」
「ぐちゃぐちゃになっちゃうよ」
「はい」
「骨盤とか背骨とかが砕けて、折れた肋骨が内臓に刺さるんだよ。頭も割れて、脳も潰れて、全身が内出血だらけ。すぐに死ねるとも限らない。それで、誰にも見つけてもらえないまま、最後は獣に食べられるんだよ」
「いったいなんなんですの! あなたは!」
エレノアは少年を睨みつける。
「わたくしが、どのような目に遭ったかも知らないくせに」
「知らねえよ。会ったばっかりなんだから」
「でしたら、放っておいてください」
「嫌だ」
先ほどまでふざけていた少年の声が、わずかに低くなる。
「生きられるくせに、自分から死にたいって言ってる奴を見ると、なんか腹が立つ」
「……勝手な理由ですわね。あなたに、わたくしの苦しみの何が分かるのです?」
「知らないよ、メンヘラ女。だから説明しろ。僕がその話を聞いて、それでも死んだ方がいいと思ったら、そのときはもう一回考えればいい」
「なぜ、見ず知らずのあなたに話さなければならないのですか?」
「お前、どうせ話し相手は僕しかいないだろ」
「随分と失礼なことを言いますわね」
「違うの?」
言い返そうとして、エレノアは口を閉ざした。
確かに、自分にはもう誰もいない。
家族も、婚約者も、頼れる使用人もいない。
目の前にいる少年が、今のエレノアに話しかけてくれる唯一の人間だった。
「三日」
少年が三本の指を立てる。
「三日だけ、生きてみない? それでも死にたかったら、三日目にまたここへ来ればいい」
「なぜ三日なのです?」
「一日は短い。一週間は長い。三日くらいがちょうどいい」
「驚くほど適当ですわね」
「人生なんて、大体そんなもんでしょ」
少しだけ格好をつけた口調だった。
しかし少年の手には、歯形すらついていない硬いパンが握られている。
エレノアは小さく息を吐いた。
「分かりました。あなたがあまりにも不愉快なので、死ぬ気が少し失せました」
「はいはい」
少年は満足そうに頷くと、銀貨の入った袋を拾い上げた。
そのままエレノアへ背を向け、森へ続く道を歩き始める。
「どちらへ行くのです?」
「知らん」
「この辺りの地理をご存じなのですか?」
「知らん」
「では、どこへ向かっているのです!」
「明るい方」
「虫みたいですわね」
少年の指差した先には、木々の隙間から小さな明かりが見えていた。
人家の灯りかもしれない。
「お前、今日泊まる場所ないんだろ?」
「そうですが……」
「じゃあ行くぞ、姫さん」
「わたくしは姫ではありません。エレノア・ヴァルフォードという名前があります」
「じゃあ行くぞ、エクレア」
「どこをどう聞き違えたら、お菓子になりますの! エレノアです!」
少年はエレノアの抗議を聞き流し、そのまま歩いていく。
銀貨を持っていかれては困るため、エレノアもそのあとを追いかけた。
ありがとうございました。




