第十六話 箔屋町に店を構える
漆器は、すさまじい勢いで売れ始めた。
三郎がまず売ったのは、桜井漆器と黒江漆器の中でも比較的、仕入れ値が安価なものだった。汁椀の組み合わせや、小ぶりの重箱など、一式揃えなくとも単品で売れる品を中心に月賦を展開した。
それが福岡の月給生活者の層に響いた。
月給生活者というのは、不思議な存在だった。
農民と違って、毎月きまった日に決まった金が入る。だから生活は安定している。だがその安定さのために、もっと良い暮らしをしたいという欲が強い。自分の家を富裕層に見せたい。冠婚葬祭のときに、立派な道具を揃えて客をもてなしたい。そう考えるものらしい。明治という一大変革の時代が、庶民にそう思わせるのか。
三郎が安い品を売り始めると、客の中にこんな者が出てきた。
「なんだ、こんな漆器しかないのか」
三郎は待っていた。この言葉を待っていた。
「もっと良いものもございます」
三郎はとっておきの上物を見せた。桜井漆器の最上品だ。黒本膳に黒本椀、汁椀、平皿、中椀、木壺。二十人前の一式である。黒漆の艶が、暗い部屋の中でも自ら光を放つように輝いた。
「これは……黒光りしているじゃないか」
客の目の色が変わった。
「こちらは二十人前一式で四十五円でございます。月賦でしたら、二十三回払いで月々二円となります」
一円は月賦なので、利息である。
「月々二円か……」
男は考え込んだ。三郎はじっと、見つめた。
(月給が十円だとしたら、そのうちの二円。楽ではないが、払えない額ではない。そして目の前には、この黒漆の見事な艶。家に一式あれば、近所に自慢ができる。冠婚葬祭で恥をかかずに済む。どうだ)
「買おう」
男が決めた瞬間に、三郎は内心で快哉を叫んだ。
安い品で月賦の仕組みに客を慣れさせ、やがて高い品を見せて契約を結ぶ。三郎の狙い通りだった。
一ヶ月。二ヶ月。三ヶ月。
月賦の売り上げが、帳面の上で着実に膨らんでいった。
三郎は博多の契約者の家を毎月欠かさず回り、代金を受け取った。幸四郎は久留米と八幡を回り、田村は筑豊を回った。北條は博多に残って帳面の管理と品物の配達を担った。
その年の冬、帳面に記された売り上げと利益は、三郎が桜井を出てから最も大きな数字になっていた。
「やった、やったぞ」
三郎たちはおおいに喜んだ。
ややあって。
三郎たちは大龍丸に乗り込み、ふたたび瀬戸内海を渡って桜井に向かった。漆器を仕入れるためだ。
冬の瀬戸内は、夏とは違う表情をしていた。
空は高く澄み、海の色は夏の翡翠色ではなく、深い紺碧だった。島々の木々は葉を落として、骨のような枝を灰色の空に突き出している。だが松だけは緑を保ち、島影の中にひときわ鮮やかだった。
風は冷たかったが、三郎の体は芯から熱かった。
商売の成功が、血を温めていた。
桜井に着くと、三郎は休む間もなく漆器を仕入れた。
問屋から、これまでで最も大量の桜井漆器を買い付けた。
問屋の主人が目を丸くした。
「越智の若いの、ずいぶん大口だな。景気がいいのか」
「おかげさまで。博多で商いがうまくいっておりまして」
「博多か。あの博多に漆器を売りに行くとは、大したものだ」
三郎は問屋を出ると、すぐに大龍丸に漆器を積み込んだ。食料と水も補充した。
三郎たちは休息もろくにせず、九州へと戻った。
博多に戻れば、また漆器を売る。月賦の売り上げを回収する。新しい客に月賦の契約を勧める。そして回収に回る。そのいっぽうで、三郎自身かもしくは幸四郎が佐賀に向かい、頼母子講の代金も回収しながら陶磁器も仕入れてきた。この繰り返しが、三郎の日常となっていた。
だが四ヶ月目にして、ついに起きた。
月賦の代金を踏み倒す者が現れたのだ。
八幡の長屋に住んでいた職工が、会社を辞めて引っ越した。
しかもその男は、引っ越し先を告げぬまま、漆器を持ったまま雲隠れしてしまったのだ。
「兄やん、やられたぞ」
幸四郎が、青い顔で報告してきた。
「漆器の持ち逃げだ。近所に聞いても、行き先を知らないというんだ」
「いくらの契約だ」
「十二円。まだ三回しか払っていない」
三郎は帳面をめくった。三回分、つまり最初の三ヶ月分は回収済みだ。仕入れ値を考えれば、元はすでに取っている。
「まあ、いい。どうせ元は取っているからな」
三郎は強がった。だが、踏み倒された事実は、腸が煮える思いだった。
「それはそれとして」
三郎は帳面を閉じて言った。
「顧客の信用状態は、もっとしっかりと確認しなければならんな」
できれば、月賦契約を結ぶときに担保や保証人が欲しいところだ。
しかしあまり複雑かつ深刻な契約にすると、顧客が嫌がる可能性がある。
三郎たちのことを、他県の若い行商人だと思えばこそ、顧客は気軽に漆器を買ってくれるのだ。
(だいたい、博多に店も家も持たぬ商売人だ。そんな商売人と、担保だ保証人だと言って契約をしてくれる客がどれだけいるか)
またひとつ、課題が現れた。
ともあれ幸いなことに、踏み倒しはこの一件だけだった。
他の客は、きちんと毎月の代金を支払ってくれた。
三郎はほっとしたが、同時に気を引き締めた。客が増えれば増えるほど、踏み倒しの危険も増す。目配りを怠ってはならない。
(そして、おれ自身も博多に店を構えねば。おれ自身の信用と威厳をあげねば)
そう決めた三郎は、博多の箔屋町にあった空き家をひとつ借りた。
箔屋町は博多駅にも港にも近く、博多の中心地でもあった。
空き家はさほど広くないが、商品を保管する倉庫と、店員が休息する場所としては十分だった。
二階建ての古い木造家屋だ。一階が土間と板の間で、漆器の在庫を並べた。二階は畳敷きの部屋がふたつあり、三郎と幸四郎が寝起きする。田村と北條は一階の板の間に布団を敷いた。
三郎は、この家に屋号をつけた。
「越智漆器店」
看板を書いたのは幸四郎だ。
端正な楷書で「越智漆器店」と書かれた板を、三郎は入り口の柱に打ちつけた。
初めての店舗であった。
大龍丸の甲板の上で始まった商いが、ようやく陸に根を下ろした。
「これでおれたちにも、住所ができたわけだ」
三郎は看板を見上げながら感慨にふけった。
「博多の箔屋町。ここが、おれたちの本拠だ」
田村が、にやにやしながら言った。
「いやあ、大将。わたしは船乗りになるつもりだったんですがね。桜井を出るとき、大将について行けば船乗りになれると思っていたんですよ。それが気がつけば、博多の町で漆器を担いで走り回っている」
「不満か」
「不満じゃありません。ただ、人生は思い通りにいかないもんだなと」
田村は笑った。三郎も笑った。
「その分、仕事と給与は与えるさ。お前にも、青やんにも」
三郎はこの日から、田村と北條を正式な店員として扱うことにした。これまでは椀船のカシキ――見習いの少年――だったが、いまや月賦販売の店員である。仕事の内容も、給与の額も、きちんと決めた。
だが、問題はそこからだった。
月賦の売り上げが伸びれば伸びるほど、毎月の回収に回る手間が膨れ上がっていく。博多、八幡、久留米、筑豊。四つの地域に散らばった契約者の家を、毎月欠かさず訪ねて代金を受け取らなければならない。
さらに唐津や伊万里からも、評判を聞いた者たちが月賦で漆器を売ってくれという依頼をよこすようになった。きちんと金を払ってくれるならば、これは断るわけにはいかない。客が増えるのは喜ばしいことだ。
「だが四人では、さすがに回らんな」
三郎は夜、箔屋町の二階で帳面をつけながら言った。
階下では、田村と北條が明日の配達の準備をしている。
「何人か店員を増やさねば」
幸四郎もまた、隣で帳面をつけていたが、手を止めて兄を見た。
「店員を増やしても、月賦の金を持ち逃げするような人間はだめだよ」
「当然だ」
「それに漆器の扱いがそれなりにできて、遠方に行けるほど足腰が達者な者でないと。月賦の回収は、客の家を一軒一軒回るわけだから、体力がなければ務まらない。それと船の扱いも心得ている者がいい」
「ぜいたくな要望だ。難しいなあ」
三郎は思わず笑ってしまった。
「ここはやはり」
幸四郎は兄と異なり、にこりともしないまま帳面を閉じて、腕を組んだ。
「店員を増やすなら、桜井の人がいいだろうな」
「桜井人か」
「親戚か、昔の友達か。同じ故郷の人間がやはり一番信用できるよ、兄やん」
幸四郎は考え抜いた顔をしていた。
「それに桜井人を雇えば、たとえば金の持ち逃げをすれば、故郷中に悪評が広まる。そう思ったら悪いことはできないだろう。最悪、桜井にいるそいつの家族や親戚に補償してもらえばいい」
「驚いたな」
三郎は、弟の顔をまじまじと見つめた。
「お前は、いつからそんな思考ができるようになったんだ」
「兄やんがぐんぐん前に進んでいくから、後ろを守るつもりで、こんなことも考えるようになるんだよ」
幸四郎は照れくさそうに笑った。
三郎は、弟の成長に目を細めた。
桜井を出たときは、ただ兄についてくるだけの弱気な少年だった。それがいまや、経営の裏側を支える番頭のような男になりつつある。
「よし、桜井人を雇おう。その役目は幸四郎に任せる」
「おれに?」
「お前が一番、桜井の人間を知っている。おれは家を飛び出した身だからな。桜井の若い者の顔と名前が、おれよりお前のほうが分かるだろう」
「……分かった。引き受ける」
幸四郎はうなずいた。
「次に桜井に戻ったら、声をかけてみる。足腰が強くて、漆器の扱いができて、真面目で、なにより信用できる男を」
「頼んだぞ」
三郎は帳面を開き直した。夜はまだ長い。帳面の数字と向き合う時間だ。
階下から、田村の鼻歌が聞こえてきた。何の歌かは分からないが、陽気な調子だった。
ときおり、家の外からも三味線の音がかすかに聞こえてくる。
三郎は帳面から顔を上げて、窓の外を見た。
冬の夜空に、星が瞬いている。唐津で見た天の川ほどの壮大さはないが、博多の空にも星はある。街の灯に負けじと、ちいさく光っている。
(箔屋町。ここが、おれの城だ)
大龍丸の船底で眠り、天秤棒を担いで農村を回っていたころが、もう遠い昔のようだ。
だが、まだ始まりにすぎない。この箔屋町の小さな家が、やがてもっと大きな店になる。もっと多くの店員を抱え、もっと広い商圏を持つ。
(そのためには、まだまだ働かねばならん)
三郎は帳面に向き直り、筆を走らせた。
夜が更けていく。灯明の光が、三郎の横顔を照らしていた。




