第十四話 月賦販売開始
さほど、商売の芽も出ないままに、三郎は門司までやってきてしまった。
「ここまで来たら、宮本さんのところに顔を出していくか」
三郎は幸四郎を安宿に残して、ひとりで宮本呉服店を訪ねた。
しかし宮本只八は留守だった。仕入れのために小倉まで出ているという。三郎とはすれ違いになってしまったらしい。
そこで店先に出てきたのは、宮本梅与だった。
「あら、越智さん。お久しぶりですこと」
梅与は相変わらずの愛嬌だった。嫌味のない笑顔で三郎を迎えると、
「わたくしの部屋までいらしてくださいな。お茶とお菓子を出しますから」
「また、冗談ばっかり」
三郎は大声を出して笑った。
商家の娘の部屋に入るなど、できるはずもない。
梅与に手を出したと噂を立てられたら、行商人として致命傷だ。
――桜井の漆器売りは、売り先の娘につばをつけて回るそうな。
そんな評判が立てば、どの商家の門もたたけなくなる。
「おやまあ、そんなに嫌がることはないでしょう」
「嫌ではないが、商人には商人の分別がある。店先で宮本さんを待たせてもらうよ」
三郎は頑として店先に座り、帰りを待った。
梅与はしかたなく茶を運んできて、三郎の隣に座った。
「博多に行ったんですってね。噂で聞いたわ」
「さすが、耳が早いな」
「商人の世界は狭いのよ。伊予の若い椀屋が博多に乗り込んだ、って。ああ、越智さんだってすぐに分かったわ」
「乗り込んだというほど大げさな話ではないが」
「で、どうなの。売れているの」
「……」
三郎は黙った。売れていないとは言いたくなかった。
「売れていないのね」
梅与は鋭かった。三郎の沈黙だけで、すべてを読み取った。
「品は良いのよ、きっと。でも、高いんでしょう。このあたりの人たちには」
「……ああ。そうだ」
認めざるを得なかった。
梅与は首を傾げて考えていたが、やがて何か言おうとした。そこへ、只八が戻ってきた。
只八は三郎の顔を見ると、嬉しそうに笑った。
「越智さん。よく来なさった。ちょうどいい、飯でも食いに行こう」
只八は三郎を連れ出して、門司港の海が見える小料理屋に入った。
二階の座敷からは、関門海峡が一望できた。夕方近い海峡を、大型の汽船がゆっくりと通り過ぎていく。煙突から黒い煙を吐きながら、西へ向かう石炭船だ。その向こうに、下関の町並みが夕日に染まり始めていた。
海峡の潮は、相変わらず速い。
海面に白い筋ができて、流れの強さが目に見えた。
「海はいいですな」
三郎はしみじみと言った。
陸で売れない日が続くと、海を見るだけで気持ちが落ち着く。
波の音と潮の匂いが、疲れた体を癒やしてくれた。
「越智さんは夢想家だ。海が好きか」
「好きです。どうも先祖が村上海賊だったらしく、きっすいの海好きで」
三郎は笑った。
「船も大好きでしてね。もっと立派な船がほしい。いまの大龍丸は二十石積みの小舟ですが、いつかは百石、二百石の船を持ちたい」
「ほう。そういうものか」
只八は、船や海にさほどの夢を感じない性質らしい。盃を掲げて、
「私はもっぱら、こればかり」
海より酒が好き、ということらしい。三郎は苦笑した。
「酒といえば」
只八は刺身をつまみながら言った。
「八幡の製鉄所や筑豊の炭鉱で働く者は、三度の飯より酒が好きだそうだ」
「宮本さんと同じですか」
「ははは、そうです。酒ばかり飲んでいるそうですよ。月給が入った瞬間に酒を飲む。それでも足りないからツケで飲む。飲んで、飲んで、吐いて、また飲む」
「ははあ、すさまじいですな」
三郎は酒が苦手であった。一合飲めば顔が真っ赤になって出来上がってしまう。いまも只八に付き合ってなめるように杯を運んでいるが、すでに耳まで赤い。
「いっそ我々で、八幡に乗り込んで酒屋でもやったほうが儲かりそうですね」
「違いない」
冗談を飛ばし合って、只八は笑い、三郎も笑った。
だが三郎の頭の片隅は、冗談を言いながらも冷えたまま、回転を続けていた。
下戸なので酒屋はやりたくない。それは本音だ。だが問題は酒屋ではなく、只八が何気なく言った言葉の中にあった。
――月給が入った瞬間に酒を飲む。それでも足りないからツケで飲む。
月給。ツケ。
毎月、月給をもらう。
毎月、ツケで酒を買う。
毎月。毎月。毎月。
三郎の頭の中で、歯車が噛み合う音がした。
(毎月、月給、ツケ。……そうか!)
三郎は、箸を止めた。
目が、見開かれた。
只八が不審そうに三郎を見てくる。
「どうしました、越智さん。急に黙り込んで」
「いえ……いえ、なんでもありません」
三郎は、努めて平静を装った。だが心臓が、早鐘のように鳴っている。
頭の中で、ひとつの構想が、猛烈な速度で形を成しつつあった。
月給取りは、毎月、金をもらう。
毎月、金が入る人間ならば、毎月、少しずつ払えるではないか。
四十五円を一度に払えなくとも、毎月数円ずつならば払えるはずだ。
(頼母子講と同じだ。だが講にこだわる必要はない。ひとりに毎月、漆器の代金を払ってもらえれば。そうだ。月ごとの賦払いならば)
代金を一気に支払わず、何度かに分けて支払う方法を賦払いと呼ぶ。
それを毎月にすれば、すなわち――
月賦だ。
(月賦で売ればいいのだ)
三郎は、自分の着想に震えた。
漆器を、あるいは陶磁器を、高値のまま売る。値下げはしない。
だが支払い方法を変える。一括ではなく、毎月払い。月賦だ。
月給取りは毎月金が入るのだから、毎月少しずつ払ってもらえばいい。
頼母子講は講の全員が金を出し合う仕組みだから、全員の足並みが揃わなければ成り立たない。だが月賦ならば、客ひとりひとりが、毎月、自分の月給から支払うだけだ。講を組む必要もない。
その分、そのお客ひとりを信用しなければならないが――
その信用も、商都博多の会社や、官営の八幡製鉄所や、軍隊で働いている人間が相手ならば、申し分ない。
(これだ)
三郎は箸を握りしめた。
只八は三郎の様子がおかしいことに気づいたらしく、
「越智さん?」
「宮本さん。……いまの話、大変ためになりました」
「どの話ですか」
「月給と、ツケの話です」
「はあ?」
只八には、何がためになったのか分からないようだった。三郎は笑って、
「いずれ分かります。次にお会いするとき、おれはもっと大きな商人になっているはずです」
「また大きなことを」
只八は呆れながらも笑った。この若者の大言壮語は、もう慣れたものだった。
小料理屋を出ると、関門海峡はすっかり夕闇に沈んでいた。下関の灯と門司の灯が、海面に長い光の筋を落としている。汽船の汽笛が、低く鳴った。三郎は駅へと急ぎ、汽車へと飛び乗った。
ややあって、三郎は博多の大龍丸に駆け戻った。もう夜であった。
頭の中で、着想がどんどん膨らんでいく。月賦。月賦。月賦で売る。
大龍丸に飛び込むと、幸四郎が布団の上で帳面をつけていた。
三郎は布団に膝をつくと、弟の顔を見据えて言った。
「思いついたぞ。名案だ」
幸四郎は、兄の赤い顔を見て、
「兄やん、酔っているのか」
「酔ってなどいない。いや、少し酔っているが、頭はこれ以上なく冴えている」
三郎の目は、酒のせいだけではなく、興奮のために輝いていた。
「聞け、幸四郎。おれは月賦を思いついた」
「月賦? なんだそれは」
「月ごとの賦払いだ。漆器を高い値で売る。しかし代金は毎月少しずつ払ってもらう。月給取りは毎月金が入るのだから、毎月払えるだろう」
幸四郎は、目を瞬かせた。
「頼母子講とは違うのか」
「違う。講を組む必要がない。客ひとりひとりと、おれが直接、契約する。客は毎月、決まった額を払う。おれは毎月、受け取りにいく。それだけだ」
「……なるほど」
幸四郎は帳面を閉じて、腕を組んだ。
「頼母子講でものを売るのは、講が成立しないと売れない。だが個人が相手ならば、その個人さえ納得すればすぐに売れる」
「そうだ。早いわけだ」
「しかし、簡単ではないぜ。月賦で売っても、二回目、三回目の支払いを踏み倒されたらどうする」
頼母子講ならば、講という集団で代金を支払う計画になっているので、踏み倒しという点では安心できた。誰かが踏み倒せば、講の他の誰かが保証人のように支払ってくれる(村の中の信用をおおいに失うので、講の踏み倒しはそうそう起きなかったが)。
だが個人の月賦払いならば、その個人が逃げてしまえばそれまでなのだ。
「博多の会社の社員や、八幡製鉄所の所員ならば、踏み倒しなどそうそう起こるまい。それに」
「それに?}
「販売の一回目で元を取ればいいのだ」
三郎は答えた。
「月賦で売るといっても、最初は漆器の中で仕入れ値が安いものを売ってみよう。それなら販売の一回目で元が取れるだろう。やがてコツをつかんだら、もっと高価な漆器や漆器一式を売り始めればいい」
「したたかだなあ、兄やん」
「どうだ、幸四郎。やるぞ。我ら四人でやるぞ」
幸四郎は、兄の顔をじっと見つめた。
酒で赤くなった顔の奥で、三郎の目は本気だった。
「……分かった。やろう、兄やん」
幸四郎はうなずいた。




