第十話 士族の娘
村から村へ、漆器を見せて回る。
頼母子講の漆器販売は珍しいためか、どんどん契約が成立していった。
「よしよし」
西の空が赤くなり始めた。
水田に夕焼けが映り、天と地が茜色に染まっていく。
蛙の声が、あちこちから響き始めた。
本来ならば、唐津に停泊させている大龍丸に戻って宿泊するのだが、三郎は奥地に入り込みすぎていた。もう船には戻れない。日が暮れてからの山道は危ない。
だからといって野宿はしたくなかった。疲れ果てた体を地面に横たえても、まるで回復しない。蚊に刺され、虫に悩まされ、朝には体中が痛む。前回は空き寺に転がり込んだが、そうそう都合よく空き寺が見つかるものでもない。
(どこかに宿はないか)
三郎は街道に出て、あたりを見回した。
夕闇が迫っている。空の端だけがまだ赤く燃えているが、地上にはもう薄暗がりが降りていた。
街道沿いに、建物が見えた。
薄汚れた板壁の、小さな宿である。
看板も傾いている。木賃宿の類だろう。
(いかにも安そうだな。よし、ここがいい)
三郎が宿に近づくと、裏手から煙が立ちのぼっているのが見えた。
風呂を焚いているのだ。
煙の傍で、誰かが薪をくべている。
この宿の女将か、女中だろう。
ちょうどいい、宿の者に声をかけようと思って近づいた。
「すみません。今夜、泊めてもらえませんか」
「はい、なんでしょう」
振り向いた者は、まだ少女だった。
十五か、六か、そのくらいだろう。小柄で、細い体つきをしている。手拭いで髪をまとめ、袖をたすき掛けにして、風呂焚きの真っ最中だった。
顔が、炭で真っ黒に汚れていた。
薪の灰と煤が、額から頬にかけてべったりとついている。汗が筋をつくって流れ、その跡だけが白い。目だけが、黒い顔の中からきらきらと光っていた。
三郎は、その顔を見た瞬間、胸の奥を電撃で打たれたような衝撃を受けた。
(なんという働き者だ)
少女の額に光る汗。
煤にまみれた両手。
腰を据えて薪をくべる姿勢。
すべてが、労働に捧げられた体だった。
門司港で出会った宮本梅与は美人だった。商家の娘らしい華やかさがあった。だが、三郎の心を本当に射抜いたのは、この煤だらけの少女だった。
こんな女と夫婦になれたら、どれだけ素晴らしいか。
(おれは、この娘に惚れた)
一目惚れだった。
だが三郎は、その感情をおくびにも出さなかった。平静を装って、
「やあ、急に声をかけてすまん。この宿に泊まりたいんだが。おれは愛媛の桜井から来た越智三郎というんだが、名前を教えてくれないか」
「名前? わたしの?」
少女はくすっと笑った。
煤だらけの顔の中で、白い歯がこぼれた。
「サキ。月原サキと申します」
「サキか、いい名前だ」
三郎は高鳴る胸の鼓動を隠すように、大声で言った。
「おれは行商をやっているから、面白い話をたくさん知っているぞ。仕事が終わったら、おれの話し相手をしてくれ」
「あら、嬉しい。面白い話を聞くのは大好きです」
少女は相好を崩した。煤だらけの顔がくしゃりと崩れて、それがまた、三郎の胸を打った。
三郎を面白い男だと思ったのだろう。
警戒心のない、まっすぐな笑顔だった。
宿は三郎たちを歓迎してくれた。
他に客が少なかったこともあるだろう。
宿の亭主は四十がらみの、腰の低い男で、三郎の話を聞いて感心した。
「わざわざ愛媛から佐賀まで来て商いとは、感心だねえ。伊予の椀屋さんのことは噂で知っていますよ。うちではとても高くて買えないけどね、ははは。まあ、ゆっくりしていきなさい」
幸四郎はすぐに寝てしまった。
天秤棒を担いで一日中歩いた疲れが、限界に達していたのだ。
だが三郎は眠れなかった。
夕飯と風呂を済ませると、すぐに宿の片隅に座り込んだ。
サキが、仕事を終えてやってきた。顔を洗ったらしく、煤は落ちていた。
(おや)
三郎は驚いた。
煤の下から現れた顔は、色が白く、目鼻立ちがすっきりとしていた。鼻筋が通り、唇は薄い。まつ毛が長く、瞳の奥に気品がある。先ほどの炭だらけの顔からは想像もつかない、端正な顔立ちだった。
(梅与さんより、いっそう可愛い。姫様のようだ)
三郎は改めて息を飲んだ。
先ほどは煤のために真っ黒だっただけで、素顔はこれだったのか。
しかし三郎が惚れたのは、この素顔ではなく、煤だらけで風呂を焚いていたあの姿だった。あの働く姿にこそ、三郎は心を奪われたのだ。
ふたりは宿の片隅で向き合い、おしゃべりを始めた。
三郎が桜井のことや行商のことを話すと、サキは目を輝かせて聞いた。
「椀船とは面白そうですね。海の上で暮らしているようなものなのですね」
「まあ、そうだな。面白いかと問われると、首をかしげるが」
三郎は笑った。
「狭いし、揺れるし、飯はまずい」
「でも、いろいろな土地に行けるのでしょう。わたし、旅というものをしたことがないのです」
「へえ。このあたりの生まれなのか」
「いいえ。わたしは……」
サキは、少し言い淀んだ。それから、覚悟を決めたように言った。
「わたしは、もとは武家の出です」
「武家?」
「筑前黒田藩で、家老に連なる家柄の……月原家の娘です」
三郎は目を丸くした。
「あんた、士族かい」
「はい。世が世なら、と申しましょうか。もっとも、いまはこれ」
サキは穏やかに笑った。
維新の後、月原家は武士の禄を失った。
祖父が商売に手を出したが、失敗した。家は没落し、親戚を頼って転々としたあげく、サキはこの唐津の安宿で下働きをすることになったのだという。
「すっかり落ちぶれて、ご覧の有様ですよ。親戚に紹介された安宿で、下女のごとく下働き。もっともわたし、働くのが好きなので、労働そのものに不満はないのですが」
亭主がこの場にいないのをいいことに、サキは安宿と言い放った。品のある笑顔でそう言うものだから、愛嬌があった。もっとも、安宿は事実なので、三郎としても悪い印象は持たない。
(安宿といっても、ここは掃除が行き届いていて悪くないほうだ。ひどいところは、そこら中に蚤やシラミがいるからな)
サキが掃除を頑張っているからかな。
なんの証拠もないが、そこは惚れた弱みで、三郎はこの宿の清潔さを彼女の働きだと思い込んだ。
「労働が好きか。そうだろう。さっきの黒い顔はよかった」
「まあ、からかって」
「いや、本気だ。人間、働いている姿が一番美しいもんだ。おれは」
顔でも身分でもなく、あんたの働いている姿にぞっこん惚れたのだ。
と、言いたかった。だが羞恥心と身分の差が、その言葉を出すことを許さなかった。明治の世とはいえ、貧しい商人の自分と、家老に連なる家柄の士族の娘では、とても釣り合いが取れぬ。
(いや、士族とはいえサキのような労働好きの女なら、おれみたいな貧乏人でもなんとかいけるかも)
三郎が不逞のことをめぐらせたときだった。
「ああ、徳川様の時代のままでよかったのに」
サキが、ふと言った。
「そうすればわたしも、もう少しは贅沢ができたでしょうから」
気品のある笑みを浮かべながら、しかしその言葉には本心がにじんでいた。
「いい暮らしがしたいですね。わたしは働くのは好きです。でも、贅沢も好きなんです。憧れです」
「……そうだよな」
三郎は思わずうめいた。
誰だって贅沢は好きだ。
金持ちになりたい。自分だってそうだ。
(おれはなんて男だ)
三郎は己を恥じた。
自分は金が欲しいくせに、女にはまったく逆の理想を求めてしまった。
貧乏でも構わないからあなたと一緒になりたい――サキがそんなことを言う女だったら、と一瞬、思ってしまった自分がいた。だがそれは、あまりにも身勝手な願いだ。
三郎は決然と言った。
「おれはもっと儲けてやる」
サキが、目をぱちくりとさせた。
「サキも、おれ自身も、もっと栄耀栄華を手に入れていい人間なんだ。もしおれが大金持ちになったら、嫁にしてやるからな」
サキは、ころころと笑った。
手を口に当てて、品良く笑った。冗談だと解してくれたらしい。
三郎は半分本気だったが、本気だと言えば重すぎる。冗談と受け取ってもらえたほうが、いまはいい。
「あてにしてお待ちしております。わたしに良いおべべを着せてくださいね」
「おお。任せておけ」
三郎は胸を張った。
「必ず、迎えに来る。それまで待っていてくれ」
「まあ、大きなことをおっしゃるのね」
サキはなおも笑っていたが、その目は笑っていなかった。
三郎の目を、まっすぐに見つめていた。
冗談の奥にある本気を、この少女は見抜いているのかもしれなかった。
その夜、三郎は布団の中で目を閉じたが、なかなか寝つけなかった。
サキの笑顔が、瞼の裏にちらついた。煤だらけの顔。白い歯。働く手。品のある声。
自分とサキの運命を変えるには、働き、稼ぐしかないのだと思った。そうしなければ、自分とサキの運命は、ただ貧困と絶望の中にのみ転がり落ちる。そんな予感さえあったのだ。
(しかし、稼げさえすれば)
運命の水車がうまく回り出す。そう思った。
(頼母子講の漆器売りがうまくいきはじめたのだ。これをもっと拡大させれば)
一年、いや半年。半年頑張れば、きっと。
三郎はそう思いながら、ようやく眠りに落ちた。
翌朝、三郎は宿を発つ前に、サキに礼を言った。
「世話になった。また来る」
「お待ちしております。どうか、お体にお気をつけて」
サキは宿の前に立って、三郎たちを見送ってくれた。
朝霧の中に立つ少女の姿が、三郎の目に焼きついた。
しかし、翌日から佐賀県の農村をまた営業し始めた三郎だったが、行く先々で異変を感じ始めていた。
誰かが遠巻きに、冷たい目を三郎に送っているような気がする。
土曜日、日曜日は二話分、午後九時と午後九時十分に投稿いたします。
よろしくお願いします。




