第39話:『三流の卒業、あるいは未来へのチューニング』
『三流の卒業、あるいは未来へのチューニング』
水前寺家のリビングには、二つの小さな、黄色い通園帽子が並んでいた。
明日、海と空は幼稚園という名の「社会」へ、最初の一歩を踏み出す。
譲は、部屋の隅で古いギターの弦を張り替えていた。その指先は、かつてのどのライブ前よりも激しく震えていた。
「……先生。俺、あいつらに何も教えてやれてない気がするんだ。五千万も稼げてないし、立派な肩書きもない。……ただの、ジャカジャカ鳴らしてるだけの三流だ」
佐藤先生は、眼鏡を拭きながら、新しいホワイトボードに一本の数式を書いた。
H = \int (失敗 \times 挑戦) dt + 愛
「譲さん。人生の幸福量 H は、成功の数ではなく、失敗をどれだけ『再履修』したかの積分で決まります。……あなたは、彼らに世界で最も重要な『やり直す勇気』を、その背中で示してきました」
佐藤先生は、自分の大学の教授室に、海と空をこっそり招待した。
重厚な革張りの椅子に座る双子に、先生は真剣な顔で語りかける。
「海くん、空くん。これからあなたたちは、多くの『正解』を求められるでしょう。……しかし、覚えておきなさい。パパが奏でるあの汚いギターの音こそが、この世のどの正論よりも美しい真実であることを」
海と空は、よく分からなそうに、先生の高級な万年筆をしゃぶって笑った。
入園式前夜。航が、秘蔵の焼酎を持ち出してきた。
「譲。俺は明日、『おはようくまもと』の放送中に、個人的な祝辞を述べるつもりだ。『熊本で一番不格好な双子が、今日、世界を救いに出かけました』ってな!」
「兄貴、公私混同すぎんだろ……」
笑い合う兄弟。その横で、由佳が譲の手に、自作のピックを握らせた。そこにはマジックで『三流最高』と書かれていた。
そして、朝が来た。
幼稚園の門の前。不安げに由佳のスカートを握る海と、泣き出しそうな空。
譲は、門の影で、ギターケースからそっとネックだけを出し、弦を一本、弾いた。
――ジャカ。
その小さな、けれど確かな音に、二人がハッと顔を上げた。
譲は、二人の目を見て、力強く頷いた。
「いいか、海、空。……外の世界は、お前たちを採点しようとする。でもな、パパだけは、お前たちの出すどんな音にも、ハナマルをつけてやる。……だから、思いっきり外してこい!」
海が、パッと手を放した。
空が、ぐっと胸を張った。
二人は、小さな黄色い帽子を揺らしながら、先生の待つ教室へと走り出した。
一度も振り返らずに。
譲は、空になった自分の腕を抱きしめ、天を仰いで泣き笑いした。
「……先生。……行っちゃったな」
「はい。……計算外のスピードです。……譲さん、私たちの『第一課程』は、これにて修了のようです」
佐藤先生が、手帳の端に小さく記した。
『水前寺家、社会進出。……評価:追試の必要なし。……これより、世界を再履修させる側に回る』
熊本の空は、雲一つない青。
三流の男たちの物語は、今、次世代という名の新しいメロディを伴って、最終楽章へと加速していく。




