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『ニュースキャスターの父、ロッカーの叔父、教師の居候。この家、まともな大人が不在です』  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン3

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第38話:『三流の祝祭、あるいは最初の一歩』

『三流の祝祭、あるいは最初の一歩』


 水前寺家のリビングは、もはや「知性の殿堂」でも「音楽のスタジオ」でもなかった。

 散らばったオムツ、飲み残しの哺乳瓶、そして佐藤先生が書いた『離乳食における栄養吸収率の推移図』が床に転がる、カオスという名の聖域だ。

「……譲さん。論理的に言って、私たちの現在の体力残存量は 2\% を切っています。……もう、漫才の稽古どころではありません」

 佐藤先生は、高級なスーツに離乳食のカボチャを付けたまま、ソファで白目を剥いていた。

「……ああ。五千万あったら、シッターさん雇えたかな、なんてな」

 譲も、ギターを抱えたまま、一歩も動けない。

 

 独立して三ヶ月。仕事は地元の祭りや老人ホームの営業ばかり。

 だが、二人の顔は、かつて広告代理店の檻にいた頃よりも、ずっと「生きて」いた。

「あー……うー……」

 サークルの端で、海がもどかしそうに声を上げた。

 彼は、自分のぷっくりとした両足を踏ん張り、何とかしてこの重力に抗おうとしていた。

 空も、その兄の姿をじっと見つめ、小さな手を床について腰を浮かせる。

「……先生。見ろよ。あいつら、やろうとしてる」

 譲が、ゆっくりとギターを構えた。

 弦を叩く。ジャカ。ジャカ。

 それは、海と空が世界で一番好きな、パパの音。

「……よし、海。空。……一歩だ。一歩だけでいい。五千万なんて数字、一瞬で忘れさせてやるような、最高の一歩を見せてくれ」

 佐藤先生が、静かにメガネを直した。

 彼はホワイトボードへ向かい、数式を書こうとして、……止めた。

 彼はマーカーを置き、ただ、膝をついて海たちの目線に合わせた。

「……海くん。空くん。……重力加速度 g = 9.8\text{m/s}^2。……その過酷な法則を、あなたの意志で、今、書き換えるのです」

 航が、仕事帰りの足でリビングに駆け込んできた。

 彼はいつものように「実況」を始めようとして、……息を呑んだ。

 真菜も、修も、由佳も、全員が固唾を飲んで、小さな二つの背中を見つめていた。

 

 譲のギターが、疾走感を増す。

 ジャカジャカ! ジャカジャカジャカ!!

 

 その時だった。

 海が、プルプルと震える膝を、グッと伸ばした。

 そして、宙を掴むように手を出し、……踏み出した。

 

 一歩。

 

 続いて、空も、まるで兄の影を追うように、不器用な、けれど確かな一歩を刻んだ。

 

 リビングに、絶叫のような歓喜が爆発した。

「立った! 海が、空が立ったぞ!」

 航が、孫たちを抱き上げようとして、勢い余って佐藤先生と正面衝突した。

 真菜が泣き出し、由佳が「おめでとう」と譲の肩を抱いた。

 譲は、ギターを弾く手を止め、溢れ出す涙を拭おうともせずに笑った。

「……先生。見たか。……あれが、俺たちの最高傑作だ」

「……はい。計算不能です。……私のどの論文よりも、今のあの一歩の方が、真理に近い。……譲さん、おめでとうございます。あなたは今、五千万よりも重い『歴史』を動かしました」

 佐藤先生は、真っ白なホワイトボードに、震える手で一言だけ記した。

『水前寺海、空。……第一歩、観測成功。……評価:三流を超えた、銀河系最高ランクの一流』

 外では、熊本の夜空が、新しい歩みを始めた二人の命を祝福するように、優しく輝いていた。

 水前寺家の「再履修」は、こうして次のステージへと進んでいく。

 一歩、また一歩。不器用に、けれど誰よりも誇らしく。

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