第37話:『黄金の檻、三流の翼』
『黄金の檻、三流の翼』
東京から来たというプロデューサーは、熊本市内の高級料亭の個室で、一枚の紙を差し出した。
「佐藤教授、そして譲さん。我が局のゴールデン枠で、お二人の冠番組を用意しています。テーマは『知性と野生の育児論』。……契約金は、お二人の希望通り、五千万です」
五千万。
佐藤先生の書いた、あの絶望的な資金シミュレーションを、一瞬で覆す魔法の数字。
譲の指が、テーブルの下で震えた。
(これを受ければ、海も空も、何不自由なく育てられる。……俺の『三流』という看板を、少しだけ『一流』に塗り替えるだけでいいんだ)
「条件は一つだけです」
プロデューサーは、冷めた目で続けた。
「譲さんは、あのみすぼらしいギターと『ジャカジャカ』という呼び名を捨ててください。視聴者が求めているのは、教授と対等に渡り合う、スタイリッシュな若き天才ギタリストとしてのパパです。……嘘でいい。夢を見せてやってください」
個室を包む、重苦しい静寂。
佐藤先生は、運ばれてきた高級な刺身に手を付けず、眼鏡を直した。
「……論理的に言って、その条件は極めて妥当です。大衆は、真実よりも、加工された幸福を好む。……そうですね、譲さん?」
譲は、バッグの中に手を入れた。
そこには、海と空が噛み跡だらけにした、安物のピックが入っていた。
『ジャカ! ジャカ!』
耳の奥で、あの不格好な産声が響く。
自分の音を聴いて、世界で唯一、満開の笑顔を見せてくれる二人の顔。
「……プロデューサーさん。俺、中学の時、音楽の成績が『二』だったんです」
譲が、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は、スタイリッシュな天才になんてなれません。俺の音は、オムツの匂いと、寝不足の溜息と、あいつらの笑い声でできてる。……それを捨てたら、俺は海と空のパパじゃなくなっちまう」
「譲さん、何を――」
プロデューサーが呆れ顔を見せた瞬間、佐藤先生が立ち上がった。
彼は懐から、いつも持ち歩いている小型のホワイトボードを取り出し、一気に書き殴った。
『五千万 - 誇り = マイナス無限大』
「私の相方は、三流であることに命を懸けています」
佐藤先生の声は、大学の講義中よりもずっと深く、力強く響いた。
「彼が『一流』を演じることは、私の論理学に対する冒涜であり、何より、海くんと空くんという純粋な観測者への詐欺行為です。……この契約、計算するまでもありません。却下です」
先生は、契約書を手に取ると、一切の迷いなくそれを引き裂いた。
料亭を出ると、熊本の街には夜風が吹いていた。
「……先生。五千万、捨てちゃったな。俺たち、また明日から貧乏な『再履修』だよ」
「譲さん。教育資金の不足分は、私の給与の配分変更と、あなたの演奏活動の密度向上により、十分カバー可能です。……それに」
佐藤先生は、月を見上げて、不器用に笑った。
「……あなたの、あの汚いギターの音がないと、私の人生の解は、永遠に導き出せませんから」
水前寺家のリビングに帰ると、航が「おかえり!」と叫びながら、海と空を抱えていた。
「譲! お前の番組、局で噂になってたぞ! 五千万か? 大金持ちか?」
「……いや、兄貴。また一から、ドサ回りだよ」
譲は、海を抱き上げ、その耳元で。
ジャカ。
と、指で自分の胸を叩いた。
「……いいか、海。パパは一生、ジャカジャカだ。……文句あるか?」
海が、キャッキャと笑いながら、譲の鼻を掴んだ。
由佳が、キッチンから温かいスープを運んでくる。
「いいんじゃない? 世界一かっこいい『二』の成績のパパ。……さあ、冷めないうちに食べて」
佐藤先生は、ホワイトボードに新しく書き込んだ。
『本日の収支:マイナス五千万。……ただし、家庭内の幸福指数:測定不能なほど、上昇』
窓の外には、変わらぬ熊本の星空。
偽物の金よりも、本物の不協和音。それが、水前寺家が選んだ、最高に誇り高い「再履修」の答えだった。




