第36話:『最初の言葉、論理的なパパの誤算』
『最初の言葉、論理的なパパの誤算』
水前寺家のリビングには、異様な緊張感が漂っていた。
海と空が、ついに「マンマ」「バブ」といった意味のある(ような)音を発し始めたからだ。
譲は、仕事(漫才の稽古)も手につかず、双子の前に座り込んでいた。
「いいか、海。空。……パ・パ。パパだぞ。お前のために五千万稼ぐ、パパだ」
ジャカ、とギターを一掻きする。
「パ・パ。この音と一緒に覚えろ。さあ、言ってみろ!」
海と空は、ポカンと口を開け、譲の鼻から垂れそうな汗をじっと見つめていた。
そこへ、佐藤先生が大学の講義から帰宅した。
「……譲さん、その執着は統計学的に見て逆効果です。乳児の言語獲得確率は、以下の数式で近似されます」
佐藤先生は慣れた手つきで、子供の頭越しにホワイトボードに数式を書き始めた。
「つまり、あなたが騒げば騒ぐほど、ノイズが増え、正解への到達は遠のくのです」
「うるせえよ、先生! 先生はいいよな、独身で、責任がなくて。俺は、この子たちの『最初の座標』になりたいんだよ!」
その時だった。
佐藤先生が、落ちたマーカーを拾おうと腰をかがめ、海と視線が合った瞬間。
「……パ、パ」
リビングが、凍りついた。
海が、小さな指で佐藤先生の眼鏡を指差し、もう一度、はっきりと。
「パパ!」
空も同調するように、先生の膝にすがりついて叫んだ。
「パパ! パパ!」
譲の手から、ピックが滑り落ちた。
航は思わず「中継車、出せ!」と叫びそうになり、真菜は「あーあ、終わったわね」と顔を覆った。
佐藤先生は、石像のように固まった。
「……い、いいえ。これは、破裂音の連続による偶発的な……。私の喉仏の振動が、彼らの原始的な発声欲求を……」
「……先生」
譲の声は、地獄の底から響くようだった。
「……俺、ちょっと旅に出てくるわ。五千万なんて、いらなかったんだ。俺は、ただの『ノイズ』だったんだな」
譲が部屋に引きこもって三日。
水前寺家には、音楽の消えた、死んだような静寂が訪れた。
佐藤先生は、海と空に「パパ」と呼ばれるたびに、ビクッと肩を震わせ、申し訳なさそうに「私は教授ですよ」と訂正し続けていた。
四日目の夜。
リビングの隅で、修が古いカセットレコーダーを再生した。
『……パパ、パパ。パパだよ。……愛してるよ。……パパ、ここにいるからな』
それは、譲が毎晩、子供たちが寝静まった後に、枕元で囁き続けていた祈りのような声だった。
佐藤先生は、その声を聴き、静かに譲の部屋のドアを叩いた。
「……譲さん。論理的な修正案を持ってきました。……出てきてください」
ドアが開き、無精髭を生やしたボロボロの譲が現れた。
佐藤先生は、彼を無言でリビングへ連れて行き、海と空の前に座らせた。
そして、先生は自分の喉を指差して、厳かに言った。
「海くん、空くん。……これは、『キョウジュ』です。……キ・ョ・ウ・ジュ」
双子は首を傾げた。
譲は、泣きそうな顔で、諦めたようにギターを手に取った。
いつもの、少し外れた音程の、けれど世界で一番優しい自作のララバイ。
ジャカジャカ……。
その音を聴いた瞬間。
海と空の瞳が、パッと輝いた。
二人は同時に譲の膝に飛び込み、叫んだ。
「ジャカジャカ!」「ジャカジャカ!」
「……え?」
「譲さん。彼らにとって、言葉なんてどうでもいいのです」
佐藤先生が、眼鏡を拭きながらボソリと言った。
「彼らは、あなたの『音』を、自分の家として認識している。……彼らにとって、あなたは『パパ』という記号ではなく、『ジャカジャカ鳴らして自分を守ってくれる、唯一の旋律』なのです」
譲は、双子を抱きしめ、ギターの弦を涙で濡らしながら、めちゃくちゃなリズムで弾き続けた。
「……そうか。俺は、ジャカジャカか。……いいよ。世界一のジャカジャカになってやるよ!」
航が、それを見て、豪快に笑った。
「よし! 明日の『おはようくまもと』のトップニュースは決まりだ。『熊本一、不器用なジャカジャカ、誕生!』ってな!」
リビングには、再び騒がしい音楽が戻ってきた。
佐藤先生は、ホワイトボードに新しくこう記した。
『真実の呼称 、辞書的な単語。……愛の周波数は、言語を超越する』




