第35話:『エリート・シッター、三流の腕に屈す』
『エリート・シッター、三流の腕に屈す』
水前寺家のリビングは、今日から「教育学実験室」へと変貌を遂げていた。
由佳の仕事復帰に伴い、佐藤教授が送り込んだのは、ゼミの成績上位者三名による「育児支援特攻チーム」。
「教授、ご安心ください。海くんと空くんの入眠サイクルは、既にアルゴリズム化されています」
リーダーの学生が、タブレットを手に眼鏡を光らせた。
リビングには、湿度と温度を 0.1 単位で管理するセンサーが配置され、航が買ってきた「アンパンマンのぬいぐるみ」は「色彩心理学的に刺激が強すぎる」とクローゼットに封印された。
「……おい。俺の家なんだけどな、ここ」
航がボヤくが、学生たちは無視。
「水前寺アナ、あなたの声のデシベルは、乳児のストレス値を 15\% 上昇させます。発声練習は、庭でお願いします」
譲は、部屋の隅で、自分のギターケースを抱えて小さくなっていた。
「……先生。あいつら、俺が海を抱こうとしたら『保持角度が不適切です』とか言って、取り上げるんだぜ。俺、父親なのに……」
佐藤先生は、複雑な表情でホワイトボードを見つめていた。
「……譲さん。彼らは私の『初期の理論』を忠実に守っているだけです。……かつての私を見ているようで、非常に、居心地が悪いですね」
その時だった。
海と空が、同時に火がついたような叫び声を上げた。
いわゆる「黄昏泣き」。理由などない。ただ、世界のすべてが気に入らないという、命の咆哮だ。
「予測範囲内です! ホワイトノイズ 12 番を再生! 室温を 0.5 度下げて!」
学生たちが奔走する。しかし、最新の育児ガジェットも、完璧なタイムスケジュールも、双子の怒りを鎮めることはできなかった。
泣き声は激しさを増し、学生たちの顔から余裕が消えていく。
「な、なぜ!? 計算では、これで落ち着くはずなのに!」
譲が、ゆっくりと立ち上がった。
彼はクローゼットから、埃を被ったギターを取り出し、アンプを通さずに弦を弾いた。
「……おい。どけよ、エリート諸君」
譲は、泣き叫ぶ海を強引に抱き上げ、その耳元で、ひどく下手くそな、けれど力強いハミングを始めた。
ジャカ、ジャカ……。
弦が一本切れている、三流のギターの音。
譲は、海のリズムに合わせて体を揺らし、自分も泣きそうな顔で歌い続けた。
「……よしよし。五千万、稼いでやるからな。パパは三流だけど、お前たちを守る腕だけは、一流なんだよ!」
不思議なことが起きた。
あんなに激しかった海の泣き声が、次第に小さくなり、数分後には譲の胸の中で、静かな寝息に変わった。
空も、航が不器用に揺らす抱っこ紐の中で、指をくわえて眠りに落ちた。
リビングに、静寂が訪れる。
学生たちは、タブレットを落とし、呆然とその光景を見つめていた。
「……なぜ、ですか。私たちの理論の、どこに間違いが……」
佐藤先生が、教え子たちの肩にそっと手を置いた。
「……諸君。君たちの数式には『熱』が足りなかった。……育児とは、相手を管理することではなく、相手の不条理の中に、自分も一緒に飛び込むことなのです。……譲さんのギターは、論理的にはノイズですが、海くんにとっては『パパがいる』という唯一の真実だった。……本日のゼミは、全員『不可』。明日から、水前寺家で掃除の再履修を行いなさい」
学生たちは、目に涙を浮かべて深々と頭を下げた。
夜、帰宅した由佳が、ソファーで海と空を抱いたまま寝落ちしている譲を見つけた。
「……お疲れ様、パパ」
由佳がその頭を優しく撫でる。
窓の外には、熊本の夜空。
どんなに科学が進歩しても、三流の家族が奏でる「愛という名の不協和音」に勝てる数式は、まだ、この世には存在しない。




