第40話:『永遠の再履修、あるいは不協和音の賛歌』
『永遠の再履修、あるいは不協和音の賛歌』
熊本の空は、あの日と同じ、抜けるような青だった。
水前寺家のリビングには、今や二つの小さな机が並び、そこにはランドセルと、折れたクレヨン、そして佐藤先生が書き残した『算数における情緒的解法』のメモが散乱している。
「……海! 空! 早くしろ、遅刻するぞ!」
航の、少しだけ年季の入った、けれど深みを増した声が響く。
「パパ、うるさいよ。デシベルが朝の許容範囲を超えてる」
海が冷静にツッコミを入れ、空がランドセルを背負いながら、譲のギターケースを勝手に開けて一掻きした。
――ジャカ!
「パパ、行ってくるね! 今日も三流で行こう!」
譲は、苦笑いしながら子供たちの背中を見送った。
由佳がキッチンから顔を出し、譲のネクタイを直す。
「……いい顔になったわね、二人とも。あなたの変な歌のせいかしら」
「……ふん。俺の音は、遺伝するんだよ」
譲は、玄関の鏡に映る自分を見た。一流のギタリストにはなれなかった。五千万の契約書も今は紙屑だ。けれど、この家には、世界中の富を集めても買えない「音」が満ちている。
佐藤先生は、大学の講義を終え、いつものように水前寺家へ「帰宅」した。
彼はリビングのホワイトボードに向き合い、少しの間、逡巡した。
そして、これまで書き連ねてきた複雑な数式を、すべて消した。
真っ白になったボードの隅に、彼はこう記した。
『人生 \neq 正解。……人生 = 再履修の回数。……現在、水前寺家は無限回の試行を継続中』
「……佐藤。何かっこつけてんだよ」
航が、焼酎の瓶を持って現れた。
「今日は俺の番組の、 20 周年特番だ。……お前ら、出ろよ。コンビ『再履修』として、熊本中に教えてやれ。三流であることの、誇らしさをさ」
その夜。「おはようくまもと・特別編」。
スタジオのライトを浴びて、二人の男が立っていた。
一人は、ボロボロのギターを抱えた三流ミュージシャン。
一人は、眼鏡の奥で瞳を潤ませる変人教授。
譲が、弦を叩く。
ジャカ! ジャカジャカ!!
それは、洗練からは程遠い、騒がしくて、不器用な音。
けれど、その音に合わせて、テレビの前の真菜が笑い、修が頷き、海と空が踊り、由佳が涙を拭った。
佐藤先生が、カメラを見つめて言った。
「……皆さん。もし今日、あなたが失敗したなら。もし自分を『三流だ』と呪っているなら。……おめでとうございます。あなたは、明日を『再履修』する権利を手に入れました」
航が、二人の肩を抱き、最高の笑顔で叫んだ。
「いいか、熊本! 明日の朝も、ここで会おう! 失敗した奴から順に、合格だ!」
カメラが引き、スタジオ全体が拍手に包まれる。
水前寺家のリビングには、明日を待つ二つの小さな靴と、家族の笑い声が、心地よい不協和音となって響き続けていた。
物語は終わらない。
彼らの「再履修」は、今、この瞬間も、どこかの食卓で続いているのだから。




