『天草の荒波、独り言のプレリュード』
『天草の荒波、独り言のプレリュード』
天草の海は、どこまでも澄んでいた。
だが、中継車から降り立った水前寺航の心は、阿蘇の霧の中よりも混迷を極めていた。
「……よし、マイクチェック。……なあ由佳君、今日の俺のアロハ、ちょっと派手すぎないか? ……ああ、そうか。いないんだったな」
返ってくるのは、カモメの鳴き声だけ。
由佳が産休に入って最初の地方ロケ。航は、まるで右腕をもがれた剣士のような、心許なさを抱えていた。
トラブルは、ロケ開始 5 分で始まった。
天草名物のタコを紹介するはずが、航が海に身を乗り出しすぎて、ポケットに入れていた「海と空の成長記録ノート」という名の観察日記を波間に落としそうになる。
「あああ! 佐藤先生の書いた精密な発育曲線が!僕の大事な観察日記が」
慌ててノートを救おうとした航は、そのまま浅瀬にドボンと落ち、全身ずぶ濡れに。
スタッフが騒然とする中、航は濡れたノートを抱きしめ、カメラに向かって震える声で言った。
「……皆さん、これが天草の海の、命の重みです。……冷たいです」
お昼休み。
独り寂しく豪華な刺身定食を囲む航のスマホに、佐藤先生からビデオ通話が入った。
「航さん。画面越しにあなたの瞳孔を確認しました。明らかに『由佳ロス』による集中力の欠如が、統計学的限界を超えています。いいですか、あなたは今、水前寺家の家長ではなく、熊本の朝の顔なのです」
「わかってるよ、佐藤! でもな、このウニ、由佳に食べさせたかったんだ。それに、この真珠みたいな光り方、空の瞳にそっくりで……」
「……論理の飛躍です。食べなさい。そして、働きなさい」
ブチリ、と切られた画面。佐藤先生なりの、不器用すぎる「喝」だった。
午後のメインイベント、イルカウォッチング。
船の上でマイクを握る航の前に、二頭の小さなイルカが跳ねた。
仲睦まじく、互いの体を擦り寄せるようにして泳ぐ、双子のイルカ。
カメラは、航の顔をアップで捉えた。
いつもの軽妙なトークが、出ない。
航はマイクを下ろし、ただじっと、その小さな命の輝きを見つめていた。
「……皆さん。今、あそこに二つの命が走っています。……俺は、ずっと彼らをリードしてやるのが『親』や『上司』の役目だと思っていました。でも、違いますね。彼らが自由に泳げるように、この広い海を、ただ見守ってやること。……それが、三流の俺にできる、唯一の一流の仕事なのかもしれません」
その時、スタッフが掲げたカンペにはこうあった。
『由佳さんから電話。海くんと空くん、初めて笑いました!』
航の顔が、一瞬でクシャクシャに崩れた。
彼はカメラに向かって、鼻を真っ赤にしながら叫んだ。
「由佳君! 聴いてるか! 俺、今夜中に帰るぞ! 天草のタコ、全部買って帰るからな! ……あ、視聴者の皆さん、今のカットで! おはよう、くまもと! 今日も家族は、最高です!」
天草の夕日は、家路を急ぐ航の背中を、黄金色に染めていた。
相棒がいない不自由さが、彼に「共に歩む人」の尊さを、改めて再履修させてくれた一日だった。




