第29話:重心の愛、三流ギタリストのファースト・ホールド
『重心の愛、三流ギタリストのファースト・ホールド』
産婦人科の新生児室の前。
水前寺譲は、ガラス越しに並ぶ二つの小さなベッドを前に、完全にフリーズしていた。
「……無理だ。先生、俺には無理だ。あんなに小さいんだぞ? 俺のこの、弦のサビとタコで汚れた手で触ったら、壊れちまう」
「論理的ではありませんね、譲さん」
佐藤先生が、どこからともなく取り出した(おそらく病院の談話室から借りてきた)ホワイトボードを、新生児室の前に立てかけた。
「新生児の頭部の重量比率は全重の約 30\%。したがって、保持すべき重要拠点は頸椎、および仙骨の二点。力学的な分散配置を行えば、ギターの F コードを抑えるよりも遥かに少ない握力で安定します」
先生はキュッキュとマーカーを走らせ、赤ちゃんの『重心相関図』を描き始めた。
「先生、病院で何やってんだよ!」
航が駆け寄るが、先生の勢いは止まらない。
「航さん、静かに。これは株式会社『再履修』の存続に関わる、極めて重要な人間工学的ブリーフィングです。譲さん、左腕を 45^{\circ} に。肘の角度を鋭角に保ち、上腕二頭筋を『ゆりかご』のサスペンションとして機能させるのです!」
「……ゆ、ゆりかごのサスペンション?」
譲が、言われるがままに腕を曲げる。
「そうです! そして、右手で後頭部を優しく包み込む。その際、あなたの指先の硬化は、滑り止め(グリップ)として機能します。決して、凶器などではありません!」
病室のベッドの上で、由佳がくすくすと笑っていた。
「譲さん。先生の言う通りよ。怖がらないで。ほら、海が、パパを待ってるわ」
助産師さんが、白いおくるみに包まれた「海」を、そっと譲の腕に託した。
ごくり、と譲の喉が鳴る。
佐藤先生の言った通り、左腕を 45^{\circ} に。右手で、壊れ物を包むように。
すとん、と腕の中に、小さな、驚くほど軽い重みが落ちた。
「……あ」
譲の口から、声にならない吐息が漏れた。
温かい。
そして、軽い。
佐藤先生の物理学の通り、腕の力なんてほとんどいらなかった。ただ、そこに「ある」というだけで、譲の体温が、赤ちゃんの小さな呼吸と同期していく。
海が、ふにゃりと顔を歪め、小さな、本当に小さなあくびをした。
その瞬間、譲の目から、堰を切ったように涙が溢れ出し、赤ちゃんの白いおくるみにポタリと落ちた。
「……軽いよ、兄貴。先生。……こんなに軽いのに、俺の体、一歩も動かせねえよ。この軽さが、俺をこの場所に縛り付けてるんだ」
航が、譲の頭を、乱暴にクシャクシャと撫でた。
「当たり前だ、バカ野郎。それが『父親の重心』ってやつだ。お前はもう、どこにも逃げられないぞ」
佐藤先生は、ホワイトボードの数式を、静かにイレイザーで消した。
そして、真っ白になったボードの端に、小さくこう記した。
『水前寺海、空、抱擁完了。……結論:愛の力学は、重力を無視する』
病室に、静かな午後の光が差し込んでいた。
真菜と修、小穂が、ガラス越しに「空」のベッドを覗き込んで、あやす声を上げている。
譲は、腕の中の小さな重みを抱きしめたまま、自分の不器用な、硬い指先で、そっと海の頬に触れた。
それは、どのギターの弦を弾くよりも、優しく、繊細な、父親としての最初のタッチだった。




