白線
「うふふ。やはり貴女は、想像通り素敵なお方でしたわ……」
……今まで調理してきたどの食材よりも、そそられる。
ねばつく視線。
うっとりした口ぶりで楽しそうに微笑む女、『烏水 美禮』は、またその人格を変えていた。――もちろん『ラクの彼女』、凶暴な性質へと。
「…………」
「ふふ……。私、先生からお聞きして以来、ずっと貴女に憧れを抱いていましたの」
(そうよ貴女は、――わたくしの大先輩、ですものね)
形の良い薄い唇を、ひらりと真紅の舌先がひと舐めしてゆく。
黒髪をサラリと背中へと流した女は、返ってくる気配がまるでない……沈黙を守り続ける猫のような涼し気な眦を眺めては、ほうっと満足気に吐息をつく。
(気紛れな人ね。さっきまではあんなに楽しそうに笑い続けていたのに、今ではもうむっつりとして、とてもつまらなさそうにこちらを見ているわ)
一時の熱狂が過ぎ去った後の彼女の瞳は、凍てつく氷のように冷たい温度を保っている。
美禮はそんなアマネの様子も愛おしくて、愛おしくて仕方がなかった。その冷めた温度の瞳が憎悪の焔が黒々と燃えがってゆく様は、きっとひどく楽しい見世物に違いないだろうから。
「本当に、この日が来るのを楽しみにしていて――」
「…………」
「最近では夜もろくに眠れないくらいでしたの」
桃色に染まった頬と、白い肌に浮き上がった黒い血管のコントラストがいっそう女を禍々しく彩っている。
「ですから――」
パチンと泡が弾けるような音が響く。
胸の前で小さく指を打ち鳴らした女は、余裕たっぷりに上からアマネを見下ろし言った。
「ですから私、――先程のパーティーくらいでは、到底満足できかねますの」
「――っ、」
ヒュッと、息を呑む音がした。
眼前の女の目が大きく見開かれ、その奥に潜む瞳孔が忙しなく上下に揺れ動き始めているのが見てとれた。その落ち着きのない哀れな人間の痴態に酔いしれて、美禮は再度体中が充足感で満たされるのを感じた。美しい長い髪がのたうつ蛇のように不気味にひるがえる。
――そうだ、ずっと、私はこの瞬間を待ち望んでいたのだ。
ヒト、ひとりがこの手で壊れていく瞬間。……その瞬間だけは、世界は美禮を哀れな被害者から、この世の支配者たる美しい女王へと変貌することを許す。
美禮は高鳴る胸の鼓動を抑えるかのように両の手の平を胸の前で握り込めると、淑女のような楚々とした仕草で一方の手を大きくアマネに向けてニンマリ嗤う。
「見てください! 大切な貴女に向けてのプレゼントです。――さあ、これが本日のメインディッシュ。どうぞ、お熱いうちに召し上がれ」
「――そ、そんなっ」
驚愕に見開かれた視線の先は舞台女優のような大仰な仕草をしている女の、その背後へと注がれている。そこには覚束ない足取りでこちらへとゆっくりと向かって来る黒い影が、――年老いた一人の老人の姿が映し出されていた。
「そ、そんなっ! アレは、お爺さま!?」
自分の喉の奥からは、みっともなく死にかけた雛のような呻き声が聞こえる。
顔半分からズレ落ちてしまった白い仮面の奥より覗くのは、干からびた男の瞳――しかし、かつての鉄腕ぶりを色濃く残したソレだった。杖を突き、よろめきながらも歩くかつてのアマネの祖父、本人のものに間違いなかった。
こうして直に顔を合わせるのは、実に十数年ぶりのこと。もっともアマネ自体は時折、祖父の顔を経済雑誌等の媒体で目にすることは幾度かあった。が、しかしこんな覇気のない、虚ろな表情の祖父にはついぞお目にかかったたことはない。
どうやったかは知らないが、密かに拉致してきたのだろう。すでに現役を終え、後は余生を楽しむのみとなった老人の身辺など、この日本において厳重に守られているわけがない。美禮にとっては、それこそ赤子の首をひねるがごとき楽な仕事に違いない。
殺されてはいないが、ちゃんとした意識があるかどうかも怪しい目前の老人は、美禮の操り人形と化した無力で哀れな存在に過ぎず。
だと言うのに、それなのに、――。
「……っ、うぅっ……」
ふらついた足取りで一歩、一歩、着実にこちらに向かって来るあの重たい足音がひどく恐ろしくて仕方ない。かつて、アマネにむかって振るわれた罰にも似た彼の手に収まる長い棒から目を離すことが出来ない。
アマネはいつの間にかその全身を震わせて、哀れな枯れた老人の存在に全力で怯えていた。
「っ、い、いや、……嫌だっ! お爺さ――」
かつてのように、許しを請おうと首を左右に振った。
――その時だった。
顔を背け、近づく彼から身動きの取れない体を必死に遠ざけようとするアマネの耳に厳しい一喝が届いたのは。
「うろたえるなっ!!」
全身を震わせている黒髪の隙間からは、こちらに鋭い視線を向けている美禮の黒い瞳が透けて見えた。その瞳の奥には燃え盛る憎悪の焔が見て取れる。
「――っ!?」
その迫力に思わず視線を奪われたアマネは、もうすぐ傍にまで迫っている足音に再度怯えの色を見せかけるが、
「みっともなく、無様にうろたえるな!!」
という、目の前からの大きな地響きのような声に体を縫い留められる。
「怯えるな! コイツでしょう? コイツが諸悪の根源でしょうがっ!!」
長い黒髪を乱暴に両手に巻き付け、血走った眼でアマネを責めるように見つめてくる美禮。彼女は畳み掛けるようにして、なおも言い募る。
「コイツのせいで貴女は地獄に落ちたのよ!! 全部全部、コイツのせいよ!!」
「お爺さまのせいで、あたしは……地獄……に」
「そうよ! そうよ! しっかりしなさいよ!! ――全部全部全部! コイツが悪いのよ!」
アマネはただ目の前の彼女に操られるかのように、ぼんやり繰り返して言った。
「ぜんぶ……全部、お爺さまの……せい……?」
「当たり前じゃないっ!! そんなのはさっき、貴女も思い知ったはずじゃない!?」
彼女がそう言ったとたん、先程までの苦くこの身を焼き尽くすかの如き激怒が胸によみがえってくる。
「……っ!」
胸に渡来したあまりの苦しみに、一瞬にしてアマネの息が止まる。アマネは止まってしまった呼吸を再び肺に取り込むため、醜く犬の様に繰り返しはっ!、はっ!と舌を突き出し苦しく喘ぐ。
「貴女は悪くない。……全部、このジジイのせいよ! そうよ、そうよ!! 私たちは、なんにも悪くないっ!」
「……っく、……っ」
頭の奥でチカチカと赤く瞬くモノがあった。それは恐らく警鐘だ。
これ以上はもうダメだ。進んではいけない、という『人としての本能』が発する警告。
「ぐっ……」
顎を伝って美しいカーペットに落ちるのは、汚い涎。
そして、自らの疎ましい呼吸音の隙間に聞こえくるのは、足を引きずった怪物の足音。
「悪い……のは、……悪いのは、お爺さま……っ!」
「ふふふ、ふふふふふ。そうよ、そうよ、そうよ!! 悪いのは、お爺さまっ。お爺様なのよ。ふふ、アハハ! あはははははっ!!」
「お爺さまが悪い、お爺さまが悪い。そうだ、――お爺さまとアイツがっ! アイツが悪いっ!!!!」
後ろ手で縛られた手の平に鋭い爪が食い込んだ。皮膚を破り血が流れる。
真っ赤な血が、夕焼けのように紅い血が、――黒い黒い、穢れた血が。
黒、黒、黒。
黒い……、黒いあの男。
そうだ、アイツだ。地獄の化身のような黒を纏うあの男。
全部、――アイツのせいだ。
手伝ってくれるとそう言ったのに、言ったのに!!
――結局、あたしを助けてはくれなかった、アイツが悪い。
ブツリ。
今、何かが途絶えた。
アマネは何かを失ってしまった。――決定的な何かを。
(ああ、ああ……。また間違えてしまった)
瞬間、胸に去来するカサついた寂しさは、瞬く間に憎悪の炎にとって代わってゆく。その黒い焔のその狭間に、アマネの脳裏に浮かんで消えたのはいつかの風景だった。金髪の女性と、壮年の美丈夫。彼らと過ごした何でもない、穏やかなだけの午後の一時。きっと、もう訪れることはないありふれた時間。
日常の一コマが愛おしくも手からすり抜けてゆくのを、アマネは確かに彼女の意思をもって見送っていた。
「コロセ、コロセ、コロセ!!」
「ころす、ころす、殺す!!!!」
自由になった体が前に倒れる。
片手を突いたアマネは、緩慢な仕草でもう一方の手を懐に入れると、起き上がると同時にそこから取り出したモノを慣れた動作で突き刺す。
「……、……っ」
足元には真っ二つに割れた仮面が落ちる。
そして、止まってしまった右手。
その手の上にもう片方の手が重なったとき、目前の対象は濁っていた黒の瞳に幾ばくの光を宿したまま、ただ黙し倒れていった。




