操り人形の詩
――ポトリ。
真っ赤な血液が鮮やかな文様を描くように、美しいカーペットの上を汚してゆく。
ダラリと垂れ下がった彼女の両手からは、カラリと乾いた音をたてて長い釘が滑り落ちる。室内に空虚な音色を響かせたソレは、長きに渡り、多くの人々の上で暴君のように君臨していた男にあっけない終わりをもたらしていた。
目を見開き、仰向けに倒れ事切れた老人の前で膝を突き、放心した様子の彼女の背後へそっと忍び寄ると、美禮は湿った唇をアマネの耳元に近づけて吐息混じりの言葉を吐き出す。
「ああ、」
――ついに、殺しちゃいましたね。
ピクリと動いた彼女の肩を優しく一撫でしてから立ち上がり、改めて跪いたままの彼女を見下ろす。そして、思う存分、その無様さを鑑賞して微笑む。
腹の底から湧いてくる堪えきれない高揚と共に喉元まで競り上がった嗤いの衝動を抑えるために、ゆるりと首を振った。
(ああ……、こんなにも心が弾むのは久方ぶりだわ)
ずっと、ずっと私は楽しかったはずではあるのだけれど。そう心の中で呟きながら、小さくかぶりを振る。
いや。いや。……いいや。
私はいつだって本当に――
「人生って、本当に楽しくてたまらないのね」
そう言って笑う女の顔は、真っ赤な血だまりの上でひどく皮肉気な笑みを見せていた。
「…………」
目の前ですっかり腑抜けてしまっている木偶人形を、美禮はしばらくは楽しい気持ちで眺めてはいたのだが、やがてこうも無反応では飽きがくる。――正直なところ、張り合いがないにも程がある。
結局のところ、普段から強い人間というのは、いつもどこかしら無理をしている人間という事。こうやってピンポイントでその無理をしている部分を突っつけば、あっという間に馬脚を露して崩れ落ちるのが必定。
「――あっけないですわね」
どこか落胆する気持ちを胸の片隅に抱いたまま、美禮はかねてより用意していた『彼女用にあつらえた特製の仮面』を室内のキャビンから慎重に取り出す。
それは、一見するとなんの変哲もないただの真白い仮面であった。石膏で造られたシンプルなそれは、もちろん美禮が用意したものであるからにはただ見た目通りのモノであるはずがない。これは、
「貴女用に作った仮面です。――安心してください。そこらの雑魚たちにあつらえたモノとは、まったく別モノになりますわ」
と言ってから、手の中にある仮面をそっと一撫でする。
(ええ。もっと素晴らしくてもっと苦しいもの。……ですので)
これは私が造ったものではなく、あのしみったれの『哀の方の美禮』が造り上げた仮面だ。ひとたびこの仮面を身に着けた瞬間、頭の中は『哀』……悲しみの感情で一杯になる。それはもう、酷い代物だ。唯人がつければ、きっとすぐさま自分の蟀谷を自分で撃ち抜きたくなること請け合いのモノだ。きっとすぐさまアマネの頭の中も、純然たる悲しみで一杯となって目の前のちっぽけな悲しみなど目にも入らなくなる事だろう。
(くすっ。――まったく、哀の私も趣味が悪いわ。これが『この私』の造った仮面ならば、アマネさんの頭の中を『楽』、楽色一面にして差し上げますのに)
美禮は自分の右手を口元にやり、半月状に吊り上がっている真っ赤な唇を手の平で覆った。
(――私たちの造る仮面は、『私たちの感じる感情をそのまま相手に移す』という能力を持っている。感情を移す……。それは、まさに私たちにとっては最適の能力だ。何故なら、解離性人格障害の私……美禮は、本体を含めて『5つ』の人格を宿している。そしてその人格はそれぞれ綺麗に別れており、美禮の「喜」「怒」「哀」「楽」の感情を司っている)
そもそも、楽である私は、喜も怒も哀も覚えない。
そして、それはまた逆も然り。
楽の私は二十四時間、ずっと頭の中は楽しい感情で一杯になっているし、それ以外のどの感情も覚える事は出来ない。美禮が感じ取る楽の感情は残さず全て私が、楽を司る人格であるこの私だけのものになる。私はほんの一欠片もこの感情を他の人格、……本体にすら分け与えるつもりは無いし、受け取るつもりもない。
そんな我らが一心に造り上げた、人間から一つの感情のみを引き出す仮面。
それは、もはや兵器と言っても差し支えがない程の強力な力を秘めている。
そう……。
烏水美禮の呪祝は、『自己の感情を他者に分け与える』というものに他ならない。
これは、長年制御できない己の感情をずっと厭ってきた美禮が強く望んで他人格に分け与えたもの――もとい、勝手に押しつけてきたものである。ならば、それを一人占めするのは道理だろう。それこそが、私がこの世に存在する意味ともなっているのだから。
結果として、全ての感情を切り分けて与えることとなった本体が、今現在どのようになっているかなどは『内的自己救済者』を兼ねる哀の方の美禮ならざる身にとっては、まったくもってあずかり知らぬところであるし、また興味すら無い。また、本体どころか私は他の二つの感情……「喜」と「怒」の行方すら正直知らない。生きているのか、もう消えているのか……。辛うじて交流が出来ている哀の私の話を聞くにどうやら、「怒」の方の私はすでに消え失せ、「喜」の方の私はその性質が危険すぎると判断され、美馬先生によって封じられてしまったようだ。
(可哀想に……。でも、貴方達が消えてくれたおかげで、私はほぼ独占的にこの体を使うことが出来ている)
憐れみの感情すら楽に変換してしまうので、ちっとも悲しくなんて無いし感謝なんて酔狂もしないのだけれど。そう笑ってから、美禮は再び思考する。
よって今現在、『烏水美禮』の体を動かせるのは『楽を司るこの私』と『哀を司るあの私』しかいやしない。これはある意味、人格統合前夜とも言える状態にまで仕上がってきているとも言えるのかも知れないが、あの気に食わない哀の女はその優等生面を晒して自分には主人格になる気は無いと嘯く。かと言って、楽の私が美禮の主人格として生きていけるかと問われれば、この私ですら首を横に振るだろう。
何故なら、この私は楽しいことしかしないからだ。
楽しく感じないことなど、一切出来ない。
感情がどうであれ、世間一般の常識はそのまま持ち合わせている美禮たちにとっては、それがいかに無茶な話かは理解しきっている。
しかも、もっぱら現在、私が楽しく感じることは二つだけ。
その一つが、こうやって他者を痛めつけ、矜持を折り、木偶人形へと貶めるという事だ。
私はその事実を理解しているし受け入れている。承服しかねているのは、むしろ哀の方である。
楽の感情しか持ち合わせのない私でも、あの哀の方の私はその性質が真逆であるためだろうか。――ひどく彼女が鼻について仕方ない。目障りであるとさえ思ってはいるのだが、簡単にその存在を抹消してしまうわけにもいかない。
私に出来ないことはあの女が――。さらに言ってしまえば、残念ながらもしこの先、本当の意味で美禮の存続を願うのならば、きっと真に必要となるのはアイツだけであろう。
――ここにいる私は結局のところ、本体がいなければいもしない、一時の幻のようなものなのだ。
「貴女には、私の駒の一つになっていただきます」
だが、ただ消えてしまうのでは楽しくない。
木偶に成り下がったハンターを見下ろしながら、私は誰も聞くモノがいない宣言をする。いや、私は私に告げているのだ。消えるにしても、私は最大限楽しくこの世から去るのだと。
哀れな分身の様な宮田アマネの姿を眺めながら、私は胸中でポツリと呟く。
――死は恐ろしくない。
むしろ、楽しいとすら思えてはいる。……が、それはそれ。
美禮の生存条件が厳しいのもまた、攻略がとても楽しみであり心躍る。なにせ、死ぬのは簡単で最も楽な道のりだ。いつでも出来るが一度やればそれで終いである。それならば、多少の困難が付き纏おうとも、最大限の楽を味わえる困難な道を行くのもまた一興。面倒な事柄も、後からそれすら楽に変換できるとすでに私は学習済みだ。
で、あるならば、次の障害と考えて間違いないのは『神捜研』であり、私の主治医でもあるあの男のことだ。聞けば、黒屍病を発症した人間は漏れなく彼に消される運命にあるらしい。百戦錬磨の彼らを前にして、いかに楽観的な私であったとしても楽々勝利できるとは思ってはいない。
「先生。残念ながら、お約束もここまでですわね」
彼は言った。
ミヤタアマネを殺せば、ウスイミノリを助けてやると。
まあ、率直に言って罠に決まっている。きっと、彼は産まれたばかりだった美禮たちを侮っていたのだろう。頭の悪いイカレタ病人に過ぎないと見くびっていたのだろう。
だが、その油断こそが命取りになるときっとすぐにでも知ることだろう。
「ミヤタアマネは黒屍病に罹っていた。黒屍病患者同士を争わせて、残った片方を先生自らが殺す。……なんて合理的で理想的な展開! ……ふふっ。そんな絵に描いたような物語、上手くいくわけありませんわ」
かと言って、そうだ。赤子同然の黒屍病の人間一人で叶う相手でもない。そう、一人ではかなわない。
「ささっ。立ってみてください」
彼女の腕を掴み取り、その体を無理やり上へと引っ張り上げる。ゆらりと傾いだ黒い影には、濁った闇色の瞳があるのみで、そこに意思の輝りは一切ないように見受けられる。だが、気にしない。
「これを被って。ホラ、気持ちよくなってきたでしょう?」
(気持ちよく悲劇のヒロインぶって、悲しみで脳内を隅々まで侵され尽くすのは快感ではなくて? 自罰的な貴方には、きっとよくお似合いの壊れ方でしょう?)
被せた白い仮面の下の表情を思い描いて、愉悦を止めることが出来ない。叶うのならば、自らの目で苦悶するアマネの姿を見届けたかった。
「その悲しみから逃れたいのでしたら、よく私の言うことを聞いてくださいね。――あの男を、神捜研の貴女の同僚を皆殺しにして来てください。たった一人も残さず、全員殺してください。そうして頂いた暁には、これ以上の悲しみは止めて差し上げます。むしろその先、この楽の私が貴女を極楽浄土まで案内することをお約束いたしますわ」
――最後まで笑って死なせて差し上げます。
そう微笑みかけてから、ふと思いつきで机の上にあったペンを手に取る。
キュッ、キュッと小気味よい音がしばし辺りに響き、目の前の仕上がりに満足した美禮はやっとその手から赤いサインペンを離した。
目の前には出来上がったばかりの、真っ赤な三日月を上下に三つくっつけた、愉快犯の笑みが広がっている。
私と宮田の二人……。いや。いくらでも人格を創り出すことが出来るミヤタアマネさえ居れば、きっと楽しい勝ちを得ることが出来るのだろう。
美禮は、そっと自らの唇を赤い月の一つに贈って囁いた。
「さあ。楽しみましょう、私の可愛いピエロさん」




