黒き血脈
――どれくらい経ったのだろう。
まだアマネは下を向き、項垂れていた。俯いた顔の両頬近くを短い茶色の髪の毛が流れて表情を覆い隠してくれたのは幸いだった。アマネはもはや、重たいだけの頭を持ち上げる気にもなれず、ただじっと足元にある一点をひたすらに見つめていた。
あれから、多くのことを思い出したような気がする。
しかし、依然として多くのことが失われたままの様な気もする。
そもそも思い出した記憶、それら全てが正しいのかもあやふやな状況だ。霞んで見える不明瞭な足元。いつの間にかこんなにもグラグラと崩れ落ちていたなんて――。
アマネは、彼女同様にずっと目の前に立ち尽くしている人間の、白くか弱い足首を眺めて瞬きをした。
――先生が私を多重人格に仕立て上げたのは、おそらくそれが都合良かったから。
彼はずっと、黒屍病にかかった者を殺せる人材を探していた。
残念なことだが、黒屍病は移る。
人から人へと移ってゆく。それは接触の度合いが強くなればなる程、また伝染率は高まっていった。
彼らを殺す時、殺す者はいずれまた彼らと同等の存在にまで堕ちてしまう。その末路が、あの第二次『神捜研』で起こった悲劇だ。最期になって、一緒に仲良く心中するより他に道がないとはとんだクソったれな話だ。
だが、その悲劇を失くそうと、ひとり密かに研究を続けていた者がいたのだ。
――それが彼、『美馬 一縷』。美馬隆二の祖父にして先代『美馬精神病院』の院長だった男。
そして肝心の研究内容と言えば、『DID』――多重人格障害の患者を使って、彼ら自身を黒屍病患者の始末に当たらせるという手法だった。しかしこの手法、例え用いたとしても、それは黒屍病の感染自体を防げると言うわけでは決してない。多重人格者には特段、黒屍病に対する免疫があるわけでもなかった。
それは、予防ではなく対処方。
感染した後に手立てがあるのだ。……多重人格者には。
全てが解明されたわけではない。まだまだ現在においても不明点だらけのこの黒屍病は、だが確実に一つだけ、当時であっても判明していたことがあった。
それは、『人間の精神に作用する病』だということだ。
いかな原理においてそうなっているのかは判然としないが、それは季節の病のように瞬く間に人々に伝染してはその精神を狂わせてゆく。
ならば仮に、汚染された部分だけを治療できれば、あるいは切り離すことができれば、助かる道があるのではないか――。
しかし複雑な人間の精神の一部だけを狙い、外科手術のように容易く切って取るなどと『普通の精神状態の人間』に耐えられるはずがない。そんなことをすれば古き過ち――過去、実際に行われたあの忌まわしき『ロボトミー』のような失敗が待ち受けていることは想像に容易い。
だが、美馬一縷はある日、複雑な人間の精神の断片、そのひと欠片……『一人格だけを切り捨てる』ことを思いつく。
彼は、故意に感染させた一つの人格が黒屍病の限界点を突破する前に、その多重人格者の内側から消してしまえばいいと考えた。一人格のみの犠牲。それは最小の犠牲で最大の利益を生む方法だった。
それはあたかも悪性のがん細胞のみを切り取る様に、主人格への転移さえ気をつければ上手く被験者を生かしつつ、次の対象者の殺害を継続して行えると言うことを指し示していた。
――また、一度多重人格になった者は、再び多重人格を容易く創り上げることが出来る。
それはある種の、永久機関に等しいモノだった。
これによって、従来の人ごと使い捨てる戦い方から人格と言うミクロの使い捨てのみで済むようになり、それはせっかく育て上げた人材の浪費を抑える、という意味からも大いに意義のある実験だった。
このことは後に彼の孫である隆二によってさらに発展していき、今ではある程度の発症を抑えつつ、捜査官は継続して任務に当たれるよう体制を構築し直していた。したがって、かの研究は第三次『神捜研』にとっても一つの貴重な財産になったとも言える。
――だが。
そう……『実験』、……だ……。
『美馬一縷』、彼にとってはそれら全てが黒屍病研究の一旦に過ぎなかった。
そうであったはずだ。
過去、幾度記憶を塗りつぶされようとも、アマネには決して忘れ得ぬものがあった。
あの男の顔。紳士的な態度と理知的な風貌の下に隠され続けてきた、あの男の本性。
『狂信者の仮面』……あの男がアマネの内側を引き裂くとき、どんなに瞳を輝かせていたことか。どんなに楽しそうに、無邪気に、狂った実験の渦へと彼女を突き落したことか……。それだけは、それだけは決して、死んでも忘れはしないと誓うことができる。
あの恐怖、あの絶望――。
信じていた人間の手で叩き堕とされた地獄の味を、アマネは決して忘れはしない。
果たしてあの男にアマネはどう見えていたのか。せめても人の形をしていたのだろうか? それとも単なる肉人形、モルモットの一匹に過ぎなかったのか。
「っ……ふふっ」
口からは何故か、笑い声が聞こえる。
涙もでやしない。
かつては――。
そう、かつては、確かに泣いたのかもしれない。
「――ああ。やっぱり……」
(覗くんじゃなかった)
アマネは乾いた笑いを口から漏らしながら、頭の片隅でぼんやりと考えていた。
――そうだ。
覗いてはいけなかった。
あの白い扉、あの診察室の中を見てはいけなかった。
興味なんて、抱いてはいけなかった。
――くだらない好奇心
それが、あたしを、宮田アマネを殺すモノの正体なんだ。
イギリスの古いことわざにある『猫は九度、死なねばならない』
しかし、あたしはもうとっくに、九回以上は死んでいる。ならばこれは避けられぬ必定か。
「なぁ~んだ。あたしって、化け猫だったのか」
かつて人でなしと彼に呼ばれたこのあたしは、きっとその正体が化け猫だったに違いない。だって、九回以上死んでもまだ生きている。
「――ああ、あと何回だろう」
……もうダメだ。
このアタシは、もうダメなんだ。
黒い足首を眺めてから、また笑う。
狂気は伝染する。
朝焼けのなか、二人の女の密かな声を、窓辺のクマが退屈そうに聞いていた。




