失くした友
「くっ……ひっく、ひっく、……っ」
ここは澄んだ湖……そのほとり。
女の子が一人、しゃがみ込んで泣いている。
辺りは幼い少女と、その背丈の倍はあろうかという大きな木々に囲まれていた。黒い巨木の影に頭上から差し込む陽の光、その美しい白と黒のコントラストが、一層鮮やかに優美な湖を縁取っている。
ここは初夏の折、少女とその家族が毎年訪れる避暑地。
豪奢な別荘が立ち並ぶ閑静なエリア、その傍近くにある名も無き森の中だった。
恋人や親子が連れ立って、のんびりと散策に訪れる様なそんな場所にただ一人、澄み渡った清水の前でしゃがみ込む少女の影。
「あたしも、みんなと遊びたい……」
そう彼女が口にした時、また一粒、目から大きな涙が零れて透明な水面へと吸い込まれていく。
少女は一人、さめざめと涙をこぼし続ける。こぼれ落ちた透明な水滴はやがて湖の中に飲みこまれ、キラキラと太陽の光を受けて輝く湖面の一部へと加わってゆく。澄んだ水面の上では、真っ赤に目を腫らした少女が、まるで親とはぐれた子猫のような頼りなさで鳴く姿がユラユラと写しだされていた。
周囲に人の気配はない。
また不思議と、動物たちの気配も希薄だった。
そんな寂しげな場所でまた一粒、彼女は大きな滴を落とし、水面に小さな波紋を広げた。
と、その時だった。
穏やかだった湖面の上が大きく揺れ始める。水面にはさざ波が立ち、周囲には何やら得体の知れない怪しい気配が満ち満ちる。
――カサリ
びくつく少女の背後にある茂みの奥から、小さな物音が聞こえてきた。そしてそれは、だんだんとこちらへと近づいて来る……まるで、足音のようだった。
「ひっく……?」
少女は怯えて竦んでいた。
鳥か、獣か、……はたまた人か。
だが、いかなる存在で、いかような思惑があろうとも、今はこの場にいる孤独な彼女を傷つけるだけだろう。
寂しいと涙していたはずの少女は、今、ナニモノも現れないで欲しいと切に願った。――大きく矛盾したその願いは、彼女の小さな胸を二つに切り裂く。
彼女は待った。
その時を、――諦観の念を持って。
しかし、予想に反して彼女を傷つけ、害をなすようなモノの姿など一向に現れない。
辺りは相も変わらず穏やかで静かな午後の一時。ジリジリと追い詰められた心境のアマネをよそにして、時だけが何事もなく穏やかに通り過ぎてゆく。
――透明な湖、暗い森。
何も起こらないという不思議を訝しく思いながら、上げていた顔を下ろして、少女は赤く腫れた目を再度澄んだ鏡のようなソレに向ける。
(……寂しい)
ほっとしたはずなのに、今度は寂しくてたまらない。
湖の中の少女は、ぎゅっと唇を噛みしめて何かに耐えているようだった。堪えた感情がとうとう限界を迎え、ホロリと再びこぼれ落ちる寸前、それは起こった。
「こんにちは、アマネちゃん」
突如、少女以外の誰もいない、なにも無いはずの空間に振って湧いた軽やかな声。
弾んだ声で急に己の名を呼ばれた少女は驚き困惑し、次いでギュッと体を小さく丸めた。ハリネズミのようなその姿勢。すると、その様子を見かねたのか、今度はゆったりとした口調に変えた軽快な声の主は、アマネの背後から再び彼女に向かって優しく語りかけてきた。
「やあ、驚かせたかい? 大丈夫? 今、キミはひとりなのかい?」
親し気な口調の中に見え隠れする好奇心。男の声からは、そんなこちらまで楽しくなるような情動が満ち溢れている。
さらに驚くべきことには、そこには愛情の欠片までもがあった。
驚かせないように、悲しませないように計算され尽くした相手への配慮。そんな、今まで人から向けられた経験が一度もない深い声音と感情に圧倒されて、思わずアマネは目を白黒させる。いつの間にか目のフチをぼやけさせていた涙の欠片も、驚きと共に奥の方へと引っ込んでゆく。
驚く、と同時に訝しく思う。
彼女には正真正銘、そんな風に自分に話しかけてくるような大人の男性に知り合いなど、まったく心当たりもなかった。
(どこか、パーティーで会ったの?)
大人たちが集まる、まだ幼い彼女にとっては難しいパーティー。
時折、祖父に手を引かれ連れ出されたことがあった。その時のアマネはいつも、笑顔で明るく朗らかに笑っていた。……手を繋ぐカサついたシワシワの手の主に、決して失望されないために。
ドクドクと脈打つ胸の鼓動の音が、嫌に耳の奥に響いた。次第と、むくむく胸の内より警戒心が擡げてくる。緊張で喉がカラカラに干からびてしまいそう。
(ど、どうしよう……)
幼くとも『蛇乃宮』の娘。
すべきことは、ちゃんと理解している。
会ったことのある人ならば、すぐに次期当主に相応しい挨拶を。
知らない人間ならば、直ちに逃げ出し別荘の者に詳細を伝えなければ。
アマネは目元を拭っていた両手を顔からゆっくりと離すと、胸の前に持って行き固く握りしめた。緊張に強張る身を震わせながら、すぐにどんな対応でも可能なように足の踵を僅かに浮かせる。そして、慎重な動きで不審人物のいる方角を見ないように小さく頷いてみせた。
「そうか、そうか」
明かに警戒心がむき出しになっているアマネの姿を、それでも男はまったく意に介せずと言うようにカラりと笑う。深い森の中を大の男の心地よい笑い声が、朗らかな調べに乗って響き渡る。
その満足したと言うような男の声に、アマネは今までアマネしかいなかったこの暗い寂しい森の中が、パッと明るい陽の光で照らされたような錯覚を受ける。
少女は日頃、再三、祖父から言い含められていたことがあった。それは、見知らぬ人と容易く会話をしてはいけないと言う事だ。
何故ならそれは『ゆうかいはん』、かも知れないからだ。アマネのような家の子どもは、自分の身の回りの情報さえも気をつけなくてはならず、むやみやたらに周囲に漏らすことなど許されなかった。
――敵か、味方か
「お兄さんは……」
慎重に、口から言葉を押し出した。
『返事をしてはいけない』
……いつもならきっとアマネは、厳しくも優しい祖父の言いつけを破ることはなかった。
でも、
「お兄さんは、……誰ですか?」
そう消えそうな声で訊ねていたのは、一人ぼっちの寂しさに耐えかねたからなのか。それとも、湖畔に映る彼の顔に浮かんだ、あまりに親しみのこもった優しい笑みに心奪われたせいだったのか。
……彼女自身、何故なのかはその時ハッキリとは分かっていなかった。
少女のすぐ隣で、幼い彼女と同じ恰好をしてしゃがみ込む、ただ湖面を見つめているだけの大人。
男はすぐに少女の問いに答えなかった。だから、少女は男を真似て澄んだ湖面をただ見つめた。
湖に写る彼の姿は、年齢的に言えば自分の父親と同じくらいであるように見えた。が、もっとずっと年若いのではないか、という印象もあった。
柔らかな短い黒髪はややあちらこちらへと飛び跳ねており、なんだかボサッとしていて、アマネに別荘近くで見掛けた野良猫の尾を思い起こさせる。特徴的な大きな茶色のまあるい瞳は爛々と輝いて、しかし今は少しだけ細められて愉快な三日月を描いている。
(三毛猫、みたいな人なのね)
アマネは頭の中で、男の頭上に二つの突起がついたカチューシャを乗っけてみる。一度も行った事の無い、有名なテーマパークにある密かに憧れていた可愛いモノ。意外なことに、想像上ではこの男に結構似合っているように思えた。きっと、年齢や体格ではない――これが愛嬌と言うものなのかも知れない。
そんな、アマネの父では決して見せないような少年みたいな表情が、アマネの胸を大きく波打たせる。その瞳に浮かんでいる感情は、一体なんなのか。いつもの厳しい叱責を含んだモノでも、無関心なモノでもないように見受けられた。
もしくは、それこそアマネ自身の願望だったやも知れない。
「ボクか……。ボクはね……」
やっと、男が口を開く。
低く、軽やかな声が澄み切った湖面の上を滑ってゆく。
彼は湖面を見つめた。アマネと同じように。
……いや、アマネと同じように、湖面の中にいる隣の人間の瞳を覗き見ている。
アマネと、後に彼・『一』と名乗った青年の瞳が水中で交わる。
「ボクはね、アマネ。――キミのトモダチだよ」
カラりと爽やかな初夏の風が、二人の間をそっとすり抜けていった。
瞼を開けるとそこはいつもの部屋。
窓辺に座るテディベアが退屈そうにこちらに背を向け、朝日の昇りを眺めている。
「ここは……っ痛!」
――随分と長い夢を見ていた気がする……。
まるでヘビーな二日酔いのようだ。
頭に走った鈍痛に、アマネは思わず顔を顰めて右手を蟀谷に押しつけようとした……。つもりだったが、まったく右手が動かないことに気づく。右手、どころか両腕全体が固定されて微動だにしない。
アマネの両手は座った椅子の背後に回され、何か縄の様なものでキツク縛められていた。辛うじて足は縛られておらず自由に動かせていたのだが、腕と腹、両方を強く固定されていては、立ち上がることすらままならない。
「ちょっと……」
焦って背後を振り向こうとすると、すかさず鈍痛が蟀谷に走る。グッと奥歯を噛みしめ、無様な悲鳴を喉の奥の方で噛み殺すと、目の奥に走る鈍い痛みに耐え抜く、とすると――
「大丈夫、ですか?」
前方から声が掛けられる。鈴の鳴るような美しい声。
アマネは、ゆっくりと頭を上へ持ち上げる。そこには――、
「……美禮」
「ええ、おはようございます、アマネさん。ご気分はいかがですか?」
血のような橙色の朝日を背に、美しい黒髪をたなびかせた美禮の姿が目に焼き付いた。
「はぁ~……」
アマネは大きくため息をつくと、こちらを気づかわし気に見つめる黒い瞳に向かって呟く。
「最悪よ……。安っすいワインをしこたま飲んだ後、シャワーも浴びずに寝てしまった朝みたいに、最低な気分だわ」
目の前の彼女を安心させるように少しおどけた口調で言うと、彼女はひどく申し訳なさそうに視線を伏せた。
「ごめんなさい……」
消え入りそうな声で謝る彼女の姿があんまりに哀れで悲しく見えたので、アマネはもう一度明るく声を掛ける。
「まあ、もういいの。てゆーか、あたしもゴメンね……」
(殺しかけてゴメン。あと、殺しきれずにゴメンね……)
もう一歩であった事は確かだ。しかし、その結果がコレだ。
何事も、――特に神捜研の中では結果が全て。捕らえられた捜査員の末路など、もはや明白であった。
苦笑するアマネを前に、やっと伏せていた面を上げた彼女のまっ白な肌。そこに、あの忌々しい黒い線がうっすら浮かびあがっているのを認める。
「……」
それを見たアマネは何ともやり切れない気分になって、そっと視線を彼女から外した。悲嘆に暮れている彼女を慰めようにも、情けないことに身動き一つままならない。
(やはりあたしには出来なかった。彼女を殺すこと、なんて……)
もはやどうする事も出来ないのだと、諦めと安堵が入り混じった吐息をもらす。
そうやって外した視線の先を窓辺にやると、ちょうど朝日が昇りきったところだった。微かに聞こえてくるのは鳥のさえずり、そして柱時計が低く時を刻む音だけ。
「……」
美禮も黙りこくったままだった。元より口数が少なかった彼女の前、アマネすらが口を閉ざせば、あの暗い森の中のような沈黙が周囲に漂う。
(あの森……?)
ふと、違和感が襲ってきた。
あの森とは、どの森のことだろう?
いや、分かっている。あの森とは過去に毎年夏に避暑地として訪れていた実家の別荘のことだ。
しかし、何故今になって急に思い出してきたのか? アマネは今の今まで、そんな遠い過去の記憶など忘れ去っていたはずなのに。
そう言えば、確かあの森で会ったのはアマネの大切な友達……。
彼のことを思いだす時、すなわち目の前の人間の正体も理解していた。
「貴女が聡明なイブだったのね。いえ、正確に言うならば烏水美禮の『内的自己救済者』……」
美禮の体が大きく揺れた。彼女は少しの後、小さく頷いてからこう言った。
「はい。私は烏水美禮の『内的自己救済者』であり、彼女の『哀』の感情を司る人格です」
初めて見る彼女の笑顔は、悲しく寂しいほろ苦い笑みだった。




