雨の中 溺れる
『次のニュースです』
『最近、都内で若い女性の海難事故が多発している件を受けて、海上保安庁から注意喚起が発表されました』
『……であり……、死者…………。……、皆様、海にお出かけの際には、十分に気をつけてください』
画面には冴えない顔色の中年女性が映っていた。
「潮時か」
軽く頬杖を突き、白衣姿の女がポツリと呟く。
時計の針は午後8時を指そうとしていた。仕事の定時である午後5時15分はとっくに過ぎている。
一人、警視庁の食堂に座り薄型テレビを眺めていた女――『ミナー・T・ガブリエル』は、一旦、ニュースから目を離すと窓の外を眺めた。その耳に、引き続き天気予報を告げる鼻にかかった甘え声を出す若い女子アナのセリフが入ってきた。
『明日も都内は雨の予報です。特に明日午後から夜にかけて、都内一帯は豪雨に包まれるでしょう』
『傘をお忘れないよう、お気をつけください』
その時、彼女の視界を白が覆った。
暗闇を切り裂くように雷光が走った直後、一拍遅れの轟音が周囲にとどろく。キーンと耳鳴りがする中、ミナーは椅子を倒して立ち上がった。
「あれは……」
彼女はすぐに走り出す。
食堂には、倒れた椅子が残されていた。
……体が小刻みに震えていた。
長らく雨に打たれたからだろうか。ひどく寒い気がする。
濡れた革が体に張り付く感触が不快だ。
「アマネ」
耳元で囁きが聞こえる。
「アマネ」
それは怨嗟であり、嫉妬であり、祈りのようでもあった。
「アマネ」
今まで殺してきた人たち。殺してきた男たち、殺してきた女たち。
「アマネ」
黒屍病患者……恩師……恋人……。
――人格、
「アマネッ!!」
突然、手を後ろに引かれる。一歩、右足が後ろに出た。
振り返ると、そこには白い顔を青く染め上げたミナーがいた。彼女は左手に青色の傘を持ち、右手でアマネの腕の裾を握っていた。
「キミッ!! 馬鹿っ!! 一体、何やってるんだ!!」
豪雨に負けない怒声が胸に突き刺さる。
「あ~~、っもう!! すぐに戻るゾ!」
聞き取れたのはそれだけだった。もっと、たくさん何かを言われた気がする。彼女らしからぬスラングを、早口の仏語でイライラと話すその腕を振り払った。
――パシャリ。
「あっ……」
彼女はバランスを崩し、水たまりの上に落ちていた。一拍置き、その隣に青色の傘がひっくり返って並んでいた。
「あっ……あまね」
邪魔な者は殺してきた。
私を殺しに来た黒屍。私を搾取する医者。私を惑わせた女。
私を裏切り、私より大事なモノを作っていた人格。
「アマネ?」
彼女は雨に打たれて震えていた。私は革手袋を脱ぎ捨て、その震える頬に触れていた。
「――アマ」
腰を折った私が盾になっていた。雨粒を受ける私の頬から一筋落ちる滴が、彼女の顎を伝い落ちる。
「……」
「……」
「好き」
「えっ?」
彼女は未だ自身に何が起きたのか理解できず、座り込んでいた。私は構わず、彼女を見下ろし言った。
「昔、好きな娘がいた……私……自分の気持ちに気づかないまま……その娘を壊してしまった……」
彼女の瞳が揺れた。
密かに憧れ続けていたその碧い瞳に映るのは、今は私だけ。
「さようなら、美しい人。貴女の幸せを祈っているわ……」
彼女の手が離れてゆく。
ミナーは咄嗟に手を伸ばしていた。
けれど、白い手が黒い手をつかむことは叶わなかった……。
彼女を殺したのは、紛れもなく嫉妬からだった。
自分が掴めなかった幸せを、簡単に享受する彼らが許せなかった。
初めて愛し合った人間が、同性であったことを受け入れがたかった。
今まで自分を最優先してきた彼が、他者を優先する姿を裏切りだと感じた。
――羨ましかったのだ。愛するという事が……愛されるという事が。
だから、彼女を殺すことで彼に自分を選ばせようとした。
しかし、彼は選んだ。自分よりも彼女のことを。
『アマネ――もう、キミの傍にはいられないよ』
『ボクは失敗してしまったんだ。キミもアカリも台無しにしてしまった』
『だからボクを消えるが、キミは生きろ。大丈夫。キミは一人でも、この先にきっと幸せを見つけられる』
『そして世界を救うんだ。――彼らと、一緒に』
「無理よ、一。だって私、彼らを全員殺してしまったの」
彼が去ってほどなくして、アマネは自らの中に残っていた全ての人格を殺した。
自分で自分の統合を果たしたのだ。
その時のことは、無我夢中というよりはヤケクソであった。失敗すれば、廃人化……死が待っていたのだろう。だが、あたしにとってもやは自分の命など、どうでもいいモノであった。
やってみれば、どうということはない。むしろ、何故今までそうしなかったのかが不思議なほど、それは簡単に行われた。
隆二などはそのことに大層驚いていたが、今まで散々見せつけられてきた行為。全て先生が教えてくれたこと。その手順はしっかり、この目に焼き付いていた。
統合を果たしたあたしは、穴だらけだった。
失敗した。……いや、もとより『アマネ』は、誰からも失敗作として扱われていた。だから、当然と言えば当然の結果。やはり、彼らは正しかった。
統合ではなく、それは欠落であった。
今までに美馬先生によって消されてきた人格に加え、自分が殺してしまった人格も自らの中に戻ってくることはなかった。
あたしは、終に『一人』になることが出来なかった。
あたしは細かく小さな『ゼロ』の個体のままで終わる。
そう思えば、何故か世界に光が満ちた。
『人は失ってから、初めて気がつく』とは、言い得て妙だ。
人足りえぬあたしですら、この頃は出会う人たち皆が眩く、美しく感じて仕方なかった。そう感じたのは、あたしが失くしたモノを彼らが持っているからに違いない。
あたしはすぐに恋に落ちた。
彼らを愛し、多くの恋を抱えて生きた。
あたしの長年の夢は、ここに叶ったのだ。
誰かを愛したい。そして……、いつの間にか『彼に』愛されていた。
そう思うと、何故か今度は周囲が恐ろしく転じた。
それは、いつか終わりがくると予見できていた。今までしてきたこと、これからすること。
……何より、あたしは『輝の妻』としても、『あかりの母』としても相応しくなかった。償っていない、罪がある。
あたしは、終わりを引き延ばすために何でもした。
あの男に、『美馬隆二』に縋っていた。
悪魔は催眠療法を施し、私の中から罪を消し去った。
効き目の強いその魔法は、しかし雪のように溶けていった。
多分……、あたしが本当の『人間』でなかったせいだろう。
多分……、あたしも本当は『星』を愛していたせいだろう。
本当は、彼は正しく導いたんだ。ただ上手く進めなかったあたしの責任だ。
そんなあたしが、一つだけ誇れるとしたやはり『あかり』だけだろう。あの素晴らしい娘を産みだしたこと。この先、あの娘が見る世界を悲しいものにしたくはない。
そしてあたしが、一つだけ救えるとしたら『ミノリ』だけだろう。あたしに似て非なる彼女を救わなくてはならない。
あの扉の隙間から、あの後ろ姿を見た瞬間から分かっていた。
それがあたしの使命なのだと。
これは身を滅ぼすような、危険な好奇心なのだろうか?
それとも、最後に与えられたチャンスなのだろうか?
宮田アマネは暗い夜道をまっすぐに、館のあるほうへと進んでいた。




