私の先生
「で、あいつらが言うには……。ははっ、そうなんですよ! 美馬先生……」
「そ……ああ……。ははっ、それは良かったな。ハイト君」
その笑い声が聞こえたのは、宮田が左手にポット、右手に菓子箱をたずさえ診察室へと向かう途中のことであった。ギョッとした宮田は、まず自分の耳が正常かを疑ってその場に立ち竦む。
あの、男が笑っている。
――ミシリ
小箱から、なにやら耳障りな音がした。
中身はドイツ土産である。そこには、小さなウィーン菓子たちがブリキの小箱の中、窮屈そうに並んでいる。
再び、廊下の奥から聞こえてきた声。
それに、ハッと我に返った宮田は、一旦、自身の体を手近な診察室へと滑り込ませた。
パタンと後ろ手に扉を閉めてドッドッと鳴り響く胸の鼓動を、どこか他人事のように訊きながら宮田は深く息をついた。扉を閉めてしまえば、そこに広がるのは無音の世界だった。
はやる胸を抑えて、どうにか落ち着こうと深呼吸をするため息を大きく吸い込む。と、次の瞬間、宮田は口に手を当て、激しく咳き込むことになる。
「うっ……ゴホッ、ゴホゴホッ」
息苦しさで目尻に涙が溜まる。それを乱暴に拭いながら目を見開く。よくよく見てみれば、そこは現在使用されていない、とても荒れた部屋であった。
ホコリっぽい診察台。床に散らばる用途不明のコードたち。錆びついたメスの近くには、液晶が割れた人工呼吸器が横倒しに床に倒れている。
ガラクタ達が散乱し、所狭しとひしめき合って打ち捨てられている様は……
まるで、墓場のようだ――と、宮田は思った。
そこは、言わば、要らない物置き場だった。
宮田はホコリっぽい診察台の上に両手の荷物を置くと、こっそり忍び足で廊下まで戻ってきていた。クリーム色の扉の向こうからは相変わらずとても楽し気な……、医師と患者とがする会話とは思えないほどの、歓談の時間が続いているようであった。
「……」
扉はしっかり閉じている。前回のように、その隙間から中を伺いようもない。
だが――。
だが宮田の目には、ハッキリと映る。
「――あいつら本当に馬鹿なんですよ。ほんとーにっ、海バカなんです。あれは絶対、前世が半魚人と河童なんだからだと思いますよ。あ、先生はどうです。よく海とか行きますか、サーフィンとか?」
先生、ガタイがいいから似合うと思うんですよね。海――。
闇夜の海にぽっかり浮かんだ満月だけが、
見せることが出来る特別な蒼。
そんな蒼みがかった黒髪の少年――ともすれば、まだ十代に見えるほどに幼い顔付きの男が、ニッと、これまた屈託のない笑顔で無邪気に訊ねる。禁欲的な黒い詰襟が似合いそうなその横顔に、宮田はどこか軽い近視感を覚えた。
それに対して、いつもは社交辞令の薄ら寒い笑みしか浮かべないはずの黒い白衣の男は、そのクセがあるが甘い目元をゆったり緩めて、端正な顔にリラックスした表情を浮かべていた。
「俺はハイト君たちほど海が得意ではないけどな。一応、サーフィンは海外にいた時やったことがあるが、日焼けも面倒だしな。あれはたしか、マリブだったかな……。むしろ俺は山のほうが好きだな。登ったりスキーなんかもいいが、狩猟なんてのも結構やりがいがあって面白いよ」
「狩猟!! すっげ。先生、銃とか持つんですか!?」
「ああ、狩っていい季節や銃の登録なんかで年中出来るわけでもないがな。興味があれば知り合いの猟友会に紹介してもいいよ」
「おおーー!!」
――視える。
キラキラした目で医師を見る、そのおっきな黒い瞳孔までもが、はっきり宮田の脳裏に浮かびあがる。
そして、人当たりがいいと見せかけその実、頭のてっぺんから爪先までもが冷血で通っている黒い白衣の男が珍しくも本気で笑って、あまつさえ、誰かを慈しむように見つめる様までもが、はっきりと視える。
目を閉じ額を扉にくっつけていた宮田は、ふつふつと浮いてきた額の汗と、ピクリと疼くように痙攣する蟀谷がとてつもなく煩わしかった。
――なんだ、ソレは。
胸中が不快感で塗りつぶされる。
――なんだ、ソレは。
気に入らない。
全てが気に入らない。
帰国したその当日に患者の予約を受けていた、この男が。
そして、そんなことも知らずに呑気に他愛もないムダ話をしているこの患者が。
診察中とは思えぬほど親密な様子の、あの二人が!
この光景の全てが、宮田の癇に障ってしかたがない。
――なにそれ?
悪魔のくせに、死神のくせに。
そいつが何者かも知らないくせに、ただの実験動物の分際で。
ぐちゃぐちゃにかき混ぜたスープのようにグツグツと煮えたぎる頭には、もはや隆二が憎いのか、それともこの患者が憎いのかも分からぬ程に、その二つは溶け合っていた。
そもそも、この感情が憎悪なのかそれとも別の何かなのかもよく分からない。何故、自分がそんなものをこの二人に抱かねばならないのか……。分からない、何故だ?
片方なんぞ、面と向かい話したことすらない男だ。この男からわずか数週間前に、ただクリニックの予約を電話で受け付けた時、およそこんな感情は感じなかった。
だが、大変不快であることだけは確かだ。
そして、パッと数日前に出会った女の顔が思い浮かんだ。
――彼女は、自分の担当医が不在の日にちなど知らされていなかった。
担当医不在のまま、知らずクリニックに向かおうとしていた彼女を止めたのは当然、この私だ。
そこまで考えて、さらに不快指数は上昇していく。
――ああ。こんなところで、『IF』を使って覗き見するようなマネをしている自分自身にも、我慢がならない!
いい加減、蟀谷に浮かんだ血管がブチ切れそうだ。だから、こんな不毛なことはさっさと止めて、この扉の前から今すぐ立ち去るべき。そう分かっているのに……。
……分かっているのに、宮田の足は脳みそからの命令を無視し続ける。
室内では変わらず、仲の良い二人の会話が続けられていた。
半ば、意識を朦朧とさせながらも宮田は二人の会話を聞いていた。その中で、特に印象的な言葉が美馬隆二の口から飛び出た。
「心配しなくてもいい、ハイト君。……俺が手伝ってやるよ」
その一言は、際立っていた。
さり気なかった。けれども、何かがその中には含まれていた。宮田には伺い知ることのできない、大切な何かが。
男は微笑んでいた。とても……優しく。
こんな顔、見たことがない。
いや、見たことがある。
私はいつも見ていたはずだ! 嬉しかったはずだ!!
――好きだったはずだ、その笑顔がっ!!!
宮田はハッとして目を見開く。
「……せんせい、」
すぐ傍から弱弱しい声が聞こえてきた。誰の声?
とても幼い少女のような、頼りなく、か細い声。
思わず視線を自分の横にやろうとしかけたところで、脳内にハッキリとした像が結ばれる。
目の前の少年から、視線をわずかにずらした男が笑っている。
こちらを見て、嘲笑うようにして笑っている。
その歪んだ唇が、何事かを宮田に伝えてきた。
『……へたくそ』
途端、耳元で懐かしい囁きが甦った。
『お前がいつか上手にできるようになったら、俺もいつか手伝ってやってもいい』
脳内で見ていた光景がぐしゃりと歪んだ。
歪んだそれは、溶けあい、混ざり、そしてマーブル模様を描いて渦巻きへと変わる。
その中で、少年は少女へと変わり、黒い白衣の男は白い初老の男へと姿を変じた。
(――ならば、この位置からこうして見ていたのは、誰だったのであろうか?)
小さな疑問。そして、それを塗りつぶすが如く、大きな懐かしさが胸一杯に広がってゆく。
「……美馬、先生」
もう何も見ることが出来なくなった浹は、フラフラと白い廊下をさ迷い歩く。
美馬に『イマジナリーフレンド』を抑え込まれたのだ。
あの男に力負けするなど、初めてのことだった。
しかし、そんなことよりもショックだった。
私は未だに、あの男を忘れられないのか。
私を48個に切り裂いた、あの男を。
憎んでいた。愛していた。
私の、『美馬先生』……。




