第96話 英雄たちの凱旋
その日の午後。
王立魔法学校は、朝から続く騒ぎ以上の熱気に包まれていた。
廊下を歩けば、誰もが英雄たちの話をしている。
「大聖女ミュゲ様を間近で見られるなんて……!」
「聖騎士アーサー様の剣術も披露してくださるらしいぞ!」
「暗黒騎士アデラーン様って、本当に全身黒い鎧なのかな?」
「エルフの魔術師様なんて、初めて見るわ」
「学者クロエ様は、魔王城に残された古代文献をすべて読んだって聞いたぞ」
授業に集中できている生徒など、一人もいなかった。
教授たちも、普段なら私語を厳しく注意するところだったが、今日ばかりは強く叱れないらしい。
何しろ、世界を救った英雄たちが訪れるのだ。
魔王討伐後、五人が王立魔法学校を訪問するのは、今回が初めてだった。
アウローラ魔導国は、かつての魔王領に近い。
そのため、魔王との戦いでは数多くの街や村が被害を受け、今もなお各地に深い傷跡が残っている。
被害をもたらしたのは、人のように武器を持ち、命令に従って戦う軍隊ではない。
魔物とは、魔素に汚染され、意思を失った獣である。
彼らは命令や作戦によって動くのではなく、飢えや破壊衝動といった本能のまま、人や街を襲う。
そんな魔物の群れを、人々は便宜上、魔王軍と呼んでいた。
戦いによる被害は、建物だけにとどまらない。
魔王が生み出した異質な魔素や、戦場で使用された大規模魔法によって、土地や水源が汚染された地域も多い。
人々の身体へ魔素が入り込み、重い魔素汚染を患う者も後を絶たなかった。
五人の英雄は現在、そうした地域を巡り、戦災復興や魔素災害への支援を行っている。
今回のアウローラ魔導国訪問も、その一環だった。
もっとも。
王立魔法学校での特別講義は、当初の予定には含まれていなかったらしい。
「魔法協会長と学園長が、どうしても学生たちへ話をしていただきたいと、何度もお願いしたそうです」
大講堂へ向かいながら、ルシエが小声で話す。
隣を歩くノエルが苦笑した。
「何度も、というのは?」
「魔法協会から五回、学校から七回。合同で三回ほど正式な依頼状を送ったと聞きました」
「頼みすぎじゃないか?」
「最後は学園長が、復興支援の打ち合わせという名目で直接会いに行ったそうです」
「それはもう、打ち合わせではない気がするな」
どうやら、頼みに頼み込んだ末に、ようやく実現した講義らしい。
学園長の熱意を示すように、校内は朝から徹底的に磨き上げられていた。
正門には各国の旗が掲げられ、廊下には花が並べられている。
普段は埃をかぶっている歴代学園長の胸像まで、今日は不自然なほど輝いていた。
大講堂へ入ると、既にほとんどの席が埋まっていた。
生徒だけではない。
教授や研究員、魔導具工房の職人たちまで集まっている。
ルシエとノエルは指定された席へ座った。
「すごい人数ですね」
「ああ。学校中の人間が集まっているんじゃないか?」
ルシエは壇上を見つめる。
これほど多くの人々が、一つの講義を待ち望んでいる。
研究者としては、羨ましいと思わなくもなかった。
けれど。
胸の奥には、昨日却下された論文が残っている。
どれほど正しい結果を示しても、読んでもらえなければ届かない。
そんな現実を知ったばかりだった。
「ルシエ」
ノエルが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「はい」
ルシエは小さく頷いた。
「今は、講義へ集中します」
昨日のことを忘れられたわけではない。
それでも、英雄たちから直接話を聞ける機会など、二度とないかもしれない。
研究者として、一つの言葉も聞き逃したくなかった。
やがて。
講堂の扉が開かれた。
最初に姿を現したのは、白銀の鎧を身につけた青年だった。
聖騎士アーサー。
魔王討伐の旅において、幾度も仲間の盾となり、襲い来る魔物の攻撃を正面から受け止めた英雄。
腰には聖剣を提げているが、表情は意外なほど柔らかい。
続いて入ってきたのは、漆黒の外套をまとった大柄な男。
暗黒騎士アデラーン。
自らの魔力を剣へまとわせ、押し寄せる魔物の群れを何度も切り開いた最強の剣士。
彼が静かに歩くだけで、周囲の空気が引き締まる。
「本当に黒い……」
どこかの生徒が思わず漏らした。
その声が聞こえたのか、アデラーンがわずかに視線を向ける。
声を漏らした生徒は、慌てて背筋を伸ばした。
三人目は、濃紺の外套をまとった女性だった。
学者クロエ。
三十半ばとは思えぬほど落ち着いた雰囲気をまとい、知性を感じさせる鋭い眼差しで講堂を見渡している。
魔王の研究や古代魔術に精通し、討伐隊では作戦立案と魔王城の術式解析を担った人物だ。
クロエは壇上へ上がるなり、生徒たちをゆっくりと見回した。
「ほう……ずいぶんと人が集まっておるのう」
講堂が静まり返る。
「先に言っておくがの。わしの講義で居眠りなどした者には、あとで質問を百ほど用意してやるぞい」
一瞬の間を置いて、講堂から小さな笑いが起こった。
クロエはどこか飄々とした表情のまま、空いている席へ腰を下ろした。
四人目は、長い金髪と尖った耳を持つ男性だった。
エルフの魔術師サンセリテ。
人族より遥かに長い時を生き、精霊魔術と古代魔術を修めた魔術師。
彼が穏やかに一礼すると、特に女子生徒たちの間から小さな歓声が上がった。
「すごく綺麗……」
「男性なのよね?」
「エルフって、本当に年を取らないのかしら」
サンセリテは聞こえていないふりをしていたが、少しだけ困ったように笑っていた。
そして最後に。
純白の聖衣をまとった一人の女性が、講堂へ足を踏み入れた。
大聖女ミュゲ。
数多くの人々を癒やし、魔王との最終決戦では仲間たちを支え続けた、世界最高峰の光魔法使い。
柔らかな薄桃色の髪。
慈愛に満ちた穏やかな瞳。
その姿を目にした瞬間、講堂が静まり返った。
誰かに命じられたわけではない。
ただ彼女がそこへ立っただけで、人々は自然と言葉を失った。
ミュゲは壇上へ上がると、集まった生徒たちへ深く頭を下げた。
「本日は、私たちのためにこのような場をご用意いただき、ありがとうございます」
学園長が慌てて立ち上がる。
「と、とんでもございません! こちらこそ、幾度ものお願いをお聞き届けくださり――」
「本当に、幾度もいただきましたね」
ミュゲがにこやかに答える。
講堂から笑い声が上がった。
学園長は気まずそうに咳払いをすると、何事もなかったかのように席へ戻る。
その様子を見て、ルシエの口元にもわずかな笑みが浮かんだ。
世界を救った英雄。
歴史書の中にしか存在しないような人々。
けれど実際に目の前で見る彼らは、想像していたよりも人間らしかった。
ミュゲは講堂を見渡した。
「私たちは、これから数日にわたり、それぞれが学んできたことを皆様へお話しします」
魔法。
剣術。
古代魔術。
魔王についての研究。
どれも、教科書だけでは知ることのできない話ばかりだろう。
ルシエは膝の上へ研究ノートを広げ、ペンを握った。
ミュゲの視線が、静かに生徒たちへ向けられる。
「最初は、私からお話しさせていただきます」
彼女が片手を掲げると、その掌に淡い光が灯った。
温かく、優しい輝き。
傷を癒やし、毒を浄化し、数え切れないほどの命を救ってきた魔法。
誰もが知っている。
けれど、その本当の仕組みを理解している者は、決して多くない。
ミュゲは静かに告げた。
「本日は、光魔法の本質についてお話しします」




