第91話 魔王時代
――二年前。
魔王ニコラス討伐まで、あと約一年。
世界は、まだ魔王の脅威に支配されていた。
空は赤黒く染まり、各地では魔素嵐が吹き荒れる。
濃密な魔素は人の身体を蝕み、長時間浴びれば命に関わる。
人々は巨大な結界に守られた都市で暮らし、その外は魔物の支配する世界だった。
街と街を結ぶ街道ですら安全ではない。
旅には高位冒険者や騎士団の護衛が欠かせず、物流は滞り、人々は不自由な生活を強いられていた。
世界中の願いは一つ。
魔王討伐。
それだけだった。
一方その頃――。
◇
「……卒業論文」
ブッシャーが小さく呟く。
向かいではフランソワが恋愛小説を読みながら、アイスクリームを頬張っていた。
「んー?」
「卒業まで、一か月」
「そろそろ題材を決めないと」
フランソワの手が止まる。
「……あ」
数秒の沈黙。
「忘れてたー」
ブッシャーは深いため息をついた。
「忘れていたのは、あなただけ」
「だって面倒くさいんだもん」
「ホルトン先生も心配してた」
「卒業できないんじゃないかって」
「大丈夫だよ」
「一か月あれば何とかなるって」
根拠のない自信だった。
二人は研究テーマを考え始める。
「魔法陣」
「研究され尽くしてる」
「魔石」
「新規性がない」
「魔道具」
「面白くない」
しばらく考え込んだフランソワは、恋愛小説を閉じて伸びをした。
「うーん」
「じゃあ……」
「魔王因子でいいか」
ブッシャーの読書の手が止まる。
「……一番危険なの選ぶのね」
「だって」
フランソワは当然のように答えた。
「お父さんも、ずっと解明できなくて悩んでるし」
「魔王を倒したら旅行できるじゃん」
それが理由だった。
ブッシャーも少し考える。
「……確かに」
「旅行したい」
「でしょ?」
フランソワは笑う。
「海も見たいし」
「温泉も入りたいし」
「美味しいものも食べ歩きたい」
「でも全部」
「魔王がいるから無理なんだよね」
ブッシャーはふと思い出したように言う。
「でも」
「魔王因子の資料」
「極秘」
「学生は見られない」
「あー」
フランソワは少し考えたあと、けろりと言った。
「じゃあ、お父さんにお願いしよ」
「お父さん、大魔導師だし」
「研究なら見せてくれるでしょ」
ブッシャーは頷く。
「……たぶん」
フランソワは立ち上がった。
「決まり!」
「ホルトン先生のところ行こ!」
二人は研究室を飛び出していく。
その軽い足取りからは。
これから自分たちが、人類史上最大の禁忌へ踏み込もうとしているとは、微塵も感じられなかった。
翌日――。
ホルトンの許可により、二人は王立魔法学校地下深く。
幾重もの封印魔法で守られた特別資料室へ足を踏み入れることになる。
そこには、魔王ニコラスが遺した禁忌の真実が眠っていた。




