第90話 卒業論文
その日の夕方。
ホルトンの研究室。
ルシエとノエルは、完成した論文を抱えて研究室を訪れていた。
本来なら今日は、胸を張って研究成果を報告するはずだった。
火属性魔法だけで稼働する、世界初の魔導冷房機。
何度も失敗を重ね。
実験条件を揃え。
第三者による再現にも成功し。
ようやく完成させた、新たな魔法理論。
しかし。
二人の表情に、研究を成し遂げた喜びはなかった。
「……教授査読で、却下されました」
ルシエは論文を両手で抱えたまま、俯く。
「火属性魔法は、熱するための魔法だ」
「冷やすなど常識に反する、と……」
ホルトンは静かに頷いた。
「そうか」
短い返事だけが、研究室へ響く。
ルシエは唇を噛み、言葉を続けた。
「アルベルト教授にも相談しました」
「論文そのものは、魔法協会で審査される価値があると言っていただけました」
「ですが、担当教授の査読で不合格になった以上、別の教授が代わりに推薦することはできないそうです」
学生の論文は、担当教授の査読を受けなければならない。
それを通過した後。
学内審査を経て、初めて魔法協会へ推薦される。
制度には意味がある。
学生が不合格になるたび、自分を評価してくれる教授を探して論文を持ち込めるようになれば、査読そのものが形骸化してしまう。
危険な研究や、誤った理論を止める者もいなくなる。
だが今。
その制度が、二人の論文を閉じ込めていた。
「アルベルト教授も、何とか方法を探してくださいました」
「それでも……」
ルシエは腕の中の論文を見つめる。
「魔法協会へ届ける道は、見つかりませんでした」
重苦しい沈黙が流れた。
窓際では、フランソワが恋愛小説を読みながら、アイスクリームを食べている。
その隣では、ブッシャーが静かに本を読んでいた。
魔法省で心を病み、人混みを避けるようになったブッシャーを心配し、フランソワが半ば強引に連れ出してきたのだ。
『家にいるより、研究室の方が落ち着くでしょ?』
そんな一言から始まった習慣だった。
最初こそ渋々ついてきていたブッシャーも、今ではほとんど毎日のように研究室へ顔を出している。
静かな部屋で本を読み。
時折、フランソワと話す。
そんな時間を、彼女なりに気に入っているようだった。
ルシエは、おそるおそるホルトンを見た。
「ホルトン先生」
「私たちの研究は……間違っていたのでしょうか」
ぽつりと漏れた言葉。
かつては正しいと信じていた理論。
実験によって証明したはずの成果。
それでも、教授査読では研究とすら認められなかった。
何を信じればよいのか。
ルシエ自身にも、分からなくなり始めていた。
すると。
フランソワが、恋愛小説から顔も上げずに答えた。
「いや?」
「その先生が分かってないだけじゃない?」
あまりにもあっさりとした返答だった。
ノエルが思わず目を瞬かせる。
ホルトンは苦笑した。
「相変わらず遠慮がないな」
「だって、実際に動いたんでしょ?」
「はい」
ルシエは小さく頷く。
「同じ条件で三度実験しました」
「ホルトン先生にも、手順書だけを見て再現していただきました」
「じゃあ、間違ってるって言うなら、どこが間違ってるのか説明しないと駄目じゃん」
フランソワはアイスクリームを一口食べる。
「論文も読まない」
「実物も見ない」
「それで間違ってるって決めるのは、研究じゃないよ」
ホルトンも静かに頷いた。
「私自身が、君たちの手順書だけで装置を再現できた」
「少なくとも、実験結果が偶然でないことは確認している」
「君たちの研究が間違っているとは、私は思わない」
ルシエは僅かに顔を上げた。
その時。
部屋の隅で本を読んでいたブッシャーが、小さく呟く。
「……未知の理論」
「誰も信じない」
研究室が静まり返った。
ブッシャーは本へ視線を落としたまま、途切れ途切れに続ける。
「私も」
「魔法省で何度も見た」
ルシエは思わず彼女を見る。
「魔法省でも……ですか?」
ブッシャーの眉間に、僅かな皺が寄る。
「新しい理論を出す」
「却下」
「前例がない」
「常識と違う」
「危険だから」
「……その繰り返し」
短い言葉。
感情を押し殺した声。
それでも、その一言一言から、彼女が魔法省で味わった苦しさが伝わってきた。
ブッシャーは口元を押さえる。
「思い出したら……気持ち悪くなってきた」
フランソワが恋愛小説を閉じ、心配そうに隣を見た。
「だから言ったじゃん」
「ブッシャーに魔法省は向いてないって」
「研究だけしてればいいのに」
ブッシャーは小さく頷く。
「人が多いところ」
「苦手」
「会議も嫌」
「発表も嫌」
「質問攻めも嫌」
「全部嫌」
フランソワは肩をすくめた。
「だから、私が全部しゃべってたんだよ」
ホルトンが懐かしそうに笑う。
「実際、それで上手く回っていたからな」
「フランソワが人前で説明し、ブッシャーが必要な部分だけ補足する」
「学生時代から、二人は良い研究仲間だった」
ルシエは驚いたように二人を見つめる。
今のフランソワからは想像しにくいが。
かつて二人は、同じ研究へ取り組む学生だった。
研究そのものは、二人で行う。
人前へ立つ役目は、フランソワが引き受ける。
ブッシャーは表へ出ることなく、ひたすら理論と設計へ向き合っていたのだろう。
しばらくの沈黙のあと。
ルシエは、おずおずと口を開いた。
「あの……」
「お二人は、どうしてそれほど若くして大魔法師になれたのですか?」
魔法の階位は、通常なら長い年月をかけて上がっていく。
魔術師。
大魔術師。
魔法師。
そして、大魔法師。
フランソワもブッシャーも、まだ若い。
それにもかかわらず、すでに多くの研究者が一生をかけても届かない階位へ到達している。
ブッシャーは再び本へ視線を落とした。
フランソワも恋愛小説を開き直し、何事もなかったようにページをめくる。
二人とも、自分から説明するつもりはないらしい。
代わりに。
ホルトンが静かに微笑んだ。
「それは――」
「二人の卒業論文を知れば分かる」
ルシエは首を傾げる。
「卒業論文……?」
「ああ」
ホルトンはゆっくりと立ち上がり、研究室の奥にある本棚へ向かった。
鍵の掛かった棚を開ける。
その中から取り出したのは、一冊の分厚い資料だった。
古びた表紙。
背表紙には、題名すら記されていない。
ホルトンは資料を机へ置くと、その表面を静かに撫でた。
「もっとも、この論文は一般には公開されていない」
「魔法協会によって、最重要機密に指定されているからな」
ノエルが息を呑んだ。
「最重要機密……」
卒業論文。
学生が学校を卒業するために提出した研究。
それが、魔法協会によって封印されている。
あまりにも不釣り合いな言葉だった。
「なぜ、卒業論文がそこまで……」
ルシエが尋ねる。
ホルトンは、フランソワとブッシャーへ視線を向けた。
「この二人が作り上げたものが、あまりにも危険だったからだ」
研究室の空気が僅かに変わる。
しかし。
フランソワは気にした様子もなく、恋愛小説を読み続けている。
ブッシャーも何も言わなかった。
まるで、自分たちとは関係のない昔話でも聞いているようだった。
ホルトンは資料の留め具を外す。
「私はフランソワの養父であり、当時の二人の研究指導者でもあった」
「加えて、大魔導師として、この論文の閲覧を許されている」
「その内容も」
「完成へ至るまでの経緯も」
「すべて知っている」
ルシエは、ごくりと息を呑んだ。
最重要機密として封印された、二人の卒業論文。
それがどれほど異質な研究だったのか。
まだ中身を知らないにもかかわらず、その重さだけは伝わってくる。
ホルトンは資料の最初のページを開いた。
「では、話そう」
「あれは今から二年前」
「二人が、まだ王立魔法学校の学生だった頃の話だ」
その穏やかな声に導かれるように。
ルシエとノエルは、静かに耳を傾ける。
――二年前。
王立魔法学校。
卒業まで、残り一か月。
二人の学生は。
まだ、卒業論文の題材すら決めていなかった。




