第89話 届かない論文
アルベルトの研究室。
ルシエとノエルは扉を叩き、返事を待ってから中へ入った。
「失礼します」
二人の姿を見たアルベルトは、机の上に広げていた資料から顔を上げる。
「どうした?」
ルシエは胸元に抱えた論文へ視線を落とした。
「教授査読の結果が出ました」
その声を聞いただけで、アルベルトの表情が僅かに曇る。
二人の顔には、研究を完成させた者の喜びがなかった。
「……不合格だったのか?」
「はい」
ルシエは力なく頷いた。
「王立魔法協会へ提出する価値はないと判断されました」
アルベルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに手を差し出した。
「論文を見せなさい」
「ですが……」
「私も君たちの研究へ助言した一人だ」
「完成したものを確認する責任がある」
ルシエは論文を両手で差し出した。
『火属性魔法を利用した冷房理論』
アルベルトは表紙を見つめたあと、ゆっくりと一ページ目を開く。
研究の目的。
火属性魔法の再定義。
既存の魔導冷房機との比較。
使用した魔石の品質。
実験開始時の室温。
投入した魔力量。
温度の変化。
魔石および魔力回路への負荷。
三度にわたる反復実験。
そして、ホルトンによる第三者再現の記録。
アルベルトは一言も発することなく、論文を読み進めていった。
静かな研究室に、紙をめくる音だけが響く。
ルシエとノエルは、向かいの椅子に座ったまま待ち続けた。
最初の中間報告では、論文の見開きが赤い文字で埋め尽くされた。
観測した事実と、自分たちの解釈が混ざっていた。
実験条件も統一されていなかった。
測定回数も足りなかった。
自分たち以外の人間が、同じ結果を再現できるかも確かめていなかった。
アルベルトから指摘されたことを、一つずつ修正した。
実験をやり直し。
数値を測り直し。
文章を何度も書き直した。
今度こそ。
誰が読んでも、同じ結果へ辿り着ける論文にしたはずだった。
やがて。
アルベルトが最後のページまで読み終える。
論文を閉じたあとも、しばらく何も言わなかった。
「教授……?」
ルシエが不安そうに呼びかける。
アルベルトは、もう一度論文の表紙へ視線を落とした。
「素晴らしい」
「……え?」
「素晴らしい論文だ」
ルシエは目を見開いた。
ノエルも思わず身を乗り出す。
アルベルトは再び論文を開き、実験記録を指差した。
「実験条件は統一されている」
「同じ条件で三度の反復実験を行い、すべて許容範囲内の誤差に収まっている」
「都合の悪い数値も隠していない」
「魔石と魔力回路への負荷も記録されている」
さらにページをめくる。
「第三者による再現実験にも成功している」
「観測した事実と、そこから導き出した考察も明確に分けられている」
「私が中間報告で指摘した問題は、すべて修正されている」
アルベルトは二人を見つめた。
「いや」
「それだけではない」
「私が求めた水準を、遥かに超えている」
ルシエは胸の前で手を握り締める。
「では、私たちの理論は……」
「ああ」
アルベルトは迷うことなく頷いた。
「この論文に記された実験結果が正しいのであれば、火属性魔法の本質は炎の生成ではない」
「温度への干渉だ」
論文へ手を置き、はっきりと告げる。
「魔法協会で審査されるに値する研究だ」
ルシエの胸に、僅かな希望が戻る。
「それなら、どうして……」
ノエルが悔しそうに口を開いた。
「ギデオン教授は、一ページ目を読んだだけで却下しました」
「実験記録も見ていません」
「装置を実演すると言っても、必要ないと……」
アルベルトの眉間に、深い皺が刻まれる。
「一ページ目だけで?」
「はい」
研究室が静まり返った。
アルベルトは目を閉じ、深く息を吐く。
「それは、査読とは呼べない」
低い声だった。
「査読とは、自分の常識に合う論文だけを選ぶ作業ではない」
「仮説と実験方法を確認し、得られた結果を検証するものだ」
「結論へ同意できないのであれば、どこに誤りがあるのかを示さなければならない」
ノエルが強く頷く。
「やっぱり、ギデオン教授が間違っているんですよね?」
しかし。
アルベルトは、すぐには頷かなかった。
「ギデオン君の判断には同意できない」
「だが」
僅かに言葉を選ぶ。
「彼が警戒した理由まで、理解できないわけではない」
ノエルの表情が強張った。
「どういうことですか?」
「火属性魔法は、熱を生み出す魔法」
「それが、何百年もの間、魔法学の前提とされてきた」
アルベルトは論文へ視線を落とす。
「君たちの研究は、その前提を根底から覆すものだ」
「もし誤った理論が広まれば、影響を受けるのは研究者だけではない」
「魔法を学ぶ学生」
「魔導具を作る職人」
「そして、それを利用する人々」
「場合によっては、命に関わる事故も起こり得る」
ルシエは黙って耳を傾ける。
「だからこそ、長年の常識を覆す研究には、通常以上に慎重な検証が求められる」
「ギデオン君が危険性を考えたこと自体は、教授として間違っていない」
「では……」
ルシエの声が震える。
「やはり、私たちの研究は提出すべきではないのでしょうか」
「違う」
アルベルトは即座に否定した。
「慎重に検証することと、最初から否定することは別だ」
論文を指先で軽く叩く。
「疑わしいからこそ、最後まで読む」
「信じられない結果だからこそ、実物を確認する」
「それが研究者の役目だ」
アルベルトは苦い表情を浮かべた。
「ギデオン君は、警戒すべきところで思考を止めてしまった」
「彼の懸念は理解できる」
「だが、一ページだけで君たちの積み重ねを否定したことは、擁護できない」
ルシエは少しだけ顔を上げる。
「それなら……」
僅かな期待を込め、恐る恐る尋ねた。
「アルベルト教授に、改めて査読していただくことはできませんか?」
しかし。
アルベルトは静かに首を横へ振った。
「できない」
その一言で、戻りかけていた希望が止まる。
「なぜですか?」
ノエルが尋ねた。
「教授による査読は、論文の内容だけを保証するものではない」
「学生が研究を正しく理解しているか」
「実験を安全に管理しているか」
「捏造や盗用がないか」
「担当教授が責任を持って確認したという証でもある」
アルベルトは机の上で両手を組む。
「そのため、学生の論文は原則として、正式な担当教授の査読を受けなければならない」
「君たちの担当査読者はギデオン君だ」
「彼が不合格とした論文を、別の教授が改めて査読することは認められていない」
「ですが、今回は論文をほとんど読んでいません」
「それでも、正式な査読結果としては残る」
ノエルは納得できない様子で身を乗り出した。
「そんなのおかしいです」
「間違った判断でも、制度に従わないといけないんですか?」
「制度には、制度なりの理由がある」
アルベルトは静かに答える。
「不合格になるたび、自分を評価してくれる教授を探して論文を持ち込めるなら、査読の意味がなくなる」
「危険な研究を止める者もいなくなる」
「だから、担当教授の判断を別の教授が簡単に覆せないようになっている」
制度は、学生を苦しめるために作られたものではない。
誤った研究や危険な実験から、学生と社会を守るために存在する。
だが今。
その制度が、二人の論文を閉じ込めていた。
「では、もう一度提出することは……」
ルシエが縋るように尋ねる。
「同じ年度内に、同一内容の論文を再提出することはできない」
「大幅に研究内容を改め、次年度の査読を受ける必要がある」
「次年度……」
ルシエの顔から血の気が引いた。
一年後。
その間にも、母の魔素汚染は進んでいく。
「それでは……間に合いません」
アルベルトの表情が僅かに歪む。
彼も、ルシエが何のために研究者を目指しているのか知っていた。
ノエルは諦めずに食い下がる。
「アルベルト教授の共同研究として、提出することはできませんか?」
「教授の名前があれば、学生の論文ではなくなりますよね?」
アルベルトは首を横へ振った。
「私は、この研究の着想にも実験にも関わっていない」
「助言をしただけだ」
「協会へ届けるためだけに名前を加えることは、共同研究ではない」
「君たちの研究成果を、私が奪うことになる」
「ですが……」
「それだけはできない」
きっぱりとした言葉だった。
アルベルトは二人の論文を高く評価している。
だからこそ。
自分の名前を利用して、二人の成果を歪めることはできなかった。
ルシエは膝の上で手を握り締める。
「では」
「私たちは、どうすればいいのでしょうか」
アルベルトは答えられなかった。
論文に問題はない。
実験結果にも、明らかな誤りは見当たらない。
研究の価値も理解している。
それでも。
学生である二人が、通常の手続きを外れて魔法協会へ論文を届ける方法はない。
長い沈黙のあと。
アルベルトは論文をルシエへ返した。
「すまない」
ルシエは両手で受け取る。
「教授が謝ることではありません」
「私たちの論文を、最後まで読んでくださっただけで……」
「それだけで、嬉しいです」
無理に作った笑顔だった。
アルベルトは、その表情を正面から見つめる。
「ルシエ」
「教授査読で却下されようと、この論文の価値まで失われたわけではない」
「真理は、誰かに認められて初めて真理になるものではない」
「君たちは、研究者として正しいことをした」
ルシエは唇を噛み、静かに頷く。
「はい」
「ですが……」
胸元の論文を強く抱き締める。
「届かなければ、お母さんを助けるための研究を続けられません」
その言葉に。
アルベルトは何も返せなかった。
◇
研究室を出た二人は、静かな廊下を歩いていた。
アルベルトは認めてくれた。
素晴らしい論文だと言ってくれた。
魔法協会で審査される価値があるとも言ってくれた。
それでも。
閉ざされた扉は、開かなかった。
ノエルは隣を歩くルシエへ視線を向ける。
「ルシエ……」
「大丈夫です」
そう答えた声には、力がなかった。
二人は校舎を出ると、中庭のベンチへ腰を下ろした。
ルシエは膝の上へ論文を置き、その表紙を見つめ続ける。
「完成させれば」
ぽつりと呟く。
「何かが変わると思っていました」
「魔術師になれば、研究室をいただける」
「設備も使える」
「お母さんを助けるための研究も、今よりずっと進められる」
指先が、論文の表紙を強く掴む。
「そのために、ここまで来たのに……」
ノエルは何か言おうとした。
だが。
どんな言葉も、今のルシエを救えない気がした。
「この先」
「どうすればいいのでしょう」
その問いに。
ノエルも答えることができなかった。
二人の間に、重い沈黙が落ちる。
論文は完成した。
理論も証明した。
理解してくれる人もいた。
けれど。
魔法協会へ届ける方法がない。
正しさを証明しても。
受け取る者がいなければ、世界へは届かない。
二人は完成した論文を前に。
次に進むべき道を、完全に見失っていた。




