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無能と呼ばれた私が、世界の魔法理論を書き換えます  作者: Atelier Lotus


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第88話 却下

 数日後。


 王立魔法学校。


 ギデオンの研究室。


 ルシエとノエルは、完成した論文を抱えて扉の前に立っていた。


 ルシエは胸元の原稿を見つめる。


 最初の論文は、赤い修正で埋め尽くされた。


 観測した事実と、自分たちの解釈を分ける。


 実験条件を統一する。


 一度の成功で結論を出さず、何度も測定を繰り返す。


 第三者にも同じ結果を再現してもらう。


 アルベルトから指摘された問題は、すべて修正した。


 第一回。


 第二回。


 第三回。


 そして、ホルトンによる再現実験。


 誰が同じ手順で行っても、火属性魔法によって室温を下げ、一定の温度を維持できる。


 偶然ではない。


 思い込みでもない。


 確かな実験結果として証明した。


「大丈夫」


 隣に立つノエルが静かに告げる。


「俺たちは、やるべきことを全部やった」


「はい」


 ルシエは大きく息を吸い、扉を叩いた。


「失礼します」


「ルシエ・フローレンスです」


「ノエル・アルヴィンも一緒です」


「入りなさい」


 室内から、ギデオンの声が返ってくる。


 二人が研究室へ入ると、ギデオンは執務机に座ったまま顔を上げた。


「何の用だ?」


「研究論文の教授査読をお願いいたします」


 ルシエは両手で論文を差し出した。


「火属性魔法による魔導冷房機について、研究成果をまとめました」


 ギデオンは論文を受け取り、表紙へ目を落とす。


『火属性魔法を利用した冷房理論』


 その題名を見た瞬間。


 ギデオンの眉が、わずかに動いた。


「火属性魔法で冷房……?」


「はい」


 ルシエは緊張しながら説明する。


「火属性魔法の本質を、炎の生成ではなく温度への干渉と捉え直しました」


「その理論を利用し、火属性魔法だけで稼働する魔導冷房機を完成させています」


「実験条件を統一し、三度の反復実験を行いました」


「さらに、私たちが一切補助しない状態で、第三者による再現にも成功しています」


 ギデオンは何も答えず、ゆっくりと一ページ目を開いた。


 静かな研究室に、紙をめくる音だけが響く。


 ルシエは胸の前で、両手を強く握り締めた。


 この教授査読を通過すれば、次は学内審査。


 そこでも認められれば、学校から魔法協会へ論文を推薦してもらえる。


 そして研究成果が認められれば。


 学生でありながら、研究者としての第一歩を踏み出せる。


 魔術師の称号も、夢ではない。


 称号を得れば、研究室や実験設備を利用できる。


 高価な測定器も。


 必要な魔石も。


 今より遥かに整った環境で、母を救うための研究を続けられる。


 その未来へ繋がる論文が、今。


 ギデオンの手の中にある。


 ギデオンは一ページ目を読み終えた。


「……着眼点は悪くない」


 その言葉に、ルシエの表情が明るくなる。


 ノエルも小さく息を吐いた。


 だが。


 ギデオンの視線は、再び論文の題名へ戻った。


『火属性魔法を利用した冷房理論』


 次の瞬間。


 論文が、机の上へ置かれた。


「却下だ」


 研究室の空気が凍りつく。


「……え?」


 ルシエは、自分の耳を疑った。


 ギデオンは二ページ目を開いていない。


 実験結果も。


 測定記録も。


 第三者による再現実験も。


 何一つ読んでいない。


 ノエルが思わず声を上げる。


「待ってください」


「まだ一ページしか読んでいません」


「続きを読む必要はない」


 ギデオンは静かに首を横へ振った。


「火属性魔法は、熱を生み出す魔法だ」


「物を燃やし、温度を上げる」


「それが、長い魔法史の中で確立されてきた理論だ」


「火属性魔法で冷やすなど、魔法理論の常識に反する」


 ルシエは必死に食い下がる。


「ですが、その常識が本当に正しいのかを調べた研究です」


「火属性魔法によって、実際に室温を下げることに成功しました」


「設定した温度を三十分間維持しています」


「同じ条件で三度実験し、すべて同じ結果になりました」


「ホルトン先生にも、操作手順だけをお渡しして再現していただいています」


 ギデオンの表情は変わらない。


「成功したように見えただけだ」


「違います」


「使用した魔石の品質も、実験開始時の室温も、投入した魔力量も統一しました」


「誤差もすべて記録しています」


 ルシエは論文へ手を伸ばす。


「実験記録を見てください」


「魔導冷房機も、実験室にあります」


「必要であれば、今ここで実演します」


「必要ない」


 言葉を重ねることさえ許さないように。


 ギデオンは冷たく告げた。


「研究とは、何らかの現象が起きたから正しいというものではない」


「正しい理論に基づいて、正しい結果へ辿り着くものだ」


 ノエルの表情が険しくなる。


「新しい理論を証明するための実験です」


「既存の理論だけで正しさを決めるなら、新しい理論なんて永遠に生まれない」


「君たちは学生だ」


 ギデオンはノエルの言葉を遮った。


「長年積み重ねられてきた魔法理論を、僅かな実験結果だけで否定できると思うな」


「僅かではありません」


 ルシエは震える声で言う。


「何度も失敗しました」


「そのたびに原因を調べ、魔法式を書き直しました」


「実験条件も揃えました」


「誰が行っても、同じ結果になることまで確認しました」


「だからこそ、危険なのだ」


 ギデオンは論文へ視線を落とした。


「学生が得た異常な結果を、新たな理論だと思い込む」


「そのような研究を世に出せば、魔法学そのものを混乱させる」


「異常な結果だから、調べる必要があるんじゃないですか?」


 ノエルが机へ一歩近づく。


「原因も確かめず、常識と違うから間違いだと決める方が――」


「ノエル」


 ギデオンの低い声が響く。


「立場を弁えなさい」


「……っ」


 ノエルは唇を噛み、言葉を止めた。


 ギデオンは改めてルシエを見る。


「君の座学における努力は評価している」


「入学試験で主席となったことも事実だ」


「だが、知識を持つことと、新しい魔法理論を作ることは違う」


「身の丈を超えた研究へ手を出すべきではない」


 ルシエの肩が、小さく震えた。


「身の丈……」


「ああ」


「火属性魔法による冷房など、現実には存在しない」


「前提が誤っている以上、その上へどれほど実験結果を積み重ねても意味はない」


 そして。


 机の上の論文を、ルシエへ差し返した。


「これは研究ではない」


「夢物語だ」


 その言葉が、胸の奥へ深く突き刺さった。


 試作一号機。


 熱暴走。


 割れた魔石。


 煙だらけになった実験室。


 何冊もの失敗ノート。


 数え切れないほど書き直した魔法式。


 アルベルトから受けた指摘。


 揃え直した実験条件。


 繰り返した測定。


 第三者による再現実験。


 積み重ねたすべてを。


 ギデオンは、たった一ページだけで否定した。


「教授査読は不合格だ」


「王立魔法協会へ提出する価値はない」


 ルシエは震える手で論文を受け取った。


「……分かりました」


 声を絞り出し、深く頭を下げる。


「お時間をいただき、ありがとうございました」


 ノエルは納得できない様子だった。


 それでも。


 ルシエが研究室を出ようとする姿を見て、何も言わずに後を追った。


     ◇


 扉が閉まる。


 廊下へ出たルシエは、その場で立ち尽くした。


 腕の中には、完成した論文がある。


 同じ条件で。


 同じ手順を用い。


 誰が行っても、同じ結果へ辿り着く。


 それを証明したはずだった。


「……どうして」


 論文を抱える腕に力が入る。


「ちゃんと成功したのに」


 声が震えた。


「偶然じゃないことも証明しました」


「誰にでも再現できるように、全部記録しました」


「なのに……」


 ノエルは、何も答えられなかった。


 自分たちに不足があったのなら、直せばいい。


 実験が足りないのなら、何度でも繰り返せばいい。


 論文に誤りがあるのなら、書き直せばいい。


 だが。


 読んでもらえない。


 試してもらえない。


 最初から存在しないものとして扱われる。


 それでは、何を直せばいいのかさえ分からない。


 ノエルは悔しそうに研究室の扉を振り返る。


「実験記録すら読まずに……」


「こんなの、査読じゃない」


 ルシエは俯いたまま、論文の表紙を見つめる。


「このままでは、魔法協会へ届けられません」


 学生の論文は、教授査読を通過しなければならない。


 教授の推薦を受け。


 学内審査を経て。


 初めて、魔法協会へ送られる。


 その最初の扉が、閉ざされた。


「アルベルト教授へ報告しよう」


 ノエルが静かに告げた。


 ルシエが顔を上げる。


「教授は、この研究を最初から見てくれていた」


「中間報告の時も、論文を読んでくれた」


「何か方法を知っているかもしれない」


「……はい」


 僅かな望みへ縋るように、ルシエは頷いた。


 二人は、アルベルトの研究室へ向かって歩き始める。


 完成させれば、認めてもらえると思っていた。


 正しさを証明すれば、道は開けると思っていた。


 けれど。


 どれほど正しい研究でも。


 読まれなければ、世界へ届かない。


 二人の論文は。


 魔法協会へ続く最初の扉の前で、止められてしまった。

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