第64話 卒業まで待てない
ホルトンの言葉は、静かな研究室に重く響いた。
「酷なことを言います」
「現在の進行速度を考えると、お母様があと数年持てば幸運でしょう」
ルシエの思考が止まる。
「……え?」
聞き間違いであってほしかった。
そんな願いも虚しく、ホルトンは静かに続ける。
「もちろん、私も最後まで諦めません」
「ですが……」
一度、言葉を切る。
「時間がありません」
ルシエは唇を震わせた。
「そんな……」
「私は……」
震える声が漏れる。
「卒業して、魔法省の魔法医学局へ入って……」
「研究室で治療法を見つけるつもりだったんです」
ホルトンは静かに目を伏せる。
「申し訳ありません」
その一言で十分だった。
世界から音が消える。
卒業する。
魔法省へ入る。
魔法医学局で研究室を与えられる。
そこで治療法を完成させる。
それが、ルシエの描いていた未来だった。
けれど――。
間に合わない。
卒業まで待てない。
研究室も。
資格も。
肩書きも。
地位も。
そんなものを待っている時間は、もう残されていなかった。
その時だった。
「そんな顔をしないで」
優しい声が聞こえる。
ルシエが振り向くと、エレーヌが穏やかに微笑んでいた。
「お母さん……」
「私は大丈夫よ」
その声は、いつもと変わらず優しかった。
「だから、そんなに心配しないで」
無理をしている。
それくらい、ルシエには分かった。
顔色は悪い。
身体も細くなっている。
それでも母は、自分を安心させようと笑っていた。
その笑顔が、胸を締め付ける。
ルシエは静かに拳を握り締めた。
もう待てない。
卒業してからでは遅い。
研究者になってからでは遅い。
今、この瞬間から始めるしかない。
ルシエはホルトンを真っ直ぐ見つめる。
「私は、お母さんを救います」
その声に迷いはなかった。
ホルトンは静かにルシエを見つめ返す。
「……研究とは、甘いものではありません」
「答えが見つかる保証もない」
「何年も、何十年も成果が出ないこともあります」
「それでも続けられますか?」
ルシエは一瞬も迷わなかった。
「はい」
「私は一年間、お母さんを観察し続けました」
「毎日考えて、毎日仮説を立てました」
「答えは見つかりませんでした」
「それでも、一度も諦めようとは思いませんでした」
一歩、前へ出る。
「だから、続けられます」
ホルトンは静かに頷いた。
「……その覚悟だけは、確かに受け取りました」
「まずは学校で学びなさい」
「知識は決して裏切りません」
「今日学んだことが、明日お母様を救う力になるかもしれない」
ルシエは力強く頷いた。
「はい!」
その返事は、これまでで一番力強かった。
卒業まで待てない。
だから。
研究室も。
資格も。
肩書きも。
地位も。
全部後回しだ。
今、この瞬間から、自分にできることを始める。
ルシエは強く拳を握り締めた。
(必ず、お母さんを救う)
少女は静かに前を向く。
研究者としての、本当の第一歩が始まった。




