第63話 魔素汚染
研究室には重い沈黙が流れていた。
ホルトンは魔力探査の術式を展開し、エレーヌの魔力回路を何度も観察する。
視線を変え。
術式を組み替え。
何度も確認を繰り返す。
やがて、小さく息を吐いた。
「……これは酷いな」
その一言だけで、ルシエの胸が締め付けられる。
ホルトンは机の上へ一枚の紙を置き、魔力回路の模式図を描き始めた。
「本来、魔力回路は体内へ取り込んだ魔素を魔力へ変換し、全身へ循環させる器官です」
一本の線を描き、その途中へ黒い印を書き込む。
「ですが、お母様の魔力回路には、変換されなかった未分化魔素が大量に沈着しています」
「ここです」
「複数箇所で閉塞が起きています」
「その結果、魔力の流れが著しく阻害されている状態です」
ルシエは図を食い入るように見つめた。
魔力回路の各所が塞がれ、正常な循環ができなくなっている。
だから高熱が続き。
身体に力が入らず。
日常生活すらままならなくなっているのだ。
ホルトンはエレーヌへ優しく目を向けた。
「お母様は、あまり魔法が得意ではありませんでしたね?」
エレーヌは少し申し訳なさそうに微笑む。
「はい……」
「生活魔法が少し使える程度でした」
ホルトンは静かに頷いた。
「やはり」
「魔力回路が魔素を処理する能力には個人差があります」
「魔法が得意な人ほど処理能力は高く、未分化魔素を残しにくい」
「逆に魔法が苦手な人ほど、一度に大量の魔素を浴びた時、処理し切れず体内へ残してしまいます」
「今回、お母様がここまで重症化したのも、その影響でしょう」
そして、ホルトンは静かに続けた。
「もう一つ、気になることがあります」
「魔素災害の日、お母様は魔法を使われましたか?」
エレーヌは少し考え、小さく頷く。
「ルシエを守るために……簡易結界を張りました」
「ですが、防ぎ切れなくて……」
「そのまま、この子を抱き締めて庇いました」
ホルトンは静かに目を閉じる。
「やはり、そうでしたか」
ルシエは思わず尋ねる。
「何か関係があるんですか?」
「魔法を使うと、一時的に魔力回路の魔力は大きく消費されます」
「つまり、回路が空に近い状態になります」
「その直後に、あれほど高濃度の魔素を浴びれば……」
一拍置く。
「通常以上の未分化魔素を取り込んでしまった可能性があります」
ルシエの顔から血の気が引く。
「じゃあ……」
「あの時、お母さんが私を守ったから……」
「こんなに……」
震える声が漏れる。
「私の……せい……」
「違うわ」
エレーヌはすぐに首を横へ振った。
「あなたを守れたことを、私は一度も後悔していないもの」
ホルトンも静かに口を開く。
「これはあくまで医学的な推測です」
「ですが、一つだけ確かなことがあります」
「お母様は、自分の意思であなたを守ることを選ばれた」
「決して、君が責任を感じることではありません」
それでも、ルシエは俯いたままだった。
ホルトンは話を戻す。
「現在の医療で出来ることは限られています」
「結界による魔素の遮断」
「薬による症状の緩和」
「そして安静」
「進行を遅らせることしかできません」
ルシエは顔を上げる。
「取り除く方法はないんですか?」
ホルトンは少し考え込むように腕を組んだ。
「……正直に言えば」
「未分化魔素を取り除く方法そのものはあります」
ルシエは勢いよく立ち上がる。
「本当ですか!」
胸の奥に、小さな希望が灯る。
(やっぱり……!)
(私の考えは間違っていなかった!)
特別講義で学んだ伝統魔法。
魔素へ直接干渉する魔法なら、未分化魔素にも干渉できる。
その考えは正しかったのだ。
しかし。
ホルトンは穏やかに微笑んだ。
「マリゴーくんは、私の古い友人なんだ」
「昔から器用でね」
「伝統魔法による魔素への直接干渉は、私が知る限り世界でも指折りの腕前だよ」
どこか懐かしそうに目を細める。
「実は彼にも協力してもらって、魔素汚染の治療法を何度も研究したことがある」
ルシエは固唾を呑む。
「軽度の魔素汚染であれば、確かに改善が見られた」
「魔力回路へ蓄積した未分化魔素を、ある程度除去することにも成功している」
希望が差し込む。
だが、その光は長くは続かなかった。
「ですが、お母様ほど重症になると話は別です」
ホルトンは図を指差す。
「魔素というものは、非常に浸透性が高い性質を持っています」
「魔鉱石へ浸透し」
「魔法植物へ浸透し」
「そして、人の身体にも複雑に浸透していく」
「未分化魔素は、もはや魔力回路だけに留まってはいません」
「全身へ複雑に浸透しているのです」
「この状態で魔素へ直接干渉すれば、未分化魔素だけを選んで取り除くことはできません」
「無理に除去すれば、魔力回路や肉体そのものまで傷付けてしまいます」
ホルトンは静かに首を横へ振った。
「だから私は、今も治療法を探し続けています」
「ですが、まだ答えには辿り着けていません」
世界最高峰の魔法医学者。
伝統魔法の第一人者。
二人が力を合わせてもなお、救えない病。
それが、魔素汚染だった。
ルシエは静かに拳を握り締める。
胸に灯った希望は、再び現実に打ち砕かれた。
それでも――。
諦めるという選択だけは、どうしてもできなかった。




