第3話 不死の研究
時は遡る。
まだニコラスが魔王と呼ばれる以前。
一人の若き魔術研究者だった頃の話である。
当時の世界は、後に「黄金時代」と呼ばれる繁栄の時代だった。
人族。
エルフ族。
ドワーフ族。
竜族。
四種族は争うことなく手を取り合い、それぞれの知識と技術を持ち寄りながら共に暮らしていた。
とりわけ竜族は、精霊や妖精との関わりが深く、古くから一つの魔術を各種族へ伝えていた。
妖精誘導法。
妖精が持つ性質を利用し、魔粒子の流れそのものを制御する古代魔術である。
高純度の魔法石が生み出され。
優れた魔道具が作られ。
街には魔導照明が灯り、人々は豊かな生活を送っていた。
誰もが、この平和は永遠に続くものだと信じていた。
そんな黄金時代に、一人の天才が生まれる。
ニコラス。
彼は人間でありながら、生まれつき精霊眼を持っていた。
精霊眼。
それは、魔素を構成する最小単位――魔粒子を直接観測できる特別な眼。
本来、この眼を持つのは人間ではない。
有身精霊であるエルフやドワーフ。
そして竜族。
魔素と深く結びついた種族だけが、生まれながらに持つ能力だった。
火。
水。
風。
土。
人々には目に見えない四属性の魔粒子が、ニコラスには生まれた時から当たり前のように見えていた。
さらに、精霊眼で見えるのは魔粒子だけではない。
精霊。
魔素を主な身体として持つ生命体である。
その中でも、単一属性の魔粒子だけで身体を構成する精霊は、妖精と呼ばれていた。
火の妖精サラマンダー。
水の妖精ウンディーネ。
風の妖精シルフ。
土の妖精ノーム。
妖精たちは、自らを構成するものと同じ属性の魔粒子を自然に引き寄せる性質を持っていた。
この性質こそが、妖精誘導法の根幹だった。
また、精霊の中には、人々と共に歩むことを望み、自ら物質的な肉体を得た者たちも存在する。
彼らは有身精霊と呼ばれ、その祖から長い年月を経てエルフやドワーフが誕生した。
竜族もまた、人間とは異なる起源を持つ、精霊眼を備えた魔素親和性の高い種族である。
幼い頃のニコラスは、妖精たちと遊ぶことが何より好きだった。
野原を駆け回り。
森を散策し。
川辺ではウンディーネと語り合う。
サラマンダーは焚き火の中で楽しそうに踊り。
シルフは風に乗って木の葉を舞わせ。
ノームは土の中から顔を出し、ニコラスへ笑いかけた。
妖精たちもまた、純粋なニコラスへ心を許していた。
彼は妖精を研究対象として見ていたわけではない。
友達として笑い。
語り合い。
共に時間を過ごしていた。
しかし、人々には妖精たちの姿は見えない。
誰もいない場所へ話しかけ。
一人で笑い。
何もない空間へ手を振る少年。
周囲の人々は、そんな彼を不思議がった。
「また一人で話しているぞ」
「何もないところを見て笑ってる」
「気味の悪い子だ」
陰口を叩かれていることを、ニコラスも知っていた。
それでも気にしなかった。
彼の隣には、いつも妖精たちがいてくれたからだ。
「空気が光って見えるんだ」
「火の中には赤い粒が踊っている」
「川には青い粒が流れている」
そう話しても、大人たちは困ったように笑うだけだった。
誰も信じてはくれない。
それでも妖精たちは、ニコラスの言葉を否定しなかった。
やがて成長したニコラスは、その才能によって若くして優れた魔術研究者となる。
魔術理論。
錬金学。
魔道具開発。
精霊眼によって魔粒子の動きを直接観測できる彼は、誰にも成し得なかった研究成果を次々と生み出した。
数々の論文を発表し、その名は瞬く間に世界へ知れ渡る。
かつて気味悪がられた少年は、いつしか天才と称えられる存在になっていた。
しかし。
研究を重ねるほど、ニコラスの心には一つの恐怖が大きくなっていく。
どれほど知識を得ても。
どれほど偉大な発見をしても。
人間である限り、いつか必ず死ぬ。
その事実だけは、決して覆らない。
エルフは人より遥かに長く生きる。
ドワーフもまた長寿である。
竜族に至っては、人間とは比較にならないほど長い時を生き続ける。
妖精たちは、肉体の寿命という概念すら希薄だった。
それなのに。
なぜ、自分だけは人間なのか。
なぜ、自分には精霊眼がありながら、人間と同じように老い、死ななければならないのか。
ニコラスは、その現実を受け入れられなかった。
死後の世界は存在するのか。
魂は残るのか。
それとも、自分という存在は跡形もなく消えてしまうのか。
誰にも分からない。
研究しても。
観測しても。
実験しても。
死だけは、決して観測できない。
だからこそ、恐ろしかった。
やがてニコラスは、竜族より受け継がれた古代文献へ辿り着く。
そこに記されていたのは、失われた技術――妖精誘導法。
妖精が、自らと同じ属性の魔粒子を自然に引き寄せる性質を利用した魔術だった。
火の妖精は火の魔粒子を。
水の妖精は水の魔粒子を。
風の妖精は風の魔粒子を。
土の妖精は土の魔粒子を。
術者が無理やり魔粒子を集めるのではない。
妖精が作り出す自然な流れへ寄り添い、魔粒子を導く。
それが妖精誘導法だった。
本来は、高純度の魔法石を生み出し、魔道具を発展させ、人々の暮らしを豊かにするための技術である。
ニコラスは精霊眼によって、妖精の周囲を流れる魔粒子を観測した。
古代人が築いた術式を一つひとつ解析し、改良を重ねていく。
やがて研究の最中。
彼は、一つの現象へ気付く。
異なる属性の魔粒子同士を、一点へ集める。
通常であれば互いに反発し合う魔粒子。
しかし、それらを逃げ場のない術式へ閉じ込め、無理やり衝突させた瞬間。
研究室を白い閃光が包み込んだ。
轟音。
爆風。
そして、莫大なエネルギー。
床へ叩きつけられながらも、ニコラスは目を見開く。
「これは……」
火と風。
水と土。
組み合わせによって反応は異なる。
だが、その出力は既存の属性魔法を遥かに凌駕していた。
魔粒子融合。
それは、人々を豊かにするための妖精誘導法を、まったく別の方向へ利用した禁忌の研究だった。
しかし、この技術はあまりにも危険だった。
融合は極めて不安定。
わずかな制御の乱れで暴走する。
研究施設は何度も崩壊した。
積み重ねた研究資料は焼失する。
助手たちは命を落としていった。
「先生……これ以上は危険です」
「魔粒子融合は、人間が扱える技術ではありません」
「もう何人も死んでいるんですよ!」
だが、ニコラスは止まらなかった。
「制御式を改良すればいい」
「次は成功する」
「ここで止めれば、彼らの死が無駄になる」
そして、ある日。
再び融合実験が暴走する。
魔法陣へ亀裂が走った。
「先生! 術式がもちません!」
「まだだ!」
「逃げ――」
次の瞬間。
研究施設は閃光に呑み込まれた。
激しい衝撃。
崩れ落ちる天井。
そして静寂。
瓦礫の中で、生き残ったのはニコラス一人だけだった。
彼は倒れた助手たちを見つめる。
悲しみはあった。
後悔もあった。
それでも。
彼の胸を最も強く支配していたのは、自らの死への恐怖だった。
――死にたくない。
助手の亡骸を見た瞬間。
彼はその死を悼むより先に、自分もいつか同じように死ぬのだと考えてしまった。
――まだ足りない。
この程度では、死を克服できない。
ニコラスは瓦礫の中から研究資料を拾い集める。
焦げた紙へ、震える手で新たな術式を書き始めた。
その傍らでは。
サラマンダーが悲しそうに彼を見つめ。
ウンディーネは静かに涙を流し。
シルフは不安そうに飛び回り。
ノームは必死に生存者を探していた。
かつてのニコラスなら、彼らと共に悲しんだだろう。
しかし、今の彼は妖精たちを見ようともしない。
精霊眼が追っていたのは、彼らの身体を構成する魔粒子だけだった。
「死ぬくらいなら、何を犠牲にしても構わない」
その言葉を聞いた妖精たちは、初めてニコラスから距離を置いた。
かつて、誰よりも彼を慕っていた友人たち。
その妖精たちでさえ。
もはや目の前の男を、昔のニコラスだとは思えなかった。
その瞳からは、真理を追い求めていた研究者の光も。
妖精たちと笑い合っていた優しい少年の面影も。
少しずつ失われていた。
そして。
人々を豊かにするために生まれた妖精誘導法は、不死を求める禁忌の研究へと変わる。
この日を境に。
ニコラスは真理を探究する学者ではなく。
自らの死だけを恐れ、不死へ取り憑かれた研究者へと変わり始めた。
やがてその研究は、黄金時代そのものを終わらせることになる。




