第37話 父の背中
その日の夜。
フローレンス家。
机にランプを灯したルシエは、アルベルトから渡された古びた論文を静かに開いた。
「……すごい」
ページをめくる手が止まらない。
魔法式の組み立て方。
魔力循環の理論。
従来の常識を覆そうとする大胆な発想。
どれも今まで読んできた論文とは一線を画していた。
夢中になって読み進めていると、ふと表紙へ視線が止まる。
そこに記された著者名を見た瞬間、ルシエは息を呑んだ。
「アルフォンス・フローレンス……」
父の名前だった。
信じられない思いで、その文字を何度も見つめる。
「お父さんが……」
幼い頃の父は、いつも穏やかに笑っていた。
難しい研究の話を聞いたことは、一度もない。
だからこそ、この論文を書いた人物が父だという事実に驚きを隠せなかった。
――どうして先生は、この論文を私に……?
その答えを知りたくなったルシエは、翌日、論文を抱えて研究室へ向かった。
◇
魔法理論学研究室。
扉をノックすると、奥から穏やかな声が返ってくる。
「入りなさい」
「失礼します」
アルベルトはルシエを見ると、優しく微笑んだ。
「もう読み終えたようだね」
ルシエは論文を胸に抱き、静かに頷く。
「先生……」
「この論文、本当に父が書いたものなんですか?」
アルベルトはゆっくりと頷いた。
「ああ」
「アルフォンスくんは、私の教え子だった」
ルシエは驚きに目を見開く。
「えっ……」
「君とよく似た、とても優秀な生徒だったよ」
「講義が終わっても研究室へ残り、よく二人で魔法理論について議論したものだ」
懐かしそうに目を細める。
「優秀だったが、それ以上に頑固でね」
「自分の考えが違うと思えば、相手が誰であろうと決して引き下がらない」
「教授だった私にも、遠慮なく反論してきた」
苦笑しながら肩をすくめる。
「その度に、私も論文を書き直させられたよ」
ルシエは思わず笑みをこぼした。
「父らしいです」
「そうだろう?」
アルベルトも穏やかに笑う。
「やがて彼の研究は魔法協会にも認められ、若くして『魔術師』の称号を授与された」
「私も自分のことのように嬉しかった」
一度言葉を区切る。
「だが、それは始まりに過ぎなかった」
「彼は研究を止めなかった」
「私が何年もかけて辿り着いた『大魔法師』の領域を、あっという間に追い抜き――」
「ついには『賢者』へと上り詰めた」
その声に悔しさはない。
あるのは、教え子への誇りだけだった。
「教師として、あれほど嬉しかったことはない」
アルベルトは優しくルシエを見つめる。
「そして今」
「私は、あの頃のアルフォンスくんと同じものを、お前の中に見ている」
ルシエは息を呑んだ。
「あやつも、お前と同じ目をしておった」
「……目、ですか?」
「ああ」
アルベルトは静かに頷く。
「答えを求める目ではない」
「真理を追い続ける目じゃ」
研究室に静寂が流れた。
「教科書を読んでも満足しない」
「論文を読んでも鵜呑みにしない」
「本当に正しいのか」
「その問いを、何度でも繰り返す」
アルベルトは穏やかに微笑む。
「それが研究者というものだ」
ルシエは父の論文へ視線を落とした。
紙いっぱいに書き込まれた魔法式。
何度も書き直された跡。
余白を埋め尽くす細かな計算式と考察。
一文字一文字から、父が真理を追い求め続けた歳月が伝わってくる。
父もまた、答えではなく真理を追い続けていた。
胸の奥が熱くなった。
「……私」
論文をそっと胸へ抱き寄せる。
「父に少しでも近づけるよう、もっと頑張ります」
アルベルトは満足そうに頷いた。
「焦る必要はない」
「真理は、急ぐ者には微笑まん」
「一歩ずつ積み重ねていけばいい」
「はい」
ルシエは力強く頷く。
父が歩んだ道。
その背中は、まだ遠い。
それでも今は、その背中を追いかけたい。
そう強く胸に誓いながら、ルシエは父の論文を大切に抱きしめた。




