第35話 欠陥
教室には静かな時間が流れていた。
誰一人としてペンは動かない。
黒板いっぱいに書かれた大学院レベルの複合魔法式。
一年生が解けるような代物ではなかった。
そんな中――。
ルシエだけが静かに解答を書き終える。
ペンを置き、小さく手を挙げた。
「先生」
教室中の視線が集まる。
ギデオンは冷ややかな表情で口を開いた。
「もう諦めたか」
「違います」
「解けました」
一瞬、教室の空気が止まる。
「……何?」
ルシエは席を立ち、解答用紙を教壇へ差し出した。
ギデオンは鼻で笑いながら受け取る。
(どうせ途中で投げ出したのだろう)
そう思って目を通した。
しかし。
一枚。
また一枚。
ページをめくるたび、その表情が変わっていく。
「…………」
魔力変換。
魔力循環。
属性接続。
複合制御。
すべて正しい。
途中式にも無駄がない。
教室は静まり返っていた。
レオンが思わず呟く。
「……嘘だろ」
ギデオンは最後のページまで確認すると、ゆっくり顔を上げた。
「正解……だ」
その一言で、教室がどよめく。
「一年生が?」
「大学院レベルだぞ?」
「あり得ねぇ……」
しかし。
ルシエは小さく首を傾げた。
「先生」
「まだ何かあるのか」
ルシエは黒板の魔法式を見つめた。
「この問題ですが」
「第三式と第五式の魔力配分が一致していません」
教室が静まり返る。
ギデオンの眉がぴくりと動いた。
ルシエは黒板を指差しながら続ける。
「このままでは、風属性の魔力循環が途中で崩れます」
「その結果、火属性側へ魔力が偏り……」
一拍置く。
「火属性が暴走します」
教室が騒然となった。
「欠陥があるのか?」
「大学院レベルの問題だぞ?」
「そんなことまで分かるのかよ!」
ギデオンは何も言わない。
静かに黒板へ歩み寄る。
チョークを取り、ルシエが指摘した箇所を書き直した。
魔力配分を修正する。
その場で計算を始める。
「…………」
教室には、チョークの走る音だけが響く。
やがて。
ギデオンの手が止まった。
完全に一致していた。
ルシエの指摘どおりだった。
教室中が息を呑む。
ギデオンは静かにチョークを置いた。
「……よく気付いたな」
苦々しく呟く。
「その欠陥は」
「私が、わざと残したものだ」
教室が再びざわめいた。
「ただ解くだけなら、優秀な学生でもできる」
「だが」
「問題そのものの誤りを見抜けるか」
「それを試していた」
ギデオンはルシエを真っ直ぐ見据える。
「そこまで見抜けるとは思わなかった」
負けを認める言葉ではない。
だが、その表情には隠しきれない動揺が滲んでいた。
ルシエは軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
そのまま静かに席へ戻る。
まるで当然のことをしただけ、と言わんばかりだった。
教室はまだざわついている。
「問題の間違いを見つけた……?」
「そんなことあるのか?」
「大学院レベルだぞ……」
誰も理解できなかった。
一人を除いて。
ノエルは静かにルシエを見つめていた。
(やっぱりだ)
普通の優等生なら、正解を導く。
秀才なら、途中式を短縮する。
だが、ルシエは違う。
問題を解くことより先に、
「この術式は、本当に正しいのか」
そこから考えている。
(あいつは学生じゃない)
(研究者だ)
ノエルは小さく笑みを浮かべた。
(……ますます面白い)
ルシエ・フローレンス。
その少女は、誰よりも真理を追い求める資質を持っていた。




