第148話 叡智のアドルフ
特別学会審査の翌日。
王立魔法協会。
再び。
会場がざわめいていた。
「まさか……」
「本当に来られるのか」
「あり得ない」
長年。
すべての公務と研究活動から退いていた人物が。
姿を現したのである。
大賢者。
紫色号。
アドルフ・ヴァイス。
魔術界では。
誰もが敬意を込めて、その名を口にする。
――叡智のアドルフ。
百年以上前。
王立魔法協会は、すでに存在していた。
しかし。
魔法を体系的に学ぶ教育機関は、まだなかった。
魔法は。
師から弟子へ受け継がれる秘術。
流派ごとに理論は異なり。
地方ごとに術式も呼び名も違う。
同じ魔法でさえ。
研究者同士が共通の言葉で語ることは難しかった。
それを変えたのが。
アドルフだった。
各地へ赴き。
散らばっていた知識を集め。
理論を整理し。
体系化する。
さらに。
誰もが同じ理論を学べる教育制度を整え。
王立魔法学校を創設した。
現代魔法学。
その礎を築いた人物。
それが。
アドルフ・ヴァイスである。
しかし。
今の彼は高齢だった。
記憶も。
認識も。
大きく衰えている。
人の名前を忘れる。
今日が何年なのか思い出せない。
自分がどこへ来たのかさえ。
分からなくなることもあった。
そのため。
近年は一切の公の場へ姿を見せていない。
だからこそ。
誰も思っていなかった。
アドルフ本人が。
ルシエたちの論文を読み。
自ら出席を望んだことを。
介助を受けながら。
アドルフはゆっくり席へ着く。
机の上には。
無属性魔法の論文。
魔素汚染治療術式の論文。
そして。
参考資料として提出された。
『火属性魔法を利用した冷房理論』
三冊が静かに並べられていた。
アドルフは。
震える指で一冊ずつ論文を開き。
何度も読み返す。
無属性魔法。
魔素汚染治療。
火属性冷房機。
別々の論文としてではなく。
一つの研究として。
ゆっくりと読み進めていく。
やがて。
無属性魔法の論文を開き。
一文を静かになぞった。
――魔素は魔法を成立させるエネルギーであり。
――魔粒子は魔法の性質を決定する媒体である。
アドルフは小さく息を吐いた。
「そうか……」
「分けて」
「考えればよかったのか」
会場が静まり返る。
「我々は」
「魔粒子ばかりを見ていた」
再び。
三冊の論文へ目を落とす。
長い沈黙。
そして。
静かに顔を上げた。
「分かった」
その一言だけで。
会場の空気が変わる。
アドルフは。
ルシエを見つめる。
「この少女は」
「別々の奇跡を」
「三度起こしたのではない」
「三つの研究を」
「していたのでもない」
誰も息を呑む。
「最初から」
「一つの真理だけを」
「追い続けていた」
静かな声が響く。
「目に映る現象ではなく」
「魔法が」
「何へ干渉しているのか」
「その本質だけを」
「見続けていた」
アドルフは。
震える指を折る。
「炎ではなく」
「温度」
一本。
「属性ではなく」
「魔素」
もう一本。
「排除ではなく」
「循環」
最後の一本。
「見えている現象ではなく」
「その奥にある仕組みを見た」
「だから」
「冷房機も」
「無属性魔法も」
「魔素汚染治療も」
「すべて」
「同じ理論から生まれている」
誰も言葉を発さない。
「この少女は」
「一度も奇跡を起こしておらん」
「最初から最後まで」
「同じ問いを追い続け」
「理論によって」
「すべてへ辿り着いている」
やがて。
アドルフは三冊の論文を静かに閉じた。
「百年以上前」
「儂は」
「散らばっていた知識をまとめ」
「魔法学という学問を築いた」
ゆっくりと。
ルシエを見る。
「だが」
「この少女は」
「その学問の続きを書いた」
短い沈黙。
そして。
穏やかに微笑む。
「学問とは」
「完成した瞬間に終わるものではない」
「次の世代が」
「書き換えることで」
「前へ進む」
介助者に支えられながら。
アドルフはゆっくり立ち上がる。
そして。
深く。
ルシエへ頭を下げた。
「ありがとう」
「魔法学を」
「前へ進めてくれて」
会場は静まり返っていた。
現代魔法学を築いた大賢者。
その人物が。
一人の少女を。
自らの後継者として認めた瞬間だった。




