第123話 何十年
エレーヌの容体は、再び悪化していた。
ミュゲの治療によって、一時的に症状は落ち着いていた。
だが。
体内深くへ残った魔素は、再び周囲の魔素を引き寄せ始める。
胸の痛み。
呼吸困難。
発熱。
少しずつ。
確実に。
病は元の姿を取り戻しつつあった。
残された時間は、もう多くない。
◇
ルシエとノエルは、アルベルトの研究室を訪れていた。
「先生」
「もう時間がありません」
ルシエは研究資料を差し出した。
「どうすれば、この魔法式を完成できますか」
アルベルトは静かに資料を受け取る。
事故記録。
観測記録。
新しい術式。
一枚ずつ。
丁寧に目を通していく。
やがて。
資料を閉じ、静かに机へ置いた。
「……分からない」
ルシエの肩が小さく震える。
「すまない」
「私の専門だけでは、この先へ進めない」
重い沈黙が流れる。
アルベルトはしばらく考え込むと、机の引き出しから便箋を取り出した。
さらさらと紹介状を書き始める。
「一人だけ」
「心当たりがある」
ルシエが顔を上げた。
「私の元教え子だ」
「今では」
「魔法理論学では、私以上の研究者になった」
紹介状を封筒へ入れ、ルシエへ差し出す。
「マイヤー・ブランシュ」
その名前を聞き、ルシエとノエルは顔を見合わせた。
「以前」
「特別講義をしてくださった先生ですよね」
「ああ」
「原理を探せ、と教えてくれた……」
アルベルトは小さく頷く。
「覚えているなら話は早い」
「彼は魔法式そのものではなく」
「その奥にある原理を研究している」
「今回の問題について」
「私より正確な答えを出せるとすれば、彼だろう」
そこで。
アルベルトは苦笑した。
「ただし」
「かなり気難しい」
「紹介状があっても、追い返されるかもしれない」
「だが」
「話だけは聞いてくれる可能性がある」
ルシエは封筒を胸へ抱いた。
「ありがとうございます」
◇
数日後。
二人は王立魔法研究院を訪れた。
研究棟の最奥。
重厚な扉には、『魔法理論研究室』とだけ刻まれている。
ルシエは深呼吸し、扉を叩いた。
「失礼します」
「帰れ」
即答だった。
ルシエとノエルは顔を見合わせる。
まだ用件すら伝えていない。
「アルベルト教授から紹介状を預かっています」
部屋の奥から、小さく舌打ちが聞こえた。
「……先生か」
しばらく沈黙が続く。
「仕方ない」
「入れ」
二人は恐る恐る扉を開けた。
部屋には論文と魔導書が山積みになっていた。
床にも資料。
机にも資料。
本棚は隙間なく埋まり、壁際には読み終えた論文が塔のように積み上げられている。
白衣姿の男は、紹介状へ目を通すと立ち上がった。
「先生も」
「厄介事ばかり持ってくる」
「研究者に学生の世話をさせるな」
「私は教師ではない」
ぶつぶつと文句を言いながら、部屋の奥へ歩いていく。
「だいたい」
「紹介状を書けば私が断らないと思っている」
「昔から変わらん」
足元に積まれた本を避ける。
「そこへ座れ」
ルシエとノエルは、資料を崩さないよう注意しながら椅子へ腰掛けた。
マイヤーは紹介状を机へ置く。
そして。
二人の顔を順番に見た。
「ルシエ・フローレンス」
「ノエル・アルヴィン」
二人は目を丸くした。
「覚えていらっしゃるんですか?」
「ああ」
「以前の講義にいた」
ルシエは驚きながら尋ねる。
「ですが」
「私たちは質問もしていませんでしたよね?」
「質問した者しか覚えないとでも思ったか」
マイヤーは不機嫌そうに答える。
「講義に出席した生徒の顔は、すべて覚えている」
ノエルが素直に感心する。
「すごいですね」
「褒めるな」
「講義を聞いていない生徒がいた場合」
「後で担当教授へ文句を言うためだ」
「……そういう理由ですか」
「当然だ」
「こちらが時間を使って講義をしているのに」
「寝ている者」
「窓の外を見ている者」
「別の教科書を読んでいる者」
「すべて覚えている」
マイヤーは真顔で続ける。
「次に会った時」
「担当教授へ、教育がなっていないと伝える」
ルシエとノエルは何も言えなかった。
マイヤーはルシエへ視線を戻す。
「それに」
「君のことは、講義以外でも知っている」
「火属性魔法による冷房理論」
「査読却下」
「その後も研究を続けていたらしいな」
「良くも悪くも」
「魔法学会では有名だ」
ルシエは苦笑する。
「不名誉ですね」
「いや」
マイヤーは首を横へ振った。
「理論を諦めない研究者は嫌いではない」
「ここまで記録を残す学生も珍しい」
差し出された資料を数枚めくる。
「……勤勉だ」
そのまま読み進めていたが。
ふと、手を止める。
「ただ」
「一つだけ気に入らない」
「君たちは」
「ホルトンとフランソワに、随分可愛がられているようだな」
ノエルが首を傾げる。
「先生方をご存じなんですか?」
「知っている」
「ホルトンは私の後輩だ」
「そしてフランソワは、その弟子」
マイヤーは深いため息を吐いた。
「二人とも」
「私には理解できない研究者だ」
ルシエが尋ねる。
「理解できない……ですか?」
「ホルトンは昔」
「手術中の痛みを軽減する魔法を研究した」
「理由を聞いた」
マイヤーは無表情のまま続ける。
「『手術する時に痛いと可哀想だし』」
「『手術する側も、ゆっくりできて楽だよね』」
「そう言った」
ルシエとノエルは黙った。
「それだけの理由で」
「短期間のうちに術式を完成させた」
「現在では」
「世界中の医療現場で使われている」
ノエルが苦笑する。
「すごい成果ですね」
「成果は認めている」
「理論にも誤りはない」
「だが」
「本人には、歴史を変えたという自覚がほとんどない」
マイヤーは不機嫌そうに資料をめくった。
「フランソワはさらに酷い」
「昔」
「私が一年かけて完成させた理論を」
「三十分で理解した」
「そして第一声が」
「『すごーい。私なら三十分もかかっちゃう!』」
部屋が静まり返る。
ノエルは思わず吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。
ルシエも必死に笑いを堪える。
マイヤーだけは真顔だった。
「悪意はない」
「だから余計に腹が立つ」
資料を片手に、再び部屋の中を歩き始める。
「卒業論文もそうだ」
「提出一か月前まで」
「研究題材すら決めていなかった」
ルシエが目を丸くする。
「魔王因子の研究ですよね」
「ああ」
「魔王ニコラスが遺した」
「人類史上最大級の禁忌だ」
「それを」
「卒業論文を忘れていたからという理由で選んだ」
ノエルが少し引いた顔をする。
「そんな理由で……?」
「他にも理由はあったらしい」
「養父であるホルトンが解明できずに悩んでいた」
「魔王を倒せば旅行へ行ける」
「海を見たい」
「温泉へ入りたい」
「美味しいものを食べたい」
マイヤーは淡々と並べていく。
「その程度だ」
「その程度の動機で」
「一か月後には」
「魔王因子の欠陥をすべて取り除いた」
「完全制御型魔核融合体を完成させた」
「卒業と同時に大魔法師」
「そして紫色号」
ルシエたちは、その研究についてホルトンから聞いていた。
人類の魔法史を書き換えた卒業論文。
危険性を指摘されると。
フランソワとブッシャーは、その場で試作品を解体した。
「本人は」
「作れそうだったから作っただけ、と言った」
「危険だと指摘されれば」
「また作れるから、と迷わず壊した」
マイヤーは額へ手を当てた。
「研究者というものは」
「普通」
「人生をかけて完成させた研究へ愛着を持つ」
「だが、あれにはない」
「必要だから作る」
「危険だから壊す」
「面倒だから、もう作らない」
「理解できない」
ルシエは小さく尋ねる。
「お二人が嫌いなんですか?」
「嫌いだ」
即答だった。
「ホルトンは、いつも穏やかに笑っている」
「フランソワは、いつも楽しそうに遊んでいる」
「二人とも」
「何となく思い付いたような顔で研究を始める」
「そして」
「我々が何年もかけて辿り着く場所へ」
「あっという間に到達する」
マイヤーは静かに息を吐いた。
「私は」
「魔法へ人生を捧げてきた」
「一つの理論を完成させるために」
「何百回も計算し」
「何千枚も記録を残し」
「間違いを一つずつ潰してきた」
「だから」
「あの二人の魔法への向き合い方が」
「どうしても気に入らない」
しばらく。
部屋には、紙をめくる音だけが響いた。
「……もっとも」
マイヤーは研究資料へ視線を戻す。
「私情と研究は別だ」
「二人の実力は認めている」
「そして」
「君たちの研究も面白い」
「だから助言しよう」
アデラーンの暗黒という実例。
ルシエが再現した小規模な急速変換。
補助術式による負担の軽減。
外部魔素の部分的変化。
魔力波を利用した擬似的な複製。
そして。
ノエルの事故。
マイヤーは、すべての記録を時間をかけて検討していく。
時折。
数式を書き加える。
観測値を照合する。
事故発生時の魔力波を、何度も見直す。
やがて。
マイヤーは静かに口を開いた。
「理論そのものは」
「成立する可能性がある」
ルシエの表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
「外部魔素へ術者の魔力波を与え」
「同一の性質へ変化させる」
「発想に誤りはない」
初めて。
魔法理論学の最高権威が。
ルシエたちの研究を、正面から認めた。
だが。
次の言葉は、あまりにも重かった。
「ただし」
「術者の魔力を」
「完全に同一の状態で複製するのであれば」
「心拍」
「呼吸」
「神経活動」
「疲労」
「感情」
「そのすべてを」
「常に測定し続けなければならない」
マイヤーは資料へ目を落としたまま続ける。
「人間の魔力は固定されたものではない」
「生きている限り」
「常に僅かに変化している」
「一度測定し」
「同じ魔力を作ったとしても」
「次の瞬間には」
「術者自身の魔力が変化している」
ルシエはノエルの事故を思い出した。
同一だったはずの二つの魔力。
しかし。
僅かなずれが生じた瞬間。
互いを異物と判断し。
激しく衝突した。
「完全な複製を目指すなら」
「術者の身体を常時観測し」
「変化する魔力を、一瞬ごとに計算し直す必要がある」
「観測器」
「演算術式」
「補正回路」
「安全装置」
「必要な技術は、まだ存在していない」
マイヤーは結論を告げる。
「完成まで」
「少なくとも数十年は必要だろう」
研究方法は間違っていない。
理論も成立する可能性がある。
時間さえあれば。
いつか完成へ辿り着ける。
しかし。
エレーヌには。
その時間が残されていなかった。




