表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能と呼ばれた私が、世界の魔法理論を書き換えます  作者: Atelier Lotus


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
107/161

第105話 大聖女の治療

 その夜。


 王立魔法学校から少し離れた住宅街。


 ルシエは、自宅の中を落ち着かない様子で歩き回っていた。


 何度も窓から外を確認し。


 玄関の前へ立っては、まだ誰も来ていないことを確かめる。


 そして部屋へ戻り、寝台に横たわる母エレーヌの様子を見る。


「ルシエ」


 エレーヌが穏やかに笑った。


「少し落ち着きなさい」


「ですが……」


 ルシエは、また窓の外へ視線を向ける。


「本当に、大聖女様がいらっしゃるのですよね?」


「あなたが、そう聞いたのでしょう?」


「はい」


 英雄たちによる特別講義が終わったあと。


 学校側から、ルシエへ一つの知らせが伝えられた。


 大聖女ミュゲが、魔素災害への支援活動として、重度の魔素汚染患者を訪問している。


 そして今夜。


 エレーヌも、その治療対象に選ばれた。


 魔王因子が存在していた時代。


 本来の魔素循環とは異なる、第二の魔素循環が世界中を巡っていた。


 千年近く続いた歪んだ循環は、各地の魔素濃度を不安定にし。


 時折。


 大量の魔素が一つの土地へ流れ込む、魔素災害を引き起こしていた。


 エレーヌも、数年前。


 その災害へ巻き込まれた。


 短時間に、大量の魔素を体内へ取り込んだ。


 魔力回路が処理できる量を超えた魔素は。


 術者固有の魔力へ変換されることなく、体内へ残留する。


 蓄積した未変換の魔素は。


 魔力回路を圧迫し。


 少しずつ、その形を歪め。


 やがて。


 正常な魔力の流れさえ、妨げるようになった。


 それが。


 魔素汚染。


 エレーヌが発症してから。


 いくつもの医療院を訪ねた。


 高名な医師や。


 光魔法の使い手にも、診てもらった。


 だが。


 根本的な治療法は、見つからなかった。


 今夜訪れるのは。


 大聖女ミュゲ。


 世界最高峰の光魔法の使い手。


 史上最強の魔王を討ち果たし。


 数え切れないほどの人々を救ってきた、大英雄だった。


「大丈夫よ」


 エレーヌは、娘を安心させるように微笑む。


「治らなかったとしても、私は気にしないわ」


「そんなことを言わないでください」


 ルシエは、母の手を握った。


「きっと、よくなります」


「大聖女様なら……」


 言葉にしながら。


 自分自身へ、言い聞かせる。


 大聖女ミュゲなら。


 魔素を、四大属性の魔粒子へ完全に分解できる彼女ならば。


 母の魔力回路へ蓄積した魔素も。


 きっと、取り除ける。


 その時。


 家の扉が、静かに叩かれた。


 ルシエの肩が跳ねる。


「は、はい!」


 慌てて玄関へ向かい、扉を開ける。


 そこに立っていたのは。


 三人の英雄だった。


 純白の聖衣を身にまとった、大聖女ミュゲ。


 どこか飄々とした雰囲気をまとった、学者クロエ。


 そして。


 長い耳を持つ、エルフの魔術師サンセリテ。


「こんばんは」


 ミュゲが、柔らかく微笑む。


「夜分に失礼いたします」


「い、いえ!」


 ルシエは慌てて頭を下げた。


「どうぞ、お入りください!」


 三人を家の中へ案内しかけたところで。


 ルシエは、ふと周囲を見回した。


 五人の英雄のうち。


 アーサーとアデラーンの姿がない。


 その疑問に気づいたのか。


 クロエが口を開く。


「あの二人なら、復興現場へ行っておる」


「復興現場ですか?」


「倒壊した建物の撤去と、救援物資の運搬じゃ」


 クロエは肩をすくめた。


「今夜は、力仕事が多くてな」


「アーサーとアデラーンは、そちらの専門じゃ」


 世界最高峰の聖騎士と暗黒騎士を。


 力仕事の専門家と呼んでよいのだろうか。


 ルシエは一瞬だけ迷った。


 だが。


 巨大な瓦礫を軽々と運ぶ二人の姿は。


 容易に想像できた。


「私たちは、患者の治療と魔素の調査を担当しています」


 サンセリテが補足する。


「それぞれが、最も力を発揮できる場所へ向かっているのです」


 魔王討伐隊は。


 魔王を倒して終わったのではない。


 戦いのあとも。


 今なお。


 それぞれの力を使って、世界を支え続けている。


「どうぞ、お入りください」


 ルシエは改めて。


 三人を家の中へ招き入れた。


 決して、広い家ではない。


 古い家具。


 生活に必要な物だけが置かれた、質素な部屋。


 大英雄を迎えるには。


 あまりにも、簡素な場所だった。


 しかし。


 ミュゲは部屋を見回すこともなく。


 真っ直ぐ、寝台へ向かった。


 エレーヌが、慌てて身体を起こそうとする。


「大聖女様……」


「そのままで構いません」


 ミュゲはすぐにそばへ歩み寄り。


 エレーヌの肩へ、そっと手を添えた。


「どうか、楽になさってください」


「ですが、そのような……」


「私は、あなたを治療するために来たのです」


 ミュゲは。


 寝台の横へ膝をついた。


 その声には。


 威圧感など、微塵もない。


 偉大な功績を誇る様子も。


 自分が世界最高峰の聖女であることを、示そうとする態度もなかった。


 ただ。


 目の前で苦しんでいる、一人の患者を気遣っている。


 同じ高さから、顔を見つめ。


 身体へ負担をかけないように。


 優しく、言葉をかける。


 大聖女。


 それは単に。


 最も優れた光魔法の使い手へ与えられる称号ではない。


 人を思いやる品性。


 誰に対しても変わらぬ礼節。


 苦しむ者を見捨てない慈愛。


 言葉や仕草の一つ一つから、自然に滲み出る品格と徳。


 ルシエは。


 ようやく、理解した。


 この人だからこそ。


 世界中の人々が。


 ミュゲを、大聖女と呼ぶのだ。


「まず、身体の状態を確認させてください」


「お願いします」


 ミュゲは。


 エレーヌの手首へ、そっと指を添えた。


 目を閉じる。


 淡い光が、指先から流れ出し。


 エレーヌの身体へ、静かに浸透していく。


 血流。


 内臓。


 魔力回路。


 そして。


 その内部へ蓄積した、未変換の魔素。


 ミュゲは光を極めて細く分け。


 身体の隅々まで、探っていく。


 クロエとサンセリテは。


 少し離れた場所から、静かに見守っていた。


 やがて。


 ミュゲの表情が曇った。


「これは……」


 ルシエの胸が締めつけられる。


「本当に、酷い状態ですね」


 エレーヌの体内へ蓄積した魔素は。


 一か所に、留まっているわけではなかった。


 長い年月をかけて。


 全身の魔力回路へ、広がっている。


 特に深刻なのは。


 胸元から腹部へ伸びる、主要な魔力回路だった。


 大量の未変換魔素が、内部へ詰まり。


 回路の壁を圧迫し。


 長年の炎症によって。


 周囲の肉体と、癒着している。


 魔素を取り除こうとすれば。


 損傷した魔力回路そのものへ、触れなければならない状態だった。


「治療は、できますか?」


 ルシエが、恐る恐る尋ねる。


 ミュゲは。


 すぐには、答えなかった。


 もう一度。


 慎重に、エレーヌの身体を調べる。


 そして。


「できる限りのことをします」


 真っ直ぐに、答えた。


 治せるとは、言わなかった。


 安易な希望も、口にしない。


 それでも。


 諦める様子はなかった。


「クロエ」


「うむ」


「室内と患者の魔素濃度を、観測してください」


「任せておけ」


「サンセリテ」


「周囲から新たな魔素が流入しないよう、流れを整えてください」


「承知しました」


 クロエは観測器を取り出し。


 部屋の四隅へ、小さな測定具を配置する。


 サンセリテは、窓と扉の近くへ立ち。


 家の周囲を流れる魔素へ、意識を向けた。


 ミュゲは寝台の横で、両手を組む。


「聖光結界」


 淡い光が。


 部屋全体を、包み込んだ。


 眩しさはない。


 柔らかな光の膜が。


 壁や床を、覆っていく。


「治療中に、室内の魔素濃度が急激に変化することを防ぐ結界です」


 ミュゲが、ルシエへ説明する。


「魔素には、濃度の高い場所へ集まる性質があります」


「患者の身体から大量の魔素を動かせば」


「周囲の魔素まで、引き寄せられる可能性があります」


 体内から魔素を取り除こうとしても。


 濃度差が生まれれば。


 外部から、新たな魔素が流れ込んでくる。


 聖光結界は。


 治療を行う空間そのものを、外界の魔素循環から一時的に切り離し。


 濃度を安定させるためのものだった。


「始めます」


 ミュゲは。


 エレーヌの胸元へ、両手をかざした。


「聖光治癒」


 次の瞬間。


 眩い光が、部屋を満たした。


 大講堂で見た光とは違う。


 魔物を討つための、強い光でも。


 闇魔法を分解するための、鋭い光でもない。


 暖かく。


 柔らかく。


 それでいて。


 圧倒的な密度と精度を持つ光。


 光はエレーヌの身体へ入り込み。


 魔力回路の中へ蓄積した魔素へ、触れていく。


 魔素の結合が解かれ。


 火。


 水。


 風。


 土。


 四大属性の魔粒子へ、分解されていく。


 ミュゲは。


 体表に近い部分から、慎重に光を進めていた。


 一度に大量の魔素を分解すれば。


 その際に発生するエネルギーが。


 エレーヌの身体へ、負担を与えてしまう。


 分解する量。


 光を当てる位置。


 発生したエネルギーを逃がす方向。


 そのすべてを。


 極限まで細かく、制御している。


「魔素濃度、低下しておる」


 観測器を見つめながら。


 クロエが告げる。


「末端の魔力回路は」


「順調に、流れを取り戻しておるぞ」


 エレーヌの苦しげだった表情が。


 少しずつ、和らいでいく。


 浅かった呼吸が。


 穏やかになる。


 青白かった頬にも。


 わずかに、血色が戻り始めた。


「お母さん……!」


 ルシエの声が震えた。


 何年も、見ていなかった。


 これほど穏やかに呼吸する、母の姿を。


 いつも、痛みに耐え。


 自分を心配させまいと、無理に笑っていた。


 その母が、今。


 苦しみから解放されたような表情で。


 静かに眠っている。


「すごい……」


 ルシエの目に、涙が浮かぶ。


「顔色が……」


 治る。


 今度こそ。


 母が、元気になる。


 そう思った。


 しかし。


 ミュゲの額には。


 次第に、汗が滲み始めていた。


 光が。


 主要な魔力回路の奥へ、近づいていく。


 その瞬間。


 エレーヌの指先が、わずかに震えた。


「……っ」


 小さな苦痛の声が漏れる。


 観測器の針が、大きく揺れた。


「ミュゲ」


 クロエが、低い声で呼びかける。


「魔力回路への負荷が、上がっておる」


「分かっています」


 ミュゲは、光の出力を弱める。


 さらに細く。


 慎重に。


 奥へ入り込もうとする。


 だが。


 光を弱めれば。


 深く圧縮された魔素を、分解できない。


 光を強めれば。


 分解時に発生するエネルギーが。


 傷ついた魔力回路へ、直接伝わってしまう。


「これ以上は、危険じゃ」


 クロエが告げた。


 ミュゲは。


 悔しそうに、唇を結ぶ。


「……はい」


 そして。


 ゆっくりと、光を収めた。


 聖光治癒が止まり。


 最後に聖光結界が、静かに消えていく。


 部屋へ。


 夜の静けさが戻った。


 エレーヌの呼吸は。


 穏やかなままだった。


 顔色も。


 治療前とは比べものにならないほど、良くなっている。


「お母さん」


 ルシエは、母の手を握り直す。


「どうですか?」


 エレーヌが、ゆっくりと目を開けた。


「身体が……軽いわ」


 かすかな声。


 けれど。


 これまでより、ずっと力がある。


「胸の痛みも」


「少し、楽になったみたい」


「息は、苦しくありませんか?」


「ええ」


 エレーヌは。


 安心させるように、微笑んだ。


「久しぶりに」


「きちんと、息が吸えるわ」


 ルシエの目から、涙が零れた。


「よかった……」


 何度も、頷く。


「本当に、よかった……」


 だが。


 ミュゲは。


 その場で、静かに頭を下げた。


「申し訳ありません」


 ルシエが顔を上げる。


「え……?」


「私の光魔法でも」


「完治には、至りませんでした」


 喜びかけていたルシエの表情が止まる。


「ですが」


「母の身体は、こんなに……」


「末端や、体表に近い魔力回路へ蓄積していた魔素は」


「かなり分解することができました」


「そのため」


「呼吸や身体の痛みは、大きく改善しています」


 ミュゲは。


 エレーヌの胸元へ、視線を落とす。


「ですが」


「病気の中心は、残っています」


「大量の魔素が」


「主要な魔力回路の奥深くへ」


「圧縮された状態で、蓄積しています」


「さらに」


「長年の圧迫と炎症によって」


「魔力回路の壁や、周囲の肉体と癒着している」


 ルシエは。


 母の胸元を見つめる。


 蓄積しているのは。


 特別な毒ではない。


 本来ならば。


 魔力回路によって、エレーヌ自身の魔力へ変換されるはずだった魔素。


 だが。


 処理できる量を超えて、体内へ入り込んだことで。


 魔力回路を傷つける、異物となってしまった。


「分解することは」


「できないのですか?」


「できます」


 ミュゲは、苦しげに答えた。


「出力を上げれば」


「魔素そのものを、分解することは可能です」


 それならば。


 そう口にしかけたルシエへ。


 ミュゲは、首を横へ振る。


「ですが」


「できません」


「深く蓄積した魔素は」


「既に、傷ついた魔力回路と密着しています」


「完全に分解しようとすれば」


「その際に発生するエネルギーが」


「魔力回路へ、直接伝わります」


「正常に残っている回路まで損傷し」


「周囲の血管や臓器を傷つける可能性が高い」


 光魔法は。


 魔素を、完全に分解できる。


 だが。


 分解する対象だけを。


 周囲から切り離して、消せるわけではない。


 魔力回路の奥へ入り込んだ魔素を分解すれば。


 その力は。


 接触している肉体へも、及んでしまう。


「汚染として蓄積した魔素だけを選び」


「魔力回路や肉体へ負担を与えずに、完全分解することが」


「今の私には、できないのです」


 ミュゲは、拳を握りしめた。


 世界最高峰の光魔法を持ちながら。


 目の前の一人を、救い切ることができない。


 そのことを。


 誰よりも、悔しがっているように見えた。


「定期的に治療を続ければ」


「症状を、軽減することはできます」


「魔力回路へかかる負担を減らし」


「病気の進行を、遅らせることも可能です」


「ですが」


「根本に残る魔素を取り除かなければ」


「いずれ、再び症状は進行します」


 完全な治療ではない。


 苦しみを和らげ。


 残された時間を、延ばすだけ。


 ルシエは。


 母の手を握ったまま、俯いた。


 ミュゲは。


 そんな二人の前で、さらに深く頭を下げる。


「申し訳ありません」


「大聖女様……」


「私たちは」


「魔王因子との接続を断ち」


「千年近く続いていた、第二の魔素循環を止めました」


 魔王因子との繋がりを失い。


 崩れ落ちた、ニコラス。


 そして。


 魔王因子の破壊によって。


 世界を歪め続けていた、第二の魔素循環も消滅した。


「ですが」


「魔王因子が存在していた間に」


「多くの土地が傷つきました」


「魔素循環の歪みによって」


「数え切れないほどの方々が、苦しんでいます」


 ある土地では。


 魔素濃度が、急激に低下した。


 別の土地では。


 大量の魔素が集中し。


 濃度が、異常に上昇した。


 その結果。


 各地で、魔素災害が起きた。


「エレーヌさんが巻き込まれた災害も」


「魔王因子が生み出していた歪みによるものです」


 ミュゲは。


 頭を下げたまま、告げる。


「私たちは」


「その原因を、ようやく止めることができました」


「ですが」


「既に苦しんでいる方々を」


「まだ、救い切れていません」


「世界を救ったなどと呼ばれながら」


「目の前にいるあなたを、完治させることもできない」


「本当に」


「申し訳ありません」


 ルシエは。


 何も言えなかった。


 魔王を倒した英雄。


 世界を救った、大聖女。


 誰もが称賛する存在が。


 自分たちの前で、深く頭を下げている。


 ミュゲたちが、悪いわけではない。


 魔王因子を放置していれば。


 魔素循環の歪みは、さらに大きくなっていた。


 もっと多くの土地が、汚染され。


 もっと多くの命が、失われていただろう。


 それでも。


 救えなかった者がいる。


 今も苦しんでいる者がいる。


 ミュゲは。


 その事実から、目を背けようとしない。


 自分たちにできることを探し。


 一人ずつ、患者を訪ね。


 治療を続けている。


 それが。


 大聖女ミュゲという人だった。


「謝らないでください」


 穏やかな声が、聞こえた。


 エレーヌだった。


 ミュゲが顔を上げる。


「あなた方が」


「魔王を倒してくださらなければ」


「もっと多くの人が、亡くなっていました」


 エレーヌは。


 弱々しく。


 それでも、優しく微笑む。


「きっと」


「私も」


「ルシエも」


「今ここには、いなかったでしょう」


「ですが……」


「あなたは、世界を救ってくださいました」


「そして今も」


「こうして、一人ずつ治療して回っている」


 エレーヌは。


 ミュゲを責めるどころか。


 感謝するように、頭を下げた。


「ありがとうございます」


 ミュゲは。


 しばらく、何も答えられなかった。


 やがて。


 静かに目を伏せる。


「……こちらこそ」


 小さく、答えた。


 その様子を見守っていたクロエが。


 壁へ背を預けたまま、口を開く。


「わしらが王立魔法学校へ来た、本来の目的は」


「講義ではない」


 ルシエが、クロエを見る。


「各国の魔法協会や魔法学校から」


「何度も、講演を頼まれておった」


「魔王との戦い」


「魔王因子の構造」


「古代魔法の研究」


「話せば」


「どこでも、歓迎されたじゃろう」


 サンセリテが続ける。


「ですが」


「私たちは、すべてお断りしてきました」


「復興支援と」


「魔素災害への対応を、優先していたからです」


「魔王因子が消滅したあとも」


「世界の魔素循環は、まだ完全には安定していません」


 千年近く存在していた。


 第二の魔素循環。


 それが突然消滅したことで。


 世界の魔素は。


 本来の流れを、取り戻そうとしている。


 だが。


 長い年月をかけて歪められた循環が。


 すぐに元へ戻るわけではない。


 今も各地では。


 魔素濃度の異常や。


 新たな災害が発生していた。


「講義をしている間にも」


「苦しんでいる者はおる」


 クロエは。


 寝台のエレーヌへ、視線を向ける。


「わしらにとっては」


「そちらの方が、大切じゃ」


「では」


「どうして今回は、講義を?」


 ルシエが尋ねる。


「王立魔法学校が」


「治療活動に必要な資料、観測器、人員を提供してくれたからです」


 サンセリテが答えた。


「この街と周辺地域には」


「重度の魔素汚染患者が、多く暮らしています」


「以前から病に苦しんでいる方々の調査と治療」


「そして」


「現在も続いている、魔素循環の異常への対応」


「その協力を条件に」


「一度だけ、講義を引き受けました」


「本来の目的は」


「患者の治療と、復興支援じゃ」


 クロエが笑う。


「講義は、ついでじゃな」


「ついでだったのですか……」


「そう落ち込むでない」


 クロエは、口元を緩める。


「来たかいはあった」


「え?」


「お主の質問じゃ」


 ルシエは、目を瞬かせた。


「魔力回路の働きを」


「魔法式によって、外部へ再現できないか」


「周囲の魔素を」


「属性魔粒子を媒体として用いず」


「術者固有の魔力へ変換できないか」


「面白い問いじゃった」


 サンセリテも、静かに頷く。


「人間が魔素へ干渉する方法は」


「まだ、すべて解明されていません」


「妖精誘導法とも」


「魔剣流とも」


「現在の属性魔法とも異なる」


「新しい可能性です」


「ですが」


「皆さんには、笑われました」


「だから何じゃ?」


 クロエは、不思議そうに首を傾げた。


「笑われた程度で」


「真理が変わるわけではなかろう」


「正しいかどうかは」


「研究して、確かめればよい」


「疑問を持ったことそのものは」


「誇ってよい」


 ルシエの胸が、熱くなる。


「ありがとうございます」


「礼を言うのは」


「何かを見つけてからにせい」


 クロエは、そう言いながらも。


 どこか楽しそうに、笑っていた。


 サンセリテも。


 ルシエへ、穏やかな視線を向ける。


「あなたの問いには」


「既存の理論を疑うだけの、理由がありました」


「どうか」


「大切にしてください」


「はい」


 ルシエは。


 今度こそ、はっきりと頷いた。


「ルシエ」


 寝台から。


 エレーヌが、娘を呼ぶ。


 ルシエは、すぐにそばへ戻った。


「どうしました?」


 エレーヌは。


 握られた娘の手を、優しく握り返す。


「私のことは、いいのよ」


「何を言っているのですか」


「私は」


「今でも、十分幸せだから」


 エレーヌは。


 娘を見つめた。


 病に苦しむ母を救うため。


 幼い頃から、勉強を続けてきた娘。


 どれほど馬鹿にされても。


 どれほど否定されても。


 決して、諦めなかった娘。


「私は」


「あなたが幸せなら」


「それが、一番だから」


 ルシエの唇が震えた。


「そんなこと……」


 母を、救いたい。


 そのために。


 ここまで来た。


 母の病気を治せなければ。


 自分が学んできた意味などない。


 ずっと。


 そう思っていた。


 けれど。


 母は。


 自分のことよりも、ルシエの幸せを願っている。


「私は……」


 何かを、答えようとした。


 けれど。


 言葉にならなかった。


 ルシエは俯き。


 母の手を、両手で包み込む。


 暖かい。


 治療前よりも。


 確かに、体温が戻っている。


 それでも。


 この温もりが。


 いつまで続くのかは、分からない。


 ミュゲの光魔法でも。


 母を、完全に救うことはできなかった。


 魔素を分解すれば。


 傷ついた魔力回路や、肉体まで壊してしまう。


 分解しなければ。


 蓄積した魔素は、残り続ける。


 光魔法は。


 世界最高峰の力だった。


 それでも。


 分解という方法では。


 母を救い切ることができない。


(ならば)


 ルシエは。


 母の手を握りながら、目を閉じた。


(分解する以外の方法を)


(探さなければなりません)


 魔素を、力ずくで消すのではない。


 母の身体を傷つけることなく。


 体内へ蓄積した魔素を、処理する方法。


 答えは。


 まだ、見つからない。


 それでも。


 諦めるという選択だけは。


 最初から、存在していなかった。第105話 大聖女の治療

 その夜。


 王立魔法学校から少し離れた住宅街。


 ルシエは、自宅の中を落ち着かない様子で歩き回っていた。


 何度も窓から外を確認し。


 玄関の前へ立っては、まだ誰も来ていないことを確かめる。


 そして部屋へ戻り、寝台に横たわる母エレーヌの様子を見る。


「ルシエ」


 エレーヌが穏やかに笑った。


「少し落ち着きなさい」


「ですが……」


 ルシエは、また窓の外へ視線を向ける。


「本当に、大聖女様がいらっしゃるのですよね?」


「あなたが、そう聞いたのでしょう?」


「はい」


 英雄たちによる特別講義が終わったあと。


 学校側から、ルシエへ一つの知らせが伝えられた。


 大聖女ミュゲが、魔素災害への支援活動として、重度の魔素汚染患者を訪問している。


 そして今夜。


 エレーヌも、その治療対象に選ばれた。


 魔王因子が存在していた時代。


 本来の魔素循環とは異なる、第二の魔素循環が世界中を巡っていた。


 千年近く続いた歪んだ循環は、各地の魔素濃度を不安定にし。


 時折。


 大量の魔素が一つの土地へ流れ込む、魔素災害を引き起こしていた。


 エレーヌも、数年前。


 その災害へ巻き込まれた。


 短時間に、大量の魔素を体内へ取り込んだ。


 魔力回路が処理できる量を超えた魔素は。


 術者固有の魔力へ変換されることなく、体内へ残留する。


 蓄積した未変換の魔素は。


 魔力回路を圧迫し。


 少しずつ、その形を歪め。


 やがて。


 正常な魔力の流れさえ、妨げるようになった。


 それが。


 魔素汚染。


 エレーヌが発症してから。


 いくつもの医療院を訪ねた。


 高名な医師や。


 光魔法の使い手にも、診てもらった。


 だが。


 根本的な治療法は、見つからなかった。


 今夜訪れるのは。


 大聖女ミュゲ。


 世界最高峰の光魔法の使い手。


 史上最強の魔王を討ち果たし。


 数え切れないほどの人々を救ってきた、大英雄だった。


「大丈夫よ」


 エレーヌは、娘を安心させるように微笑む。


「治らなかったとしても、私は気にしないわ」


「そんなことを言わないでください」


 ルシエは、母の手を握った。


「きっと、よくなります」


「大聖女様なら……」


 言葉にしながら。


 自分自身へ、言い聞かせる。


 大聖女ミュゲなら。


 魔素を、四大属性の魔粒子へ完全に分解できる彼女ならば。


 母の魔力回路へ蓄積した魔素も。


 きっと、取り除ける。


 その時。


 家の扉が、静かに叩かれた。


 ルシエの肩が跳ねる。


「は、はい!」


 慌てて玄関へ向かい、扉を開ける。


 そこに立っていたのは。


 三人の英雄だった。


 純白の聖衣を身にまとった、大聖女ミュゲ。


 どこか飄々とした雰囲気をまとった、学者クロエ。


 そして。


 長い耳を持つ、エルフの魔術師サンセリテ。


「こんばんは」


 ミュゲが、柔らかく微笑む。


「夜分に失礼いたします」


「い、いえ!」


 ルシエは慌てて頭を下げた。


「どうぞ、お入りください!」


 三人を家の中へ案内しかけたところで。


 ルシエは、ふと周囲を見回した。


 五人の英雄のうち。


 アーサーとアデラーンの姿がない。


 その疑問に気づいたのか。


 クロエが口を開く。


「あの二人なら、復興現場へ行っておる」


「復興現場ですか?」


「倒壊した建物の撤去と、救援物資の運搬じゃ」


 クロエは肩をすくめた。


「今夜は、力仕事が多くてな」


「アーサーとアデラーンは、そちらの専門じゃ」


 世界最高峰の聖騎士と暗黒騎士を。


 力仕事の専門家と呼んでよいのだろうか。


 ルシエは一瞬だけ迷った。


 だが。


 巨大な瓦礫を軽々と運ぶ二人の姿は。


 容易に想像できた。


「私たちは、患者の治療と魔素の調査を担当しています」


 サンセリテが補足する。


「それぞれが、最も力を発揮できる場所へ向かっているのです」


 魔王討伐隊は。


 魔王を倒して終わったのではない。


 戦いのあとも。


 今なお。


 それぞれの力を使って、世界を支え続けている。


「どうぞ、お入りください」


 ルシエは改めて。


 三人を家の中へ招き入れた。


 決して、広い家ではない。


 古い家具。


 生活に必要な物だけが置かれた、質素な部屋。


 大英雄を迎えるには。


 あまりにも、簡素な場所だった。


 しかし。


 ミュゲは部屋を見回すこともなく。


 真っ直ぐ、寝台へ向かった。


 エレーヌが、慌てて身体を起こそうとする。


「大聖女様……」


「そのままで構いません」


 ミュゲはすぐにそばへ歩み寄り。


 エレーヌの肩へ、そっと手を添えた。


「どうか、楽になさってください」


「ですが、そのような……」


「私は、あなたを治療するために来たのです」


 ミュゲは。


 寝台の横へ膝をついた。


 その声には。


 威圧感など、微塵もない。


 偉大な功績を誇る様子も。


 自分が世界最高峰の聖女であることを、示そうとする態度もなかった。


 ただ。


 目の前で苦しんでいる、一人の患者を気遣っている。


 同じ高さから、顔を見つめ。


 身体へ負担をかけないように。


 優しく、言葉をかける。


 大聖女。


 それは単に。


 最も優れた光魔法の使い手へ与えられる称号ではない。


 人を思いやる品性。


 誰に対しても変わらぬ礼節。


 苦しむ者を見捨てない慈愛。


 言葉や仕草の一つ一つから、自然に滲み出る品格と徳。


 ルシエは。


 ようやく、理解した。


 この人だからこそ。


 世界中の人々が。


 ミュゲを、大聖女と呼ぶのだ。


「まず、身体の状態を確認させてください」


「お願いします」


 ミュゲは。


 エレーヌの手首へ、そっと指を添えた。


 目を閉じる。


 淡い光が、指先から流れ出し。


 エレーヌの身体へ、静かに浸透していく。


 血流。


 内臓。


 魔力回路。


 そして。


 その内部へ蓄積した、未変換の魔素。


 ミュゲは光を極めて細く分け。


 身体の隅々まで、探っていく。


 クロエとサンセリテは。


 少し離れた場所から、静かに見守っていた。


 やがて。


 ミュゲの表情が曇った。


「これは……」


 ルシエの胸が締めつけられる。


「本当に、酷い状態ですね」


 エレーヌの体内へ蓄積した魔素は。


 一か所に、留まっているわけではなかった。


 長い年月をかけて。


 全身の魔力回路へ、広がっている。


 特に深刻なのは。


 胸元から腹部へ伸びる、主要な魔力回路だった。


 大量の未変換魔素が、内部へ詰まり。


 回路の壁を圧迫し。


 長年の炎症によって。


 周囲の肉体と、癒着している。


 魔素を取り除こうとすれば。


 損傷した魔力回路そのものへ、触れなければならない状態だった。


「治療は、できますか?」


 ルシエが、恐る恐る尋ねる。


 ミュゲは。


 すぐには、答えなかった。


 もう一度。


 慎重に、エレーヌの身体を調べる。


 そして。


「できる限りのことをします」


 真っ直ぐに、答えた。


 治せるとは、言わなかった。


 安易な希望も、口にしない。


 それでも。


 諦める様子はなかった。


「クロエ」


「うむ」


「室内と患者の魔素濃度を、観測してください」


「任せておけ」


「サンセリテ」


「周囲から新たな魔素が流入しないよう、流れを整えてください」


「承知しました」


 クロエは観測器を取り出し。


 部屋の四隅へ、小さな測定具を配置する。


 サンセリテは、窓と扉の近くへ立ち。


 家の周囲を流れる魔素へ、意識を向けた。


 ミュゲは寝台の横で、両手を組む。


「聖光結界」


 淡い光が。


 部屋全体を、包み込んだ。


 眩しさはない。


 柔らかな光の膜が。


 壁や床を、覆っていく。


「治療中に、室内の魔素濃度が急激に変化することを防ぐ結界です」


 ミュゲが、ルシエへ説明する。


「魔素には、濃度の高い場所へ集まる性質があります」


「患者の身体から大量の魔素を動かせば」


「周囲の魔素まで、引き寄せられる可能性があります」


 体内から魔素を取り除こうとしても。


 濃度差が生まれれば。


 外部から、新たな魔素が流れ込んでくる。


 聖光結界は。


 治療を行う空間そのものを、外界の魔素循環から一時的に切り離し。


 濃度を安定させるためのものだった。


「始めます」


 ミュゲは。


 エレーヌの胸元へ、両手をかざした。


「聖光治癒」


 次の瞬間。


 眩い光が、部屋を満たした。


 大講堂で見た光とは違う。


 魔物を討つための、強い光でも。


 闇魔法を分解するための、鋭い光でもない。


 暖かく。


 柔らかく。


 それでいて。


 圧倒的な密度と精度を持つ光。


 光はエレーヌの身体へ入り込み。


 魔力回路の中へ蓄積した魔素へ、触れていく。


 魔素の結合が解かれ。


 火。


 水。


 風。


 土。


 四大属性の魔粒子へ、分解されていく。


 ミュゲは。


 体表に近い部分から、慎重に光を進めていた。


 一度に大量の魔素を分解すれば。


 その際に発生するエネルギーが。


 エレーヌの身体へ、負担を与えてしまう。


 分解する量。


 光を当てる位置。


 発生したエネルギーを逃がす方向。


 そのすべてを。


 極限まで細かく、制御している。


「魔素濃度、低下しておる」


 観測器を見つめながら。


 クロエが告げる。


「末端の魔力回路は」


「順調に、流れを取り戻しておるぞ」


 エレーヌの苦しげだった表情が。


 少しずつ、和らいでいく。


 浅かった呼吸が。


 穏やかになる。


 青白かった頬にも。


 わずかに、血色が戻り始めた。


「お母さん……!」


 ルシエの声が震えた。


 何年も、見ていなかった。


 これほど穏やかに呼吸する、母の姿を。


 いつも、痛みに耐え。


 自分を心配させまいと、無理に笑っていた。


 その母が、今。


 苦しみから解放されたような表情で。


 静かに眠っている。


「すごい……」


 ルシエの目に、涙が浮かぶ。


「顔色が……」


 治る。


 今度こそ。


 母が、元気になる。


 そう思った。


 しかし。


 ミュゲの額には。


 次第に、汗が滲み始めていた。


 光が。


 主要な魔力回路の奥へ、近づいていく。


 その瞬間。


 エレーヌの指先が、わずかに震えた。


「……っ」


 小さな苦痛の声が漏れる。


 観測器の針が、大きく揺れた。


「ミュゲ」


 クロエが、低い声で呼びかける。


「魔力回路への負荷が、上がっておる」


「分かっています」


 ミュゲは、光の出力を弱める。


 さらに細く。


 慎重に。


 奥へ入り込もうとする。


 だが。


 光を弱めれば。


 深く圧縮された魔素を、分解できない。


 光を強めれば。


 分解時に発生するエネルギーが。


 傷ついた魔力回路へ、直接伝わってしまう。


「これ以上は、危険じゃ」


 クロエが告げた。


 ミュゲは。


 悔しそうに、唇を結ぶ。


「……はい」


 そして。


 ゆっくりと、光を収めた。


 聖光治癒が止まり。


 最後に聖光結界が、静かに消えていく。


 部屋へ。


 夜の静けさが戻った。


 エレーヌの呼吸は。


 穏やかなままだった。


 顔色も。


 治療前とは比べものにならないほど、良くなっている。


「お母さん」


 ルシエは、母の手を握り直す。


「どうですか?」


 エレーヌが、ゆっくりと目を開けた。


「身体が……軽いわ」


 かすかな声。


 けれど。


 これまでより、ずっと力がある。


「胸の痛みも」


「少し、楽になったみたい」


「息は、苦しくありませんか?」


「ええ」


 エレーヌは。


 安心させるように、微笑んだ。


「久しぶりに」


「きちんと、息が吸えるわ」


 ルシエの目から、涙が零れた。


「よかった……」


 何度も、頷く。


「本当に、よかった……」


 だが。


 ミュゲは。


 その場で、静かに頭を下げた。


「申し訳ありません」


 ルシエが顔を上げる。


「え……?」


「私の光魔法でも」


「完治には、至りませんでした」


 喜びかけていたルシエの表情が止まる。


「ですが」


「母の身体は、こんなに……」


「末端や、体表に近い魔力回路へ蓄積していた魔素は」


「かなり分解することができました」


「そのため」


「呼吸や身体の痛みは、大きく改善しています」


 ミュゲは。


 エレーヌの胸元へ、視線を落とす。


「ですが」


「病気の中心は、残っています」


「大量の魔素が」


「主要な魔力回路の奥深くへ」


「圧縮された状態で、蓄積しています」


「さらに」


「長年の圧迫と炎症によって」


「魔力回路の壁や、周囲の肉体と癒着している」


 ルシエは。


 母の胸元を見つめる。


 蓄積しているのは。


 特別な毒ではない。


 本来ならば。


 魔力回路によって、エレーヌ自身の魔力へ変換されるはずだった魔素。


 だが。


 処理できる量を超えて、体内へ入り込んだことで。


 魔力回路を傷つける、異物となってしまった。


「分解することは」


「できないのですか?」


「できます」


 ミュゲは、苦しげに答えた。


「出力を上げれば」


「魔素そのものを、分解することは可能です」


 それならば。


 そう口にしかけたルシエへ。


 ミュゲは、首を横へ振る。


「ですが」


「できません」


「深く蓄積した魔素は」


「既に、傷ついた魔力回路と密着しています」


「完全に分解しようとすれば」


「その際に発生するエネルギーが」


「魔力回路へ、直接伝わります」


「正常に残っている回路まで損傷し」


「周囲の血管や臓器を傷つける可能性が高い」


 光魔法は。


 魔素を、完全に分解できる。


 だが。


 分解する対象だけを。


 周囲から切り離して、消せるわけではない。


 魔力回路の奥へ入り込んだ魔素を分解すれば。


 その力は。


 接触している肉体へも、及んでしまう。


「汚染として蓄積した魔素だけを選び」


「魔力回路や肉体へ負担を与えずに、完全分解することが」


「今の私には、できないのです」


 ミュゲは、拳を握りしめた。


 世界最高峰の光魔法を持ちながら。


 目の前の一人を、救い切ることができない。


 そのことを。


 誰よりも、悔しがっているように見えた。


「定期的に治療を続ければ」


「症状を、軽減することはできます」


「魔力回路へかかる負担を減らし」


「病気の進行を、遅らせることも可能です」


「ですが」


「根本に残る魔素を取り除かなければ」


「いずれ、再び症状は進行します」


 完全な治療ではない。


 苦しみを和らげ。


 残された時間を、延ばすだけ。


 ルシエは。


 母の手を握ったまま、俯いた。


 ミュゲは。


 そんな二人の前で、さらに深く頭を下げる。


「申し訳ありません」


「大聖女様……」


「私たちは」


「魔王因子との接続を断ち」


「千年近く続いていた、第二の魔素循環を止めました」


 魔王因子との繋がりを失い。


 崩れ落ちた、ニコラス。


 そして。


 魔王因子の破壊によって。


 世界を歪め続けていた、第二の魔素循環も消滅した。


「ですが」


「魔王因子が存在していた間に」


「多くの土地が傷つきました」


「魔素循環の歪みによって」


「数え切れないほどの方々が、苦しんでいます」


 ある土地では。


 魔素濃度が、急激に低下した。


 別の土地では。


 大量の魔素が集中し。


 濃度が、異常に上昇した。


 その結果。


 各地で、魔素災害が起きた。


「エレーヌさんが巻き込まれた災害も」


「魔王因子が生み出していた歪みによるものです」


 ミュゲは。


 頭を下げたまま、告げる。


「私たちは」


「その原因を、ようやく止めることができました」


「ですが」


「既に苦しんでいる方々を」


「まだ、救い切れていません」


「世界を救ったなどと呼ばれながら」


「目の前にいるあなたを、完治させることもできない」


「本当に」


「申し訳ありません」


 ルシエは。


 何も言えなかった。


 魔王を倒した英雄。


 世界を救った、大聖女。


 誰もが称賛する存在が。


 自分たちの前で、深く頭を下げている。


 ミュゲたちが、悪いわけではない。


 魔王因子を放置していれば。


 魔素循環の歪みは、さらに大きくなっていた。


 もっと多くの土地が、汚染され。


 もっと多くの命が、失われていただろう。


 それでも。


 救えなかった者がいる。


 今も苦しんでいる者がいる。


 ミュゲは。


 その事実から、目を背けようとしない。


 自分たちにできることを探し。


 一人ずつ、患者を訪ね。


 治療を続けている。


 それが。


 大聖女ミュゲという人だった。


「謝らないでください」


 穏やかな声が、聞こえた。


 エレーヌだった。


 ミュゲが顔を上げる。


「あなた方が」


「魔王を倒してくださらなければ」


「もっと多くの人が、亡くなっていました」


 エレーヌは。


 弱々しく。


 それでも、優しく微笑む。


「きっと」


「私も」


「ルシエも」


「今ここには、いなかったでしょう」


「ですが……」


「あなたは、世界を救ってくださいました」


「そして今も」


「こうして、一人ずつ治療して回っている」


 エレーヌは。


 ミュゲを責めるどころか。


 感謝するように、頭を下げた。


「ありがとうございます」


 ミュゲは。


 しばらく、何も答えられなかった。


 やがて。


 静かに目を伏せる。


「……こちらこそ」


 小さく、答えた。


 その様子を見守っていたクロエが。


 壁へ背を預けたまま、口を開く。


「わしらが王立魔法学校へ来た、本来の目的は」


「講義ではない」


 ルシエが、クロエを見る。


「各国の魔法協会や魔法学校から」


「何度も、講演を頼まれておった」


「魔王との戦い」


「魔王因子の構造」


「古代魔法の研究」


「話せば」


「どこでも、歓迎されたじゃろう」


 サンセリテが続ける。


「ですが」


「私たちは、すべてお断りしてきました」


「復興支援と」


「魔素災害への対応を、優先していたからです」


「魔王因子が消滅したあとも」


「世界の魔素循環は、まだ完全には安定していません」


 千年近く存在していた。


 第二の魔素循環。


 それが突然消滅したことで。


 世界の魔素は。


 本来の流れを、取り戻そうとしている。


 だが。


 長い年月をかけて歪められた循環が。


 すぐに元へ戻るわけではない。


 今も各地では。


 魔素濃度の異常や。


 新たな災害が発生していた。


「講義をしている間にも」


「苦しんでいる者はおる」


 クロエは。


 寝台のエレーヌへ、視線を向ける。


「わしらにとっては」


「そちらの方が、大切じゃ」


「では」


「どうして今回は、講義を?」


 ルシエが尋ねる。


「王立魔法学校が」


「治療活動に必要な資料、観測器、人員を提供してくれたからです」


 サンセリテが答えた。


「この街と周辺地域には」


「重度の魔素汚染患者が、多く暮らしています」


「以前から病に苦しんでいる方々の調査と治療」


「そして」


「現在も続いている、魔素循環の異常への対応」


「その協力を条件に」


「一度だけ、講義を引き受けました」


「本来の目的は」


「患者の治療と、復興支援じゃ」


 クロエが笑う。


「講義は、ついでじゃな」


「ついでだったのですか……」


「そう落ち込むでない」


 クロエは、口元を緩める。


「来たかいはあった」


「え?」


「お主の質問じゃ」


 ルシエは、目を瞬かせた。


「魔力回路の働きを」


「魔法式によって、外部へ再現できないか」


「周囲の魔素を」


「属性魔粒子を媒体として用いず」


「術者固有の魔力へ変換できないか」


「面白い問いじゃった」


 サンセリテも、静かに頷く。


「人間が魔素へ干渉する方法は」


「まだ、すべて解明されていません」


「妖精誘導法とも」


「魔剣流とも」


「現在の属性魔法とも異なる」


「新しい可能性です」


「ですが」


「皆さんには、笑われました」


「だから何じゃ?」


 クロエは、不思議そうに首を傾げた。


「笑われた程度で」


「真理が変わるわけではなかろう」


「正しいかどうかは」


「研究して、確かめればよい」


「疑問を持ったことそのものは」


「誇ってよい」


 ルシエの胸が、熱くなる。


「ありがとうございます」


「礼を言うのは」


「何かを見つけてからにせい」


 クロエは、そう言いながらも。


 どこか楽しそうに、笑っていた。


 サンセリテも。


 ルシエへ、穏やかな視線を向ける。


「あなたの問いには」


「既存の理論を疑うだけの、理由がありました」


「どうか」


「大切にしてください」


「はい」


 ルシエは。


 今度こそ、はっきりと頷いた。


「ルシエ」


 寝台から。


 エレーヌが、娘を呼ぶ。


 ルシエは、すぐにそばへ戻った。


「どうしました?」


 エレーヌは。


 握られた娘の手を、優しく握り返す。


「私のことは、いいのよ」


「何を言っているのですか」


「私は」


「今でも、十分幸せだから」


 エレーヌは。


 娘を見つめた。


 病に苦しむ母を救うため。


 幼い頃から、勉強を続けてきた娘。


 どれほど馬鹿にされても。


 どれほど否定されても。


 決して、諦めなかった娘。


「私は」


「あなたが幸せなら」


「それが、一番だから」


 ルシエの唇が震えた。


「そんなこと……」


 母を、救いたい。


 そのために。


 ここまで来た。


 母の病気を治せなければ。


 自分が学んできた意味などない。


 ずっと。


 そう思っていた。


 けれど。


 母は。


 自分のことよりも、ルシエの幸せを願っている。


「私は……」


 何かを、答えようとした。


 けれど。


 言葉にならなかった。


 ルシエは俯き。


 母の手を、両手で包み込む。


 暖かい。


 治療前よりも。


 確かに、体温が戻っている。


 それでも。


 この温もりが。


 いつまで続くのかは、分からない。


 ミュゲの光魔法でも。


 母を、完全に救うことはできなかった。


 魔素を分解すれば。


 傷ついた魔力回路や、肉体まで壊してしまう。


 分解しなければ。


 蓄積した魔素は、残り続ける。


 光魔法は。


 世界最高峰の力だった。


 それでも。


 分解という方法では。


 母を救い切ることができない。


(ならば)


 ルシエは。


 母の手を握りながら、目を閉じた。


(分解する以外の方法を)


(探さなければなりません)


 魔素を、力ずくで消すのではない。


 母の身体を傷つけることなく。


 体内へ蓄積した魔素を、処理する方法。


 答えは。


 まだ、見つからない。


 それでも。


 諦めるという選択だけは。


 最初から、存在していなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ