第101話 不死ではない
「じゃが、わしはそうは思わぬ」
クロエは、ゆっくりと首を横へ振った。
先ほどまでざわめいていた大講堂が、静まり返る。
「魔王因子によって肉体を維持し続ければ、人間は不死になれる」
「理屈だけを見れば、そのように思えるじゃろう」
土によって肉体を補い。
水によって血液を巡らせ。
火によって体温を維持し。
風によって呼吸を続けさせる。
そのすべてを魔王因子が半永久的に供給し続ける。
肉体は老いない。
傷ついても修復される。
魔力も枯渇しない。
身体機能だけを見れば、確かに死から最も遠い存在のように思えた。
「実際、ニコラスは千年以上を生きた」
クロエは、黒板に描かれた人型を見つめる。
「老いによって肉体が朽ちることもなかった」
「致命傷を負っても、魔王因子がその身体を修復した」
「そして、ほとんど尽きることのない魔力を持っておった」
史上最高の魔術師。
無限に近い魔力。
老いることのない肉体。
人類が長い歴史の中で望み続けてきた、不死という夢。
ニコラスは、それを実現したように見える。
「では、何が違うのですか?」
一人の生徒が手を挙げた。
「魔王ニコラスは、実際に千年以上も生きていたのでしょう?」
「そうじゃな」
クロエは静かに頷く。
「記録だけを見れば、そうなる」
彼女は一度、目を閉じた。
その表情から、先ほどまでの講義らしい穏やかさが消えていく。
「じゃが、わしは実際にニコラスを見た」
大講堂の空気が変わった。
これは、設計図や観測記録から得た知識ではない。
魔王城へ赴き。
魔王本人と対峙し。
その最期まで見届けた人間の言葉だった。
「魔王城の最深部」
「魔王因子を中心とする第二の魔素循環の中で、ニコラスは玉座に座っておった」
クロエの声だけが、大講堂へ静かに響く。
「周囲には、目で見えるほど濃い魔素が満ちておった」
「火、水、風、土」
「四大属性の魔粒子が絶えず集められ、融合し、あやつの身体へ注ぎ込まれていた」
魔王因子が脈打つたびに、新たな魔素と莫大なエネルギーが生み出される。
その力はニコラスの体内を巡り、肉体と魔力を維持し続けていた。
「それほどの力を得ておきながら、ニコラスは満たされておらなんだ」
クロエの眉間に、わずかな皺が寄る。
「わしらが見たのは、死を超越した不死者などではない」
「死ぬことを恐れ、生へ異常なまでに執着する、一人の老人じゃった」
未知を追い求める研究者の好奇心も。
偉大な理論を完成させた魔術師の誇りも。
千年を生きた者の悟りも。
そこには残っていなかった。
ただ、死にたくない。
その一心だけで、世界の魔素を奪い続けていた。
「最終決戦で、わしらはニコラスの肉体から魔王因子を引き剥がした」
生徒たちが息を呑む。
「その瞬間」
「ニコラスは初めて、はっきりと恐怖を見せた」
クロエの脳裏に、あの日の光景が蘇る。
黒い人工魔核へ向かって、震える手を伸ばす老人。
『返せ』
『それは、私のものだ』
魔王因子から無数の闇の回路が伸び、ニコラスの肉体へ再び接続しようとしていた。
あと少しでも繋がれば、第二の魔素循環が復活する。
「ニコラスは、魔王因子を取り戻そうとした」
「闇魔法を暴走させ、わしらへありとあらゆる術式を放ちながら叫んでおった」
『まだ終わらせん』
『わしは、永遠に生きるのだ』
クロエは静かに目を伏せる。
「じゃが、ミュゲの光魔法によって、魔王因子とニコラスを繋ぐ回路は完全に分解された」
「再接続は断たれた」
大講堂の誰もが、声を発することなく続きを待っている。
「すると、どうなったと思う?」
答える者はいなかった。
「まず、火が消えた」
「千年以上にわたって保たれていた体温が、急速に失われた」
「次に、風が止まった」
「呼吸も、心臓の鼓動も止まった」
「水と土による維持も失われ、肉体は端から砂へ還り始めた」
ニコラスの身体は、魔王因子との繋がりを失った瞬間に崩壊した。
人間として自然に老いていったわけではない。
力尽き、静かに息を引き取ったわけでもない。
外部からの供給を断たれた途端、身体を形作っていたすべてが止まった。
「その時、ニコラスは何と言ったのですか?」
一人の生徒が、恐る恐る尋ねた。
クロエはしばらく黙っていた。
やがて、低い声で答える。
「返してくれ、と」
魔王因子へ手を伸ばしながら。
崩れ落ちる自分の腕を見つめながら。
『わしは、まだ生きたい』
『死にたくない』
「最後まで、そう叫んでおった」
大講堂に重い沈黙が落ちる。
千年もの間。
誰よりも死を恐れ。
誰よりも死から逃げ続けた男。
しかし、その死は消えたのではない。
魔王因子によって、無理やり遠ざけられていただけだった。
「魔王因子が外れた途端、あやつの呼吸も、鼓動も、体温も、肉体も、すべて失われた」
クロエは黒板へ描かれた四つの属性を、一つずつ指す。
「土」
「水」
「火」
「風」
「魔王因子は、この四つを絶えず供給しておった」
「言い換えれば、その供給がなければ、あやつの身体は一瞬たりとも維持できなかったということじゃ」
一人の生徒が問いかける。
「それでも、魔王因子が動いている間は生きていたのではないでしょうか?」
「そう考えることもできる」
クロエは、その意見を否定しなかった。
「心臓は動いておった」
「呼吸もしておった」
「言葉を話し、魔法を使い、自らの意思で行動していた」
「それを生きていると呼ぶならば、確かにニコラスは生きていたのじゃろう」
しかし。
クロエは、ゆっくりと首を横へ振る。
「じゃが、わしが見たものは不死者ではない」
「既に寿命を迎えた肉体へ、土、水、火、風を無理やり注ぎ込み、動かし続けていただけじゃ」
一度、言葉を切る。
「いわば――」
クロエは静かに言い切った。
「死体を、魔法で動かし続けていたにすぎぬ」
生徒たちの表情が強張る。
肉体は動く。
言葉も話す。
魔法も使える。
それでも、その生命は完全に魔王因子へ依存していた。
心臓を動かす。
血を巡らせる。
呼吸を続ける。
体温を保つ。
傷ついた肉体を修復する。
それらは、人間が生きるために必要なものだ。
けれど。
必要な条件を外部から揃え続けるだけで、本当に生命そのものを永遠に保てるのだろうか。
「では、人間を生かしているものは何なのですか?」
別の生徒が尋ねた。
クロエは、すぐには答えなかった。
「分からぬ」
やがて、静かに首を横へ振る。
「魂と呼ぶべきか」
「心と呼ぶべきか」
「生命そのものと呼ぶべきか」
「わしにも分からぬ」
四大属性の魔粒子として観測することはできない。
魔力測定器にも反応しない。
魔法式へ書き表すこともできない。
存在を証明する方法すら、今の魔法理論には存在しなかった。
「ゆえに、これは学術的に証明された話ではない」
クロエは、念を押すように告げる。
「魔王因子を失ったニコラスの最期を見た、わし個人の考えじゃ」
「じゃが」
彼女は自分の胸へ手を当てた。
「人は、肉体だけで生きているのではない」
「わしは、そう思っておる」
ルシエは、研究ノートへ視線を落とした。
そこには、先ほどクロエが示した四つの要素が書かれている。
土は肉体。
水は血液。
火は体温。
風は呼吸。
それらを維持すれば、人間の身体は動き続ける。
けれど。
身体を動かし続けることと、その人を救うことは同じではない。
(治療も、同じなのでしょうか)
ルシエの脳裏に、母エレーヌの姿が浮かぶ。
母の身体には、汚染魔素が深く入り込んでいる。
汚染魔素を取り除けば、病気は治る。
これまでは、そう考えていた。
けれど、ただ強い力で汚染魔素を分解すればよいわけではない。
母の肉体。
母の魔力回路。
母が本来持っている魔力。
それらまで傷つけてしまえば、汚染魔素だけが消えたとしても、治療とは呼べない。
(汚染魔素だけを見ていては、いけない)
治すべき相手は、魔素ではない。
苦しんでいる、一人の人間なのだ。
ルシエは、ノートへゆっくりと書き記した。
『肉体を動かすことと、人を救うことは違う』
『治療とは、病だけでなく、その人自身を守ること』
隣に座るノエルが、その文字へ視線を落とす。
「お母さんのことを考えているのか?」
「はい」
ルシエは小さく頷いた。
「私は、汚染魔素を取り除くことばかり考えていました」
「でも、それだけでは足りないのかもしれません」
どのようにすれば、母の身体を傷つけずに汚染魔素だけを取り除けるのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど。
決して見失ってはならないものだけは、少し分かった気がした。
クロエは、大講堂をゆっくりと見渡した。
「ニコラスは、自らを不死だと信じておった」
「魔王因子さえ動き続ければ、永遠に生きられるとな」
だが、魔王因子との接続を失った瞬間。
千年間維持され続けた肉体は、瞬く間に崩れ去った。
「魔王因子によって死を克服したのではない」
「死ぬはずだった肉体を、魔法で無理やり維持していただけじゃ」
クロエは、静かに目を伏せる。
「あやつが魔王因子を使い続けて、あとどれほど肉体を保てたかは分からぬ」
「百年か」
「十年か」
「あるいは、数年か」
制御機構も。
安全弁も。
停止するための術式も存在しない。
世界から魔素を奪い、崩れかけた身体へ力を注ぎ続けるだけの魔導機関。
いつか肉体の崩壊が、供給と修復の速度を上回る時が来る。
「じゃが、わしらが討たずとも」
「ニコラスも、いずれは死んでおったじゃろう」
千年以上を生きた魔王。
不死を求め、世界の魔素循環さえ歪めた史上最高の魔術師。
それでも最後まで。
死を乗り越えることは、できなかった。




