第八話『絶命の代償』
吐いた。胃の中身がなくなるまで吐いた。石畳に膝をついたまま何度も喉を痙攣させ、胃液しか出ないにもかかわらず身体は吐くことをやめてくれない。肺の奥までひっくり返されるような感覚に涙が滲み、視界の端がじわじわと歪んでいく。
呼吸が苦しい。
頭が痛い。
心臓がうるさい。
全身が冷たい。
それなのに額からは汗が止まらなかった。
死んだ。
確かに死んだ。
背中を貫かれた感触も、床へ倒れた時の衝撃も、血が流れ出ていく気持ち悪さも、首を断たれた瞬間の焼けるような激痛も、まるで今さっき体験した出来事のように鮮明だった。夢ではない。悪夢でもない。記憶だ。自分自身が死んだ記憶だった。
「っ……はぁ……」
吐き気がぶり返す。
石畳へ手をつきながら顔を上げると、視界の先では騎士たちが歓声を上げていた。
「レオン様!」
「流石です!」
その声を聞いた瞬間、背筋を氷の指でなぞられたような感覚が走る。聞いたことがある。いや、知っている。ついさっき聞いた。宿で死ぬ前に聞いた。全く同じ声。全く同じ言葉。同じ抑揚。同じ表情。同じ景色。
巨大な狼の死体。
石畳に飛び散った血。
歓声を上げる騎士たち。
長剣を肩に担ぐレオン。
全てが同じだった。
まるで世界そのものが昨日を再生しているみたいに。
「終わったか」
レオンが言う。
鳥肌が立つ。
その台詞も同じだった。
あまりにも同じだった。
偶然では説明できない。偶然で説明できる範囲をとっくに超えている。それなのに頭は現実を拒絶していた。認めてしまえば何かが壊れる。そんな予感があった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
広場を離れた後も、ハルトの頭の中は泥水をかき混ぜたみたいに濁っていた。街を歩いているはずなのに足元がふわふわしている。露店から漂う焼きたてのパンの匂いも、人々の笑い声も、馬車の車輪が石畳を転がる音も、どこか遠くの出来事に感じられた。
王都は平和だった。
平和すぎるほど平和だった。
だがハルトには、その平和が薄いガラス細工に見えた。少し力を加えれば粉々に砕ける。そんな危うさを感じていた。
「やあ」
声がした。
振り返る。
エルドだった。
相変わらず気の抜けた顔をしている。昼寝から起きたばかりみたいな目をしているくせに、その瞳の奥だけは底が見えない。
ハルトは真っ直ぐその男を見る。
「聞きたいことがある」
「珍しいね」
エルドが笑う。
「君から質問なんて」
ハルトは傘を持ち上げた。
「この傘に、魔力を吸収して放出する以外の能力はあるか」
その瞬間だった。
エルドの表情が止まった。
本当に一瞬。
風が吹いて髪が揺れるより短い時間。
だが確かに止まった。
笑顔が消えた。
何かを見透かしていた目が曇った。
そして次の瞬間には何事もなかったように戻っている。
だがハルトは見逃さなかった。
「あるんだな」
エルドは答えない。
「あるんだろ」
沈黙。
王都の喧騒だけが二人の間を流れていく。
やがてエルドは小さく息を吐いた。
「どうしてそう思ったんだい」
「答えろ」
エルドは数秒だけハルトを見つめた。その視線は不思議だった。まるで何かを確認しているようで、何かを諦めているようでもある。
「……あるよ」
あっさり認めた。
ハルトの心臓が強く跳ねる。
「その傘には保険が掛けられている」
「保険?」
「そう」
エルドは傘へ視線を落とした。
「使用者が脳死した時に発動する魔術だ」
脳死。
その言葉を聞いた瞬間、胃の奥が冷たくなる。
「待て」
「なんだい」
「なんで死ぬ前提なんだ」
エルドは笑わなかった。
「君はもう知っているんだろう?」
その一言で十分だった。
言い逃れも否定もできない。
死んだ。
自分は死んだ。
そして今ここにいる。
それが現実だった。
「能力は」
喉が渇く。
「その能力は何なんだ」
エルドは少しだけ空を見上げた。
「絶命を代償にして、運を二千万倍に引き上げて、傘のルーレットが始まる」
「......にわかには理解しがたいな」
「だろうね」
「それで?」
「簡潔に言うと、現在から先と後で二十四時間以内なら、好きな時間帯へ移動できる」
世界から音が消えた気がした。
人の声も。
馬車の音も。
風の音も。
何も聞こえない。
頭の中で言葉だけが反響している。
二十四時間。
好きな時間。
移動。
死。
脳死。
理解したくなかった。
理解した瞬間、自分がもう普通ではないことを認めなければならないから。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
宿には戻らなかった。
戻れば死ぬ。
その確信だけはあった。
だから王都の外れにある薄暗い路地裏へ身を隠した。湿った石壁にもたれながら、人通りのない場所で時間だけが過ぎるのを待つ。
夕方が終わる。
夜になる。
月が昇る。
時間は残酷なほどゆっくり流れていった。
眠気が襲ってくる。
瞼が重い。
意識が沈みそうになる。
だが眠れない。
眠ったら終わる気がした。
だから耐える。
ひたすら耐える。
指先を噛む。
頬を叩く。
腕を爪で引っ掻く。
痛みで意識を繋ぎ止める。
夜明け前になる頃には全身が鉛みたいに重くなっていた。
東の空が少しずつ白み始める。
朝だ。
助かった。
そう思った。
本当に少しだけ。
肩の力が抜けた。
「見つけた」
少女の声だった。
心臓が止まりそうになる。
振り返る。
路地裏の入口に一人の少女が立っていた。
小柄だった。
年齢は十代半ばくらい。
白い髪。
愛らしい顔立ち。
どこにでもいそうな少女。
だが、その笑顔だけが異常だった。
人形みたいだった。
感情がない。
温度がない。
なのに楽しそうだった。
「ーーーお前は...誰だ」
ハルトは立ち上がる。
少女は首を傾げた。
「私の名前?リリィ・ローゼンフェルト」
嬉しそうに名乗る。
そして一歩前へ出る。
その笑顔が広がる。
意味が分からなかった。
だが次の瞬間。
視界が真っ赤に染まった。




