第七話『黄泉』
コツ
コツ
コツ
血塗れの廊下の奥から足音が近付いてくる。
ハルトは息を呑んだ。
宿の中は静まり返っていた。先程まで人がいたはずなのに、今は誰も動かない。受付の女性も、酒場で騒いでいた客たちも、皆床に倒れている。
血の臭いが鼻を刺した。
現実感がない。
だが夢とも思えなかった。
足音は止まらない。
近付いてくる。
ゆっくりと。
確実に。
ハルトは傘を握り締めた。
心臓がうるさい。
逃げるべきか。
確認するべきか。
迷っている時間はなかった。
廊下の奥の闇から、それは現れた。
黒い。
いや、黒すぎる。
人の形をしているように見えるのに、人ではない。輪郭が曖昧で、煙のように揺らいでいる。顔があるはずの場所には何もなく、ただ二つの赤い光だけが浮かんでいた。
「……何だよ」
返事はない。
赤い光がハルトを見た。
次の瞬間だった。
全身が総毛立つ。
本能が叫ぶ。
逃げろ、と。
ハルトは反射的に傘を開いた。
しかし遅い。
黒い影が消える。
視界から。
そして。
背後から衝撃。
肺の中の空気が一気に押し出された。
「がっ――!?」
床へ叩き付けられる。
痛い。
何が起きたのか分からない。
身体が動かない。
背中が熱い。
いや違う。
温かい液体が流れている。
血だ。
自分の血だった。
ハルトは震える手で床を掴む。
赤い。
視界も赤い。
呼吸が苦しい。
影は再び目の前に立っていた。
見下ろしている。
まるで品定めするように。
「ふざけ……んな」
傘を持ち上げる。
だが力が入らない。
視界が霞む。
遠くなる。
身体の感覚が消えていく。
その時だった。
頭の中で何かが引っ掛かった。
違和感。
ずっと感じていた違和感。
狼。
レオン。
エルド。
同じ一日。
同じ会話。
同じ景色。
そして。
宿。
ベッド。
眠ったはずだった。
確かに。
眠った。
なのに。
その先の記憶がない。
朝の記憶もない。
目を覚ました瞬間には、狼の広場にいた。
まるで。
眠っている間の時間だけが切り取られたみたいに。
「……まさか」
脳裏に浮かぶ。
嫌な予感。
認めたくない予感。
もし。
もし本当に。
自分が、
殺されていたとしたら――
そこで思考は途切れた。
黒い影が腕を振るう。
鋭い痛み。
首。
熱い。
次の瞬間には何も感じなかった。
世界が傾く。
床が近い。
血の臭いが遠ざかる。
音が消える。
光が消える。
意識が沈む。
深く。
深く。
どこまでも。
――次の瞬間、カミシロ ハルトは成人にも満たない年齢で、この世を去った。




