第九話『夜明けの路地裏』
視界が真っ赤に染まった。
血だと思った。だが違った。目の前に血があるわけではない。空も、地面も、路地裏の湿った石壁も、夜明け前の淡い光を背負って立つ少女の輪郭さえも、世界そのものが赤い膜で覆われたように滲んでいた。耳鳴りがする。頭の奥で金属を擦り合わせるような高い音が鳴り続けている。痛みは遅れてやってきた。最初に来たのは熱だった。焼けた鉄棒を身体の奥へ押し込まれたような熱。それが次第に形を持ち始め、胸なのか、腹なのか、首なのか、自分でも分からない場所から命が零れ落ちていく感覚へ変わっていった。身体はまだ立っているつもりだった。だが視界は傾いている。膝が砕ける。指先が痺れる。呼吸をしようとしても肺が動かない。喉から漏れた音は声ではなく、壊れた笛のような掠れた空気だった。
リリィが笑っていた。白い髪。小柄な身体。人形めいた可愛らしい顔。朝焼けの薄い光に照らされたその姿は、血の匂いがしなければ、死の気配がなければ、どこにでもいる少女のように見えたかもしれない。だが、その瞳だけが違っていた。空っぽだった。何も映していないのではない。映しているものに意味を与えていない目だった。人を見ている。けれど人として見ていない。命を見ている。けれど重さを感じていない。ハルトはその目を見た瞬間、自分が今まさに死に向かっているという事実よりも、その少女が自分の死に対して一切の揺らぎを持っていないことの方に強い恐怖を覚えた。
死ぬ。
その理解は、妙に冷静だった。叫ぶ余裕もない。逃げる時間もない。傘を構えることもできない。ただ身体が崩れ、意識が暗闇へ沈んでいくまでの僅かな時間の中で、ハルトの脳裏にエルドの声が蘇った。現在から二十四時間以内なら、好きな時間へ移動できる。好きな時間。選べる。今までのようにただ流されるのではなく、自分で選べる。死の直前にそんなことを考えられる自分に吐き気がした。けれど、考えなければならなかった。考えなければ、また何も分からないまま殺される。宿で死んだ時のように、廊下の奥から現れた黒い影に為す術もなく命を刈り取られた時のように、ただ怯えて終わるだけになる。
宿に戻る前では駄目だ。狼の場面でも駄目だ。レオンと出会う前でも駄目だ。必要なのは、リリィと出会う直前の時間だった。夜明け前。路地裏。彼女が現れる少し前。逃げるためではない。避けるためでもない。今度は話す。聞く。知る。あの少女が何者で、なぜ自分を殺すのか、何を望み、何を考え、どうやって人を殺しているのか。理解できるかどうかは分からない。それでも、知らなければ始まらない。
夜明け前へ。
そう念じた瞬間、世界が砕けた。視界の赤が割れる。路地裏が歪む。リリィの笑顔が遠ざかる。身体の感覚が消える。痛みが薄れるのではなく、痛みを感じる自分自身が剥がれ落ちていく。意識は深い水底へ沈むように落ちていき、音も、光も、匂いも、痛みも、全てが遠い場所へ置き去りにされていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
目を開いた瞬間、冷たい空気が肺へ流れ込んだ。夜明け前の路地裏の空気だった。湿った石壁の匂いと、どこかから漂ってくる古い油の臭い、夜通し冷えた石畳の硬い冷気が肌にまとわりつく。生きている。そう理解した瞬間、ハルトはその場に膝をつき、反射的に吐いた。胃の中身などほとんど残っていない。それでも身体は吐くことをやめなかった。喉が痙攣し、胃液がこみ上げ、口の中が酸味と苦味で満たされる。涙が勝手に滲む。鼻の奥が痛い。指先が震える。石畳へついた両手は自分のものとは思えないほど冷たく、爪の先まで血が通っていないようだった。
死んだ。自分の意思で戻った。戻れた。成功した。その三つの事実が頭の中で何度もぶつかり合い、混ざり合い、意味を失っていく。普通なら喜ぶべきなのかもしれない。生き返ったのだから。死を回避するための手段を手に入れたのだから。だが、ハルトの身体は歓喜など一切受け付けなかった。胸の奥で心臓が暴れ、肺はまともに空気を取り込めず、全身の筋肉が死を思い出して震えている。生きているのに、身体のどこかがまだ死んだままだった。魂だけが死の瞬間に取り残され、肉体だけが無理やり時間の前へ引き戻されたような不快感があった。
「……っ、は……はぁ……」
喉から漏れる息が情けないほど震えていた。立ち上がろうとしても膝に力が入らない。壁に手をつき、体重を預ける。ざらついた石壁が掌の皮膚を擦り、痛みが走る。その痛みがかろうじて現実を繋ぎ止めてくれた。ここは現実だ。夢ではない。幻覚ではない。自分は今、夜明け前の路地裏にいる。そしてもうすぐリリィが来る。
逃げたいと思った。今すぐこの場から離れ、王城へ駆け込み、エルドを問い詰め、騎士たちに囲まれた場所で朝を迎えたいと思った。だが同時に、それでは何も変わらないことも分かっていた。宿へ戻らなかったのに殺された。路地裏に隠れても見つかった。リリィは来る。理由は分からない。方法も分からない。だが、彼女は来る。ならば逃げ続けても意味がない。知らなければならない。理解できるかではなく、まず情報として掴まなければならない。恐怖で目を逸らせば、次もまた赤い視界の中で終わる。
ハルトは震える指で口元を拭い、傘を握り直した。黒い傘は何も言わない。ただ手の中にある。軽い。あまりにも軽い。けれど、この軽さが恐ろしかった。この傘は自分を生かしているのか、それとも死へ導いているのか。エルドは保険と言った。だが保険とは、本来起きてほしくないことに備えるものだ。ならこの傘は、最初から自分が死ぬことを前提に作られている。そう考えた瞬間、背筋が薄く冷えた。
足音が聞こえたのは、それから間もなくだった。軽い足音だった。革靴が石畳を叩く硬い音ではない。子供が散歩の途中で小さく跳ねるような、妙に軽やかな音。コツ、というより、トン、と石を撫でるような足音が、路地裏の入口からゆっくり近付いてくる。ハルトは息を止めた。心臓の音が大きすぎる。自分の鼓動だけで相手に居場所が知られるのではないかと思うほどだった。
路地裏の入口に、少女が立った。
リリィだった。
先程と同じ姿。白い髪。細い手足。小柄な体躯。王都の路地裏には似つかわしくないほど清潔な服。顔立ちは整っていて、目鼻立ちだけを見れば愛らしい少女だった。だが、やはり瞳が違う。朝焼け前の薄暗い空気の中で、その目だけが奇妙に澄んでいた。濁っていない。濁るほどの感情がない。人を殺す直前の緊張も、興奮も、罪悪感も、躊躇もない。そこにあるのはただ、何か面白いものを見つけた子供のような無邪気さだけだった。
「おはよう」
リリィが言った。
声は柔らかかった。鈴の音のように軽く、耳触りだけなら嫌なところが一つもない。だからこそ気味が悪かった。血の臭いがしない。殺意の重さがない。命を奪うという行為に向かう人間が持っているはずの湿った熱が感じられない。
ハルトは喉の奥に残る酸味を飲み込んだ。
「話をしたい」
「話?」
リリィは小首を傾げた。白い髪が肩から滑り落ちる。その仕草だけなら本当に普通の少女だった。
「ああ」
「いいよ」
あまりにも簡単だった。リリィは何の警戒もなく、路地裏の壁際に置かれた古びた木箱へ腰掛けた。軋んだ木箱が小さく鳴る。彼女は両足をぶらぶらと揺らしながら、まるで友達に呼び止められた時のような気軽さでハルトを見ている。ハルトはその無防備さに余計警戒した。こちらを舐めているのか。それとも、本当に警戒する必要を感じていないのか。どちらにせよ、正常な反応ではない。
「何を話すの?」
「お前のことだ」
「私?」
「ああ」
ハルトは息を整えた。聞きたいことは山ほどある。だが焦れば駄目だ。相手の反応を見ろ。声の揺れを見ろ。表情を見ろ。リリィはループを知らない。知っているのはエルドだけ。なら、こちらが知っていることを悟らせすぎれば、不自然になる。だがすでに自分は彼女を恐れている。その恐怖は顔に出ているかもしれない。声に出ているかもしれない。リリィはそれを感じ取るかもしれない。
「お前は一体何なんだ」
「リリィ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ分かんないよ」
リリィは本当に分からないという顔をした。演技ではなかった。自分を説明する言葉を持っていないのだ。人間は普通、自分がどこの誰で、何をしていて、何を望んでいるのかを何かしらの形で説明できる。だがリリィにはそれがない。自分の存在を言葉にする必要を感じたことがないのかもしれない。
「なぜ宿の人間を殺した」
「宿?」
「俺が泊まっていた宿だ。受付の女性も、客も、店主も、全員死んでいた」
「ああ」
リリィは思い出したように頷いた。
「あぁ、あれね」
その軽さに、ハルトの奥歯が鳴った。人が死んだ話だ。あの受付の女性は笑っていた。客たちは酒を飲み、食事をし、翌日を当たり前に迎えるつもりでいた。それを、リリィは「あれ」と言った。床に落ちた汚れを指すみたいに。
「なんで殺した」
「楽しいから」
即答だった。
ハルトは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。楽しかったから。人を殺した理由。宿を血の海にした理由。誰かの明日を奪った理由。それが、楽しかったから。あまりにも軽く、あまりにも短く、あまりにも何もない答えだった。
「……それだけか」
「うん」
「復讐とか、金とか、命令とか、そういうのじゃなくてか」
「違うよ」
「じゃあ、なんで」
「だから、楽しいから」
リリィは困ったように笑った。まるで同じ説明を何度も求められて少しだけ面倒になっているみたいだった。
「ハルトは、甘いもの好き?」
突然の問いに、ハルトは反応が遅れた。
「……何の話だ」
「好き?」
「少なくとも嫌いじゃない」
「じゃあ、なんで食べるの?」
「なんでって……好きだからだろ」
「それと同じだよ」
リリィはにこりと笑った。
「私は人が死ぬのが好き。痛がる顔も好き。怖がる声も好き。逃げようとするのも好き。助けてって言うのも好き。だから殺すの」
吐き気がした。胃の中にはもう何もないはずなのに、喉の奥が熱くなる。甘いものを食べるように人を殺す。彼女の中では本当に同じなのだ。そこに哲学はない。理由もない。悲劇もない。人間性の欠落を埋める何かもない。ただ好きだからやる。そこに善悪の秤など存在しない。
「家族はいるのか」
「いるよ」
「そいつらも殺したのか」
「ううん。まだ」
まだ。
その言葉が嫌に響いた。
「友達は」
「いたよ」
「殺したのか」
「うん」
「なんで」
「楽しいかと思ったから」
同じ答えだった。どこまで掘っても同じ答えしか出てこない。地面だと思って掘っていた場所が、実は底のない水面だったような感覚だった。手応えがない。何かを掴もうとしても指の間をすり抜ける。理解できない。理解したいと願うことすら間違っているのかもしれない。
「お前は狂ってる」
声が震えていた。怒りなのか恐怖なのか、自分でも分からなかった。
リリィはきょとんとした。
「そうなのかな?」
「そうだ」
「でも、ハルトも充分変だよ?」
心臓が跳ねた。
「何がだ」
「目」
リリィは木箱から降りる。ゆっくりと近付いてくる。ハルトは反射的に一歩下がりそうになり、それを必死で堪えた。下がれば怯えていると分かる。いや、すでに分かっているのかもしれない。リリィは楽しそうにハルトの顔を覗き込んだ。
「私を見る目が変。初めて会った人の目じゃない。怖がってるけど、びっくりしてない。怒ってるけど、分からないって顔じゃない。なんか、私を前から知ってるみたい」
「……」
「少し、気持ち悪いね」
その言葉は軽かった。だがハルトの身体は凍り付いた。リリィはループを知らない。知っているはずがない。だが反応を読んでいる。表情を見ている。こちらの恐怖の形を嗅ぎ取っている。野生動物が血の匂いを嗅ぐみたいに、彼女は獲物の違和感を感じ取っている。
「お前はどうやって人を殺してる」
「いろいろ」
「答えろ」
「やだ」
リリィは笑った。
「それを聞いてどうするの?」
「お前を止める」
「私を?」
「ああ」
「ハルトが?」
「ああ」
沈黙が落ちた。夜明け前の路地裏は薄暗く、建物の隙間から差し込む光はまだ弱い。遠くで鳥が鳴いた。王都が目を覚まし始める直前の、世界が一番無防備になる時間だった。リリィはその沈黙の中で、心底嬉しそうに笑った。
「いいよ」
「いいよ?」
「頑張って」
その瞬間、ハルトは傘を構えた。次に来る。分かっていた。だが分かっていても身体は追いつかない。リリィの姿が揺れた。消えたように見えた。違う。速いのではない。動きの初動が読めない。殺意がないから反応できない。普通、人間は攻撃する前に何かを出す。力み、視線、呼吸、意識の向き、ほんの僅かな殺意。それがない。リリィは花を摘むように人を殺す。だから予兆がない。
痛みが走った。
脇腹だった。鋭い何かが身体を裂いた。熱い。血が溢れる。ハルトは傘を振ろうとしたが、力が入らない。次の痛みは腿に来た。膝が崩れる。地面が近付く。石畳の冷たさが頬へ触れる。血の匂いと湿った土の臭いが混ざり合い、鼻の奥へ入り込んでくる。
「ねぇ」
リリィの声が近い。
「まだ止める?」
ハルトは歯を食いしばった。痛い。痛い。痛い。だが答えなければならない気がした。ここで黙れば、自分の中の何かが折れる気がした。
「……止める」
リリィは笑った。
「そっか」
その声は優しかった。優しくて、冷たくて、空っぽだった。
次の瞬間、首に熱が走った。視界が傾く。空と地面が入れ替わる。路地裏の壁が回転する。白い髪が揺れる。朝焼けが滲む。血の匂いが遠ざかる。リリィの笑顔が最後まで見えていた。自分を殺した少女の笑顔が、まるで綺麗な花でも見つけた子供のように無邪気で、それがどうしようもなく恐ろしかった。
暗くなる。
沈む。
落ちる。
深く。
深く。
どこまでも。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
目を開いた瞬間、ハルトはまた吐いた。胃液も出ない。喉だけが勝手に痙攣し、身体が死の記憶を吐き出そうとしている。石畳へ額を擦り付けるように倒れ込み、冷たい地面へ爪を立てる。助かったという感覚はない。戻ったという実感もない。ただ、また死んだという事実だけが身体の芯に残っていた。首を裂かれた感覚。脇腹を抉られた熱。腿の力が抜けて崩れ落ちた瞬間の無力感。リリィの笑顔。それらがまだ皮膚の裏側に貼り付いている。
涙が出ていた。恐怖なのか痛みなのか悔しさなのか分からない。自分でも分からないものが目から溢れている。歯が鳴る。息が整わない。肺が空気を拒んでいる。生きているのに、死の直後の身体がまだ終わっていない。
話し合いでは駄目だ。
説得では駄目だ。
理解しようとするだけでは駄目だ。
リリィには理由がない。いや、彼女にとっては理由がある。楽しいから。それが全てだ。そこに同情の余地を探しても無駄だ。悲しい過去を掘ろうとしても無駄だ。彼女は今、あの瞬間、あの笑顔で、人を殺すことを楽しんでいる。それ以上でも以下でもない。
ならどうする。
止める。
どうやって。
分からない。
能力が分からない。速さが分からない。殺し方が分からない。行動範囲が分からない。なぜ宿を襲ったのか分からない。なぜ自分を狙うのか分からない。分からないことだらけだ。だから殺された。分からないまま対話し、分からないまま近付き、分からないまま殺された。
なら。
知るしかない。
観察する。
調べる。
試す。
逃げる。
死ぬ。
戻る。
また試す。
その発想が頭に浮かんだ瞬間、ハルトは自分の中で何かが薄くひび割れる音を聞いた気がした。死を手段にする。そんなことを考えている。普通ならあり得ない。死は終わりだ。絶対に避けるべきものだ。だが今のハルトにとって、死は終わりではなくなっている。痛みはある。恐怖もある。吐き気もある。だが終わりではない。やり直せる。情報を持って戻れる。なら、使うのか。自分の死を。
嫌だった。
そんなことを考える自分が嫌だった。
だが、それ以上に。
リリィを放っておく方が嫌だった。
宿の受付の女性の顔が浮かぶ。血の海に倒れていた人々の姿が浮かぶ。何も知らずに眠り、何もできずに殺された人々。リリィはまた殺す。放っておけば殺す。楽しいから。甘いものを食べるように。遊ぶように。笑いながら。
ハルトは震える拳を握り締めた。爪が掌へ食い込む。痛みがある。生きている証拠だった。
「……リリィを攻略する」
掠れた声だった。誰に聞かせるでもない。自分自身に刻み込むための言葉だった。
夜明け前の路地裏に冷たい風が吹く。空はまだ薄暗く、王都は眠りから覚めきっていない。湿った石壁の匂い、血を思い出させる鉄の味、吐き気の残る喉、震える膝、その全てを抱えたまま、神代ハルトは初めて、目の前の死をただ恐れるのではなく、攻略すべき問題として見つめ始めた。




