第十話『リリィ・ローゼンフェルト』
目を開けた瞬間、ハルトは自分がまだ夜明け前の路地裏にいることを理解した。
冷えた石畳に膝をつき、吐き気で焼けた喉を押さえながら、湿った空気を肺の奥まで吸い込む。息を吸える。心臓が動いている。指先が震えている。身体はまだ生きている。けれど、そのどれもが安心には繋がらなかった。むしろ生きていること自体が、次に死ぬための猶予のように思えた。
リリィを攻略する。そう口にした瞬間の感触がまだ舌の上に残っていた。恐怖で乾いた唇、胃液の苦味、石壁に染み込んだ黴と古い雨の臭い、夜明け前の冷たさ。全てが前回と同じだった。だがハルトの中だけが変わっていた。リリィから逃げるのではない。リリィを知る。あの白い髪の少女が、どんな理屈で人を殺し、どんな条件で命を奪い、どこに隙があるのかを探る。死は終わりではなくなった。そう考えた瞬間、胸の奥に薄い嫌悪感が広がった。人間が踏み越えてはいけない境界線の上に、片足どころか膝まで沈み込んでいるような感覚だった。けれど、もう戻れない。戻らなければ死ぬ。死ねば戻る。ならば、この歪んだ仕組みの中で生き残るには、歪んだ方法で考えるしかなかった。
今回はリリィと直接話さない。ハルトはまずそう決めた。
前回、会話はできた。だが会話は勝利に繋がらなかった。彼女の倫理観が破綻していることは分かった。殺人に理由らしい理由がないことも分かった。なら次に必要なのは距離だった。近付けば殺される。目の前に立てば反応できない。
殺意のない攻撃は、攻撃として認識した瞬間にはもう遅い。
だからハルトは路地裏の奥に身を潜め、リリィが現れるはずの入口を、壁の影からじっと見つめた。指先は傘の柄を握ったまま固まっている。握り締めすぎて掌が痛い。遠くで鳥が鳴き、王都のどこかで荷車の車輪が軋む音がした。空はまだ青にも黒にもなりきれない曖昧な色をしていて、建物の隙間から入り込む風は冬の刃物のように頬を撫でた。
やがて、足音が聞こえた。軽い足音。子供が何か楽しいものを見つけて歩くような、無邪気で、無防備で、それなのに聞くだけで背筋が凍る足音だった。リリィは路地裏の入口で一度立ち止まり、きょろりと辺りを見回した。白い髪が薄暗い朝の空気に浮かび上がる。前回と同じ顔。同じ服。同じ瞳。だが、彼女はハルトを見つけなかった。あるいは見つけていないように見えた。リリィは退屈そうに小さく欠伸をして、路地裏を抜けていく。ハルトは息を殺した。足音が遠ざかる。胸の奥で心臓が暴れている。
行け。
追え。
そう自分に命じても、膝がすぐには動かなかった。
死んだ記憶は理屈よりも身体に強く残る。首を裂かれた感覚が、まだ皮膚の裏側に貼り付いている。少しでも白い髪が視界に入ると、全身が勝手に逃げろと叫び出す。それでもハルトは壁から身を離し、距離を取ってリリィを追った。
リリィは、普通だった。
少なくとも、遠目に見ている限りでは。市場の近くで焼きたてのパンを一つ買い、小さな手でそれを半分に割ると、道端で丸くなっていた痩せた犬へ少し分けた。犬は最初警戒していたが、やがて鼻を近付け、パンを食べた。
リリィはその様子を楽しそうに眺めていた。人を殺す時と同じ笑顔ではなかった。いや、違うと言い切れるのかハルトには分からなかった。同じ顔のはずなのに、周囲の空気だけが違って見える。殺意がない。血の臭いがない。通行人も、商人も、子供も、誰も彼女を恐れていない。リリィは小さな花売りの少女と何かを話し、老人が落とした布袋を拾い、屋台の男に笑いかけた。
異常者が普通のふりをしているのではないように見えた。普通の少女の中に、異常だけが何の境界もなく混ざっているようだった。それがハルトには何より気味悪かった。毒だけを見分けられない透明な水を飲まされるような恐怖があった。
昼を過ぎても何も起きなかった。リリィは誰も殺さなかった。少なくとも、ハルトの目の届く範囲では。彼女は広場を抜け、教会の前で子供たちに手を振り、また市場へ戻り、夕方近くになると人混みの中へ紛れていった。ハルトは疲弊していた。尾行に慣れていない。腹も減っている。何より、死ぬかもしれない相手を一日中見続けるという行為は、身体の芯を細く削っていくようだった。
視線を外した瞬間に何かが起きるかもしれない。
まばたきの間に誰かが死ぬかもしれない。
自分もまた、気付かないうちに終わっているかもしれない。
その緊張が、首の後ろから背骨にかけて硬い棒を差し込まれたような痛みになっていた。
そして日が傾きかけた頃、ハルトは死んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
最初は胸の違和感だった。軽い圧迫感。走った後の息苦しさに似ていた。だが次の瞬間、それは内側から心臓を鷲掴みにされるような激痛へ変わった。息ができない。肺は動いているのに、空気が意味を持たない。喉が塞がったわけではない。傷を負ったわけでもない。誰かに刺されたわけでもない。なのに身体の中心が急速に冷えていく。ハルトは壁に手をついた。指先が滑る。汗が噴き出す。耳鳴りがする。足元の石畳が遠ざかる。通行人の声が水の中の音みたいに歪む。誰かがこちらを見た気がした。だが助けを求める声は出なかった。胸が潰れる。心臓が、心臓であることをやめる。視界の端が暗くなり、リリィの白い髪も、王都の雑踏も、夕方の熱を含んだ空気も、全てが薄い紙の向こう側へ遠ざかっていった。
最後に思ったのは、なぜ、だった。
なぜ死ぬ。
何をされた。
分からない。分からないまま、ハルトはまた暗闇に落ちた。
目を開けた瞬間、ハルトは自分の胸を押さえた。心臓は動いていた。激しく、乱暴に、まるで死の直前の記憶を振り払おうとするように脈打っていた。夜明け前。戻った。石畳。冷気。吐き気。今度は吐く前に喉を押さえたが、身体は言うことを聞かなかった。胃液がせり上がり、ハルトは路地裏の隅へ崩れるように膝をついた。涙と唾液で顔が濡れる。だが今度は、恐怖より先に怒りが来た。リリィに会っていない。話していない。触れてもいない。それなのに死んだ。心臓が止まったのか、何かの病なのか、呪いなのか、魔術なのか、何一つ分からない。分からないということが、これほど暴力的だとは思わなかった。刃物で斬られる方がまだましだった。相手がいて、攻撃があり、防ぐべき方向がある。だが今の死には輪郭がなかった。影も、音も、前触れもない。自分の身体そのものが突然裏切ったような死だった。
その時、ハルトはエルドの顔を思い浮かべた。
魔術のことなら、あいつに聞くしかない。
書庫ではない。
あの時間帯なら、レオンとエルドは屋台にいる。
初めて一緒に飯を食べたあの場所。
ハルトはよろめきながら立ち上がり、王都の大通りへ向かった。夜明け前から時間は流れ、街が目を覚まし、人の声と匂いが増えていく。焼かれた肉の脂が炭火に落ちる匂い、甘い果物を並べる店の香り、馬の汗、土埃、乾いた布の匂い。生きている人間の雑多な熱が街を満たしていた。その中を歩きながら、ハルトは自分だけが別の時間から持ち込まれた死体のように感じていた。
屋台の前には、記憶通りレオンがいた。大きな身体で木の椅子に腰掛け、串焼きを豪快に齧っている。
その向かいでエルドが湯気の立つスープを静かに飲んでいた。二人の周囲だけ、妙に平和だった。レオンが笑い、エルドが呆れ、屋台の親父が肉を焼く。
その光景があまりにも普通で、ハルトは一瞬だけ足を止めた。自分は何度も死んでいるのに、この世界は何も知らない顔で回っている。その残酷な平常運転が、今は少しだけ羨ましかった。
「お、ハルトじゃねぇか。こっち来いよ」
レオンが片手を上げる。
「顔色が悪いね」
エルドはハルトを見るなり、すぐにそう言った。観察眼が鋭い。
ハルトは適当に笑おうとしたが、頬が引きつっただけだった。
「少し聞きたいことがある」
「飯を食いながらでいいだろ。難しい話も肉を挟めば少しはマシになる」
レオンが串を一本差し出してきた。ハルトは受け取ったが、口をつける気にはなれなかった。焼けた肉の香りは濃く、普段なら腹が鳴るはずなのに、今は脂の匂いだけで胃が裏返りそうになる。エルドはスプーンを置き、静かにハルトを見た。
「何を聞きたいの?」
ハルトは周囲を見回した。人通りは多い。屋台の喧騒がある。誰かに聞かれて困る話なのかも分からない。だが、今は聞くしかなかった。
「この世界には、魔法や魔術以外に、直接手を下さずに人を攻撃する方法はあるか?」
レオンの表情が僅かに変わった。串焼きを持つ手が止まる。
「直接手を下さずにって、遠隔とか間接的にってことか?」
「ああ。傷をつけられたわけでもない。刺されたわけでもない。けど、突然死ぬような方法だ」
エルドは少しだけ目を細めた。からかうでもなく、驚くでもなく、情報を整理する時の顔だった。
「うーん、どんな風に死ぬのかにもよるけど、大体は能力かな」
「能力?」
ハルトはその言葉を反芻した。舌の上で硬い石のように転がる言葉だった。
「能力っていうのは、生まれつき精神そのものに魔術が組み込まれている状態で、なおかつその魔術を意図的に使用することができる状態の二次魔術の名称なんだ」
「二次魔術……」
「一次魔術が知識や技術によって構築する魔術だとしたら、二次魔術は既に形を持った魔術現象に近い。君の傘も、能力ではないけれど二次魔術にあたるね。あれは君の精神に組み込まれているわけじゃない。器物に宿った二次魔術なんだ」
レオンが面倒そうに肩を回した。
「始まったな、エルドの講義」
「必要な説明だよ」
「いや、分かってるけどさ。飯時に聞くには重いんだよな」
エルドは不満そうに眉を寄せたが、すぐにハルトへ視線を戻した。
「能力者は珍しい。けれど存在する。そして能力の性質によっては、直接手を下さずに人を殺すこともある。例えば、眠らせる能力、毒を発生させる能力、影を操る能力、条件を満たした相手にだけ作用する能力。種類は多いし、理論化も難しい」
「対策は?」
「能力次第だね」
即答だった。その冷静さが逆に恐ろしかった。万能の答えなどない。つまり、相手の能力が分からなければ死ぬしかないということだ。
「でも僕は能力者のことはあまり好きじゃないんだよね」
エルドは淡々と言った。
「ーーなんでだ?」
レオンが笑う。
「努力をしてないからだよ」
その言葉は、冗談にしては真っ直ぐだった。エルドの目は笑っていない。怒りでも嫉妬でもない。もっと根の深い、価値観の芯に触れるような響きがあった。
「魔術師は学ぶ。騎士は鍛える。職人は作り続ける。学者は考え続ける。
けれど能力者は、生まれた時から精神に魔術を持っている。もちろん制御や応用には訓練が必要な場合もあるけど、根本は与えられたものだ。僕はね、与えられた完成品より、自分で積み上げた未完成品の方が好きなんだ」
「お前らしいな」
レオンは笑ったが、ハルトは笑えなかった。
リリィの顔が浮かぶ。あの無邪気な目。殺人を甘いもののように語った声。もしあれが能力なら。もし人を殺すことに特化した二次魔術が、あの少女の精神そのものに組み込まれているなら。ハルトは串焼きを握る指に力を入れた。肉の脂が冷めて、指先にぬるく付着する。生臭いような、焦げたような匂いが鼻の奥に残った。
「能力者は、自分の能力を隠すものなのか?」
「普通は隠すよ。知られれば対策されるからね。ただ、隠さない者もいる。能力が強すぎる者、自信家、あるいは……そもそも勝負という認識がない者」
最後の言葉が、ハルトの胸に刺さった。リリィは隠すだろうか。いや、もしかしたら隠さない。あいつは自分が負けると思っていない。人を殺すことを遊びの延長のように考えている。
なら、聞けば答えるかもしれない。
答えた上で殺すかもしれない。
その瞬間だった。
人混みの中で、白い髪が揺れた。
ハルトの呼吸が止まった。
ほんの数歩先、屋台の列の向こう側を、リリィが歩いていた。
市場で買ったらしい小さな菓子袋を片手に持ち、楽しそうに通りを眺めている。距離は近い。あまりにも近い。
ハルトは反射的に椅子から立ち上がりかけたが、隣を通った客に肩を掠められ、体勢を崩した。その一瞬、柔らかい何かがハルトの腕に触れた気がした。
布。指先。風。
何だったのか分からない。振り返った時、リリィはもう人混みの中へ消えかけていた。
「どうした?」
レオンが怪訝そうに聞く。ハルトは答えられなかった。心臓の音がうるさい。今のは偶然か。触れたのか。触れられたのか。分からない。分からないが、身体が寒かった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その後、ハルトは二人と別れ、リリィを探した。今度は逃げない。聞く。能力の名前を。条件を。死因を。夕方、路地裏で彼女を見つけた時、リリィはまるで待っていたかのように振り返った。
「また会ったね」
「聞きたいことがある」
「うん。いいよ」
あまりにも簡単な返事だった。リリィは壁際の木箱に腰掛け、足をぶらぶら揺らす。薄暗い路地裏に、白い髪だけが浮いて見えた。ハルトは距離を取った。前回よりも遠く。近付きすぎない。絶対に触れさせない。
「お前の能力は何だ」
リリィは目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「知りたいの?」
「ああ」
『赤ずきん』
「赤ずきん……?」
「うん。私の能力の名称」
リリィは両手を膝の上に置き、歌でも教えるような声で言った。
「触ったものは死んじゃうの」
ハルトの喉が鳴った。
「人間がか」
「人間も、物も」
「死ぬって、物に死があるのか」
「あるよ。壊れるとか、消えるとか、使えなくなるとか、そういうの。物にとっての死は消滅に近いんだって」
「誰に聞いた」
「忘れちゃった、自分で試して知ったのかもしれないね」
リリィは本当にどうでもよさそうだった。
「ただ殺すだけじゃないよ。死因も決められるの。事故死、落下死、孤独死、脳死、心筋梗塞、ショック死、窒息死、焼死、溺死。他にもいろいろ」
「孤独死って何だよ」
「私もよく分からない。でもやろうと思えばできるよ」
リリィはくすくす笑った。その笑いに寒気がした。彼女は自分の能力を、言葉の意味すら理解しきらずに使っている。包丁の刃を持った幼児より危うい。だが幼児ならまだ無知で済む。リリィは違う。彼女は人が苦しむことを知っていて、それを好んでいる。
リリィは足元の小石を拾った。
「例えば、これ」
白い指が小石を撫でる。
「落下死」
数秒間、何も起きなかった。
ハルトは息を止める。
風が吹く。
遠くで誰かが笑う。
次の瞬間、頭上の古い看板を支えていた金具が甲高い音を立てて折れた。
看板が落ちる。
重い木と鉄の塊が真っ直ぐ小石の上へ落下し、石畳に叩きつけられた。小石は粉々になった。破片が飛び、ハルトの頬を掠める。細い痛みが走り、血が一筋流れた。
「ね?」
リリィは笑った。
「死んじゃったでしょ」
ハルトは言葉を失った。落下死。
小石が落ちたわけではない。看板が落ちてきた。
つまり、能力は対象を殺すために周囲の事象をねじ曲げる。死因を成立させるために、世界の側が辻褄を合わせる。これは単なる攻撃ではない。結果を先に決め、その結果に向かって現象を強制する力だ。
「時間差は」
「その時によるよ。すぐの時もあるし、少しあともある」
「距離は」
「分かんない」
「解除は」
「しない」
「できないのか」
「したことない」
リリィは首を傾げた。解除という発想自体が薄いのだ。殺すと決めたものは殺す。それだけ。そこに迷いも撤回もない。
「そういえば」
リリィが急に明るい声を出した。
「ハルトも死ぬよ」
空気が止まった。ハルトの身体から温度が抜ける。
「……いつ俺に触った」
「秘密」
「答えろ」
「やだ」
「死因は」
リリィは楽しそうに口元へ指を当てた。
「ーー確か...ショック死」
その言葉が、冷たい針のように耳へ入った。ショック死。何が起きる。痛みか。恐怖か。出血か。心臓か。分からない。だが死因は確定している。自分の未来に、もう死が置かれている。
「いつ死ぬ」
「多分もうすぐ」
リリィは木箱から飛び降りた。
「じゃあね、ハルト。次はもっと面白い死に方にしてあげる」
「待て!」
ハルトが叫んだ時には、リリィは路地裏の角を曲がっていた。
追うべきか。逃げるべきか。エルドの所へ戻るべきか。
考えがまとまらない。心臓が速い。喉が乾く。掌に汗が滲む。ショック死。ショック死とは何だ。何が自分を殺す。何を避ければいい。ハルトは必死に周囲を見た。石壁。木箱。看板。地面。空気。全てが敵に見えた。世界そのものが、リリィの命令を待つ処刑装置に変わってしまったようだった。
そして、何も起きないまま時間だけが過ぎた。何も起きないことが、逆に恐怖を膨らませた。
ハルトは人の多い大通りへ出た。
騎士の詰所の近くにも行った。
安全そうな場所を選んだつもりだった。
だが夜が近付いた頃、突然、身体が震え始めた。寒いわけではない。恐怖だけでもない。血圧が崩れるような、内臓が一斉に力を失うような感覚だった。視界が白くなる。耳が遠い。手足から血が引く。膝が折れる。倒れ込む寸前、ハルトは理解した。これがショック死か。痛みよりも先に、身体の全てが生きることを放棄していく。呼吸が浅くなる。心臓が空回りする。周囲の声が遠ざかる。誰かが駆け寄る気配がしたが、もう遅かった。リリィの笑顔が脳裏に浮かぶ。次はもっと面白い死に方にしてあげる。その声を最後に、ハルトは死んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そこから先は、死の反復だった。
最初の数回はまだ数えられた。
心筋梗塞。胸を内側から握り潰されるように死んだ。
脳死。考えていた言葉が途中で途切れ、世界の意味が突然剥がれ落ちた。
事故死。避けたはずの馬車が、あり得ない角度で横転し、砕けた車輪が胸を貫いた。
感電死。雨も降っていないのに、街灯に仕込まれた魔導線が破裂し、青白い光が骨の内側まで焼いた。
窒息死。空気があるのに吸えなくなり、喉も肺も無事なまま、見えない水に沈められるように死んだ。
失血死。頭上から飛んできた鉄片が腕を裂き、押さえても押さえても温かい血が指の間から逃げていった。ショック死。何もない場所で、身体だけが死を受け入れて崩れた。
おそらく七回目のタイムリープの後、ハルトは石畳に額を押し付けたまましばらく動けなかった。
胃の中には何もない。吐くものもない。
ただ身体が吐くという動作だけを繰り返し、喉の奥が裂けるように痛んだ。
涙が勝手に出る。
鼻水と唾液と汗で顔がぐしゃぐしゃになっているのが分かる。
それでも拭う気力がなかった。
死に慣れることなどない。
死ぬたびに身体は初めて死んだように恐怖する。だが精神だけは、その記憶を積み上げていく。
胸を潰された記憶。脳が消えた記憶。骨が砕けた音。電気の焼ける臭い。窒息の暗さ。血の温度。
全てがハルトの中に残っていた。死は終わらない。終わらないからこそ、残酷だった。
「いつだ……」
掠れた声が漏れた。
「どこで触れられた……」
ハルトは記憶を掘り返した。
リリィとの会話。路地裏。市場。尾行。屋台。レオン。エルド。白い髪。人混み。
腕に触れた柔らかい感触。あの時だと思った。屋台で、リリィが近くを通った時。
だが、それが最初か。
もっと前か。
全てのループで共通している場面はどこだ。宿ではない。路地裏でもない。リリィと会う前でも、自分は死んだ。なら、接触はもっと早い。ハルトは記憶の中の時間を逆に辿った。エルドとレオン。屋台。肉の匂い。スープの湯気。レオンの笑い声。エルドの能力論。人混み。白い髪。肩か、腕か、服の裾か。ほんの一瞬、何かが触れた。
あれだ。
「最初から……」
ハルトは乾いた笑いを漏らした。
能力を聞き出した時には、もう負けていた。質問をしている間も、距離を取っているつもりの間も、死因は既に自分の身体へ刻まれていた。
リリィはただ結果を待っていただけだ。ハルトが逃げようと、騎士の近くにいようと、人混みに紛れようと関係ない。触れられた時点で、死は予約される。時間差で、死因だけを変えて、世界が殺しに来る。
なら、その前に戻るしかない。屋台の一時間前。リリィに触れられる前。ハルトは傘を握った。黒い布地が指に冷たく沈む。
時間を選ぶ感覚は、まだ気持ち悪かった。自分の死を鍵にして、世界の針を逆に回す。何度やっても慣れない。だがもう迷っている時間はない。
ハルトは目を閉じ、屋台へ向かう前の時間を強く思い浮かべた。腹の底が抜けるような感覚。耳鳴り。視界の崩壊。死の記憶がまた遠ざかる。
次に目を開けた時、空はまだ昼に届く前の淡い光を含んでいた。
ハルトは生きていた。
胸も痛くない。
頭も消えていない。
手足も動く。
屋台へは行かない。
レオンとエルドには会わない。
能力の話も聞けない。だが触れられなければ死なない。
少なくとも、直接的な赤ずきんは発動しない。ハルトは大通りとは逆方向へ歩いた。人混みを避け、路地を選び、白い髪を見ないようにした。リリィに会わない。リリィに触れられない。それだけに全神経を注いだ。何度も背後を振り返り、曲がり角では立ち止まり、通行人とすれ違う時は壁際に身体を寄せた。傍から見れば不審者だっただろう。だが構わなかった。生き残るためなら、笑われてもいい。怯えていると思われてもいい。
死ぬよりマシだ。
夕方になっても死ななかった。胸は痛まない。視界も暗くならない。呼吸もできる。ハルトは路地裏の壁に背を預け、ゆっくり息を吐いた。勝った、とは思わなかった。思いたくなかった。そう思った瞬間に崩される気がしたからだ。それでも、初めて一つ条件を潰した実感があった。赤ずきんは接触が条件。触れられなければ発動しない。ならば攻略できる。距離を取る。接触を避ける。物理的に隔離する。そう考えた時、路地裏の奥から、小さな笑い声が聞こえた。
「すごいね」
血が凍った。
ハルトは振り返る。路地の入口に、リリィが立っていた。白い髪。無邪気な笑顔。夕方の光を背負った小さな影。距離はある。触れられていない。絶対に触れていない。ハルトは傘を構えた。
「初めてだよ、狙った相手を触れなかったのは」
リリィは感心したように言った。
「お前……」
「でもーーー」
リリィは足元の石壁に指を滑らせた。
「誰が人しか触らないって言ったっけ?」
その瞬間、世界が軋んだ。
最初に音がした。石の奥で何かが割れる低い音。次に、壁が膨らんだ。あり得ない。石壁が生き物の腹のように内側から押し出され、亀裂が走る。ハルトが飛び退くより早く、壁が爆ぜた。石片が散弾のように飛び、頬、肩、腕を裂く。熱い痛みが走る。土埃が肺に入り、咳が出る。耳が聞こえない。爆発ではない。崩壊だ。壁が死んだ。死因は何だ。破裂死か、崩落死か、あるいはリリィにしか分からない名前の死か。分からない。
だが物質が死ぬ過程で、現象が起きている。
「物質にとっての死は消滅なんだよ」
リリィの声が、粉塵の向こうから聞こえる。
「それで、死因を決めるとね、その死に方をするために、ちゃんと何かが起きるの。
世界が辻褄を合わせるように。」
足元の石畳が震えた。ハルトは走ろうとした。だが次の瞬間、地面の一部が陥没した。石が砕け、下の空洞が露出し、足を取られる。転倒する。掌を擦り剥く。血の匂いと石粉の臭いが混ざり、喉が詰まる。さらに頭上で金属音。古い鉄製の雨樋が捻じれ、蛇のように外れ、ハルトの背中へ落ちてきた。傘で受ける。腕に衝撃が走り、骨が軋む。痛い。だが死んでいない。まだ動ける。ハルトは歯を食いしばって立ち上がった。
「空気中の水素って、見えないけどすごく爆発性が高いんだって」
リリィが笑う。
「だから私が触れると、面白い事になるんだよ」
嫌な予感がした。
空気が乾く。
鼻の奥に金属のような匂いが刺さる。
次の瞬間、路地の奥で火花が散った。どこから火が出たのか分からない。壊れた魔導灯か、摩擦か、世界が辻褄を合わせたのか。火花は一瞬だった。だがその一瞬で空気が爆ぜた。轟音。熱。圧力。ハルトの身体が壁へ叩きつけられる。肺から空気が抜け、視界が白く弾ける。皮膚が焼ける臭いがした。自分の臭いだと気付くまで、少し時間がかかった。
石片が降る。木片が落ちる。建物の一部が傾いている。リリィはその中で、まるで雨上がりの水たまりを眺める子供のように立っていた。彼女の周囲だけが不気味に静かだった。ハルトは瓦礫の間で血を吐いた。肋骨が折れている。呼吸のたびに胸の内側で何かが擦れる。足に力が入らない。傘は手元にある。だが握る力が弱い。まだ死因は刻まれていない。直接触れられていない。だから死そのものは確定していないはずだ。だが周囲の物質を殺されれば同じだった。壁も、地面も、空気も、水も、鉄も、全てがリリィの手に触れた瞬間、ハルトを殺すための道具になる。
「ねえ、ハルト」
リリィが近付いてくる。瓦礫を踏む音が軽い。
「君は私を知っているの?」
ハルトの背筋に、痛みとは別の冷たさが走った。
「……どういうことだ」
「私に対する目が、何か違うんだよ」
リリィは笑う。
「面白いね」
ハルトは答えなかった。答えれば何かが壊れる気がした。リリィがループを理解しているのか、それともただ反応の違いを嗅ぎ取っているのか分からない。分からないことが多すぎる。
『赤ずきん』の正体も、範囲も、限界も、解除方法も、リリィの観察能力も。
分かったと思った瞬間に、分からないものがさらに広がる。攻略できたと思った足場の下に、もっと深い穴が開く。
頭上で建物が軋んだ。爆発と崩壊で支えを失った壁が、ゆっくりと傾いている。巨大な影がハルトの上へ落ちる。逃げられない。足が動かない。肋骨が肺を刺すように痛む。リリィは少し離れた場所でそれを見ていた。笑っている。無邪気に。楽しそうに。人が死ぬのを待つ顔で。
ハルトは血の混じった息を吐いた。悔しさで視界が滲む。怖い。痛い。もう死にたくない。だが、今度の恐怖は前とは違っていた。何も分からないまま殺される恐怖ではない。少しだけ分かったからこそ、絶望の輪郭が見えてしまう恐怖だった。リリィは人を殺す少女ではない。死因を与える少女だ。触れたものに死を置き、その死を成立させるために世界を従わせる。人間だけではない。物も、空気も、街そのものも、彼女にとっては赤い頭巾を被せられる獲物でしかない。
「……まだだ」
ハルトは掠れた声で呟いた。
建物が崩れ始める。石と木と鉄の塊が、夕方の空を隠して落ちてくる。
「まだ何も、お前の正体を掴めてない……」
その言葉は敗北の確認だった。だが同時に、次へ持ち帰るための記録でもあった。
接触条件。
時間差。
死因。
物質。
水素を利用した爆発。
世界の辻褄合わせ。
リリィの観察眼。
全部持って戻る。死んでも持って戻る。そうしなければ、これまでの死がただの痛みで終わる。
瓦礫が視界を埋めた。
最後に見えたのは、粉塵の向こうで小さく手を振るリリィの白い指だった。
「おやすみ、ハルト」
そして世界は、重く、暗く、音を立てて潰れた。




