第十一話『観測者』
目を開いた瞬間、ハルトは石畳へ倒れ込むように手をついた。
冷たい。
夜明け前の路地裏の石は、まるで世界の底に沈んだ骨のように冷え切っていて、掌から肘へ、肘から肩へ、その冷たさがじわじわと這い上がってくる。
肺が勝手に空気を吸おうとして震え、喉の奥が痙攣し、胃の中に何も残っていないはずなのに、身体だけが吐くという行為を繰り返した。
酸っぱい胃液が舌を焼く。
鼻の奥が痛い。
目尻から涙が滲み、視界がぼやける。生きている。
戻ってきた。
瓦礫に押し潰されたはずの胸も、爆風で焼けたはずの皮膚も、折れたはずの肋骨も、今は何一つ壊れていない。なのに痛みだけが残っていた。頭の中に、粉塵の匂いが残っている。耳の奥に、石壁が崩れる低い音がまだ響いている。肺の奥には、吸い込んだはずの灰と土埃がまだこびり付いているような違和感がある。
死は消える。肉体は戻る。だが記憶は戻らない。むしろ死ぬたびに濃くなる。命が途切れた瞬間の暗闇だけが、黒い染みのように脳の奥へ積み重なっていく。
ハルトはしばらくその場から動けなかった。
夜明け前の王都は静かだった。
遠くの空が薄く白み始め、建物の隙間から細い風が入り込み、石壁に染み付いた黴と古い雨の臭いを運んでくる。
どこかで鳥が鳴いた。あまりにも普通の朝だった。
その普通さがひどく残酷に感じた。自分はまた死んだ。何度目か分からないほど死んだ
。爆発し、焼かれ、潰され、血を吐き、意識を失った。だというのに、王都は何も知らずに朝を迎える。
昨日と同じように屋台が開き、パンが焼かれ、子供が走り、商人が声を張り上げる。世界はハルトの死に何の関心もない。死ぬのは自分だけで、戻るのも自分だけで、覚えているのも自分だけだ。その孤独は、リリィに殺される痛みとは別の場所を静かに削っていった。
ハルトは震える手で口元を拭った。
指先に唾液と胃液がつき、冷たい空気に触れてぬるりと乾いていく。その感触をぼんやりと見つめながら、彼の頭はもう次のことを考え始めていた。
壁。石畳。空気。水素。鉄。木材。赤ずきん。
リリィは人を殺すだけではない。
物にも死を与える。
物にとっての死は消滅であり、その死因を成立させるために世界が事象を起こす。
看板は落下し、壁は崩れ、空気は爆ぜる。ならば、死因にはどれだけの自由度があるのか。時間差はどこまで操れるのか。距離は関係するのか。触れるとは何を意味するのか。肌か。服か。持ち物か。座っている椅子か。
自分が触れているものまで対象になるのか。考えれば考えるほど、胃の奥が冷えていく。だが同時に、思考が妙に澄んでいくのも分かった。恐怖で頭が真っ白になるのではなく、恐怖の輪郭を測ろうとしている。死から逃げるためではない。死を使って、死の形を知ろうとしている。
「……まずいな」
掠れた声が路地裏に落ちた。自分でも驚くほど冷たい声だった。震えてはいる。だが泣き声ではない。助けを求める声でもない。ただ、何かの異常を観測した人間の声だった。
「死に慣れてきてる」
それを口にした瞬間、胸の奥に嫌悪感が湧いた。
リリィよりも恐ろしいものが自分の中に育っている。
最初の死では、ただ恐怖しかなかった。
次の死では混乱した。さらに次の死では怒った。
だが今は違う。
死んだ直後に吐きながら、次の検証手順を考えている。
普通の人間であれば、死を二度経験しただけで壊れるだろう。
三度で立ち上がれなくなるだろう。
十度で自分が誰なのか分からなくなるかもしれない。
だが自分はまだ考えている。
考えられてしまう。
ならばそれは強さなのか。
それとも壊れ始めた証拠なのか。
ハルトにはもう区別がつかなかった。
昼過ぎ、王都の市場は人の熱で膨らんでいた。
焼きたてのパンの香り、炭火で炙られた肉の脂の匂い、果物の甘さ、馬の汗、革袋に染みた酒、濡れた木箱の黴臭さ、子供の笑い声、商人の怒鳴り声、金属の器がぶつかる音。
生きている人間の匂いがあまりにも濃く、ハルトはその中に立っているだけで吐き気を覚えた。
彼らは死を知らない。
少なくとも今日、自分が何度も殺される予定で市場へ来ていることなど知らない。
知らないから笑える。
知らないから値切れる。
知らないから昼飯の匂いに腹を鳴らせる。
その無知が羨ましく、同時に遠かった。
ハルトは人混みの向こうに白い髪を見つけた。リリィ・ローゼンフェルト。
彼女は小さな菓子袋を片手に、花売りの少女と何かを話していた。白い髪は陽光を受けて淡く光り、細い肩は柔らかな布に包まれ、笑う口元は年相応の少女そのものだった。
もしハルトが何も知らなければ、ただ可愛らしい少女だと思ったかもしれない。だが彼は知っている。その指が触れたものは死ぬ。その笑顔の裏に理由はない。人を殺すことが楽しい。痛がる顔が好き。助けを求める声が好き。ただそれだけで、リリィは人間を壊す。
「ハルト」
リリィはすぐにこちらへ気付いた。
まるで最初から来ることが分かっていたみたいに、何の驚きもなく手を振る。
その無邪気な仕草を見ただけで、ハルトの首筋が粟立った。
路地裏で首を裂かれた感覚が蘇る。実際には何も起きていない。
喉は無事だ。
血も出ていない。
だが脳が痛みを思い出す。
皮膚が勝手に死を再現しようとする。
身体が逃げろと叫ぶ。
けれどハルトは近付いた。
足の裏に石畳の硬さを感じる。
一歩ごとに心臓が重くなる。
恐怖は消えていない。消えていないのに、前へ進める。そのことがまた怖かった。
「実験をしたい」
ハルトの声は思ったより静かだった。
「実験?」
リリィは小首を傾げた。
「お前の能力を調べる」
「『赤ずきん』?」
「ああ」
リリィは一瞬だけきょとんとした後、嬉しそうに笑った。
「いいよ。初対面なはずなのに...ハルトって変だね」
「変でいい」
「普通は、能力のことを知ってても追求はしたがらないよ」
「俺だって別に好きでやってるんじゃない」
「でもやるんでしょ?」
その言葉は軽かった。
今日は晴れてるね、と同じ響きだった。ハルトは答えなかった。答えれば、自分でも認めてしまう気がした。
自分が今から"死ぬことを前提"にリリィの前へ立っているという事実を。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
最初に確かめたのは時間差だった。
リリィに死因だけを教えさせる。
落下死。
単純な死因だと思った。
高いところに近付かなければいい。
塔に登らなければいい。
崖へ行かなければいい。
落ちる場所を避ければいい。
そう考えた自分の浅さを、ハルトはその夜に思い知った。
彼は宿の二階にいた。
窓は閉めた。
階段にも近付かない。
ベッドではなく床に座る。
天井、壁、床、窓枠、机、椅子、全てを何度も確認した。
部屋の中に危険な高さはない。
ここで落下死が起こるなら、何かが崩れるしかない。
そう思っていた。
だが一時間経っても何も起きなかった。
二時間経っても何も起きなかった。
最初は安堵した。次に苛立った。
そして三時間が過ぎる頃には、何も起きないことそのものが恐怖になっていた。
待つという行為は、こんなにも人を削るのかと思った。時計の針が動くたびに、耳の奥で小さな音が鳴る。廊下で誰かの足音がするだけで心臓が跳ねる。天井の木材が軋むだけで息が止まる。眠気が来る。だが眠れない。目を閉じた瞬間に落ちるかもしれない。まばたきの間に床が消えるかもしれない。恐怖が身体の内側で膨らみ、皮膚の下を冷たい虫が這い回るような感覚が続いた。
夜明け前、床が抜けた。
前触れはなかった。
ただ、足元の世界が突然なくなった。
木材が裂ける乾いた音がして、身体が沈む。
浮いたのではなく、地面に裏切られた感覚だった。
視界が回転する。
天井が遠ざかり、床板の破片が頬を掠め、宿の壁の中に溜まっていた古い埃が鼻に入る。
落下は一瞬だった。
だがその一瞬の中で、ハルトは思った。高い場所へ行かなくても、世界が落下を作る。
死因が先にあるなら、場所は後から用意される。次の瞬間、首に鈍い衝撃が走り、音が消えた。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
戻ったハルトは嗚咽しながら、脳に記録を刻んだ。
落下死。
一回目。
発動まで約三時間。
床崩落。
高さは二階相当。
首の損傷。次に同じ死因を試した。
今度は橋だった。リリィに触れられ、落下死を指定され、十分後に橋の古い石組みが崩れた。
下には浅い川しかなかった。
だが落ちた先の岩に後頭部を打ち、視界が赤く弾けた。
三度目は五秒だった。
リリィが笑って「落下死」と言い、ハルトが身構えた直後、頭上の看板が金具ごと外れた。避ける暇はあったはずなのに、足元の小石に躓いた。看板が頭蓋を砕いた瞬間、鉄と木と血の匂いが一つに混ざった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
死んで戻ったハルトは、しばらく笑っていた。
笑いたくて笑ったのではない。口元の筋肉が勝手に引きつっていただけだった。
時間差に法則はない。
いや、ランダムではない。
ランダムならここまで綺麗に異なるはずがない。
リリィが設定している。
あるいはリリィが「それくらい」と思えば、世界がその程度に合わせてくる。
時間そのものがリリィの遊び道具にされている。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
次に距離を試した。リリィに触れられた後、王都の端まで逃げた。
死んだ。
次は王都の外へ出た。
死んだ。
馬を使い、半日かけて離れた。
死んだ。
さらに遠く、森の奥へ入った。
死んだ。
どこまで逃げても赤ずきんは届いた。
距離という概念が意味を持たない。
逃走は対策ではない。視界から消えることも、王都の壁を越えることも、山を挟むことも、何の防御にもならない。
死因が刻まれた時点で、ハルトの未来のどこかに死が置かれる。そして世界は、距離を無視してその死へ向かって形を変える。
王都の外で死んだ時、ハルトは森の中にいた。鳥の声がして、湿った土と落ち葉の匂いが濃かった。誰もいない場所だった。
そこで突然、背後の木が倒れた。風もない。腐っていた様子もない。
ただ倒れた。逃げようとした足が泥に沈み、幹が背骨を砕いた。死ぬ直前、ハルトは土の匂いを強く感じた。都会の石畳ではなく、森の腐葉土の匂い。
その匂いまで記憶しなければならない運命が嫌だった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
最後に確かめたのは「触れる」という条件だった。
ハルトは最初、肌に触れられなければいいと思っていた。
次に服も危ないと考えた。
さらに持ち物も危ないと気付いた。
だが、リリィの答えはそれよりずっと曖昧で、ずっと残酷だった。
「触れるって、具体的には?」
市場の外れ、人気の少ない石壁の前でハルトが聞くと、リリィは本当に分からないという顔をした。
「具体的?」
「肌か。服か。持ち物か。例えば俺が座っている椅子に触れた場合、それは俺に触れたことになるのか」
リリィは小さく唇に指を当て、少し考えた。その仕草だけなら、難しい宿題を考える子供のようだった。
「私がハルトだと思えば、なるよ」
「……どういう意味だ」
「その椅子に座ってるハルトを殺したいって思えば、椅子でもいい。服でもいい。剣でもいい。ハルトが持ってるものなら、ハルトっぽいでしょ?」
「っぽい、で決まるものなのか」
「そうだよ」
リリィは笑った。
「だって私の『赤ずきん』だもん」
その言葉で、ハルトは悟った。
赤ずきんの対象判定は世界側にない。
物理法則ではない。距離でもない。接触面でもない。リリィの認識だ。
リリィが対象だと解釈したものが対象になる。
服に触れても、服を着たハルトだと解釈すればハルトへ死が届く。
椅子に触れても、椅子に座ったハルトという状態を対象にできる。
剣、ベッド、扉、地面、空気。リリィがそう思えば、世界はそれを受け入れる。
あまりにも主観的で、あまりにも理不尽だった。
ルールがないのではない。ルールの中心にリリィがいる。それが一番厄介だった。
実験は続いた。
リリィがハルトの上着の裾を摘む。
数時間後、宿の暖炉から飛んだ火が不自然に布へ燃え移り、脱ごうとした瞬間、絡まった留め具が外れず、炎が皮膚を舐めた。
焼ける。
布が皮膚に張り付き、
焦げた匂いが鼻の奥を刺す。
喉から出た叫びが自分のものとは思えないほど高かった。
戻る。
記録する。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
次に椅子。リリィが椅子の背を撫でる。
ハルトがそれに座る。
数十分後、椅子の脚が同時に折れ、後頭部を机の角へ打ち付けた。
短い死だった。
だが短い死ほど、直前の無力感が濃い。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
次にベッド。
夜中、支柱が折れ、天蓋の木材が喉へ落ちた。
息ができない。
喉が潰れる。
手で押し退けようとしても力が入らず、血の泡が口元から溢れた。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
次に剣。
腰に下げた剣へリリィが触れる。
しばらく何も起きない。
安心した瞬間、刃が鞘の中で砕け、破片が横腹に突き刺さった。死因は失血死だった。ゆっくりだった。温かい血が服の内側へ広がり、指で押さえても止まらず、寒くなり、眠くなり、最後にリリィの笑顔だけが浮かんだ。
死ぬたびに戻る。
戻るたびに嗚咽を繰り返す。
そして、頭に強引に情報を刻み込む。
最初は死の衝撃のショックで中々記録に時間が掛かった。
だが次第に死のショックに慣れていき、早く早く復帰できるようになった。
時間差、三時間。
時間差、十分。
時間差、五秒。
距離、王都内、有効。
距離、王都外、有効。
距離、遠方、有効。
対象、服、有効。
対象、椅子、有効。
対象、寝具、有効。
対象、装備、有効。
ハルトはそれを見て、また吐き気を覚えた。
自分の死を、まるで薬草の効果か何かのように整理している。
そこには痛みがあるはずなのに、文字にすると平坦になる。
落下死。焼死。失血死。窒息死。言葉は便利すぎる。
あの瞬間の恐怖も、肉が裂ける感覚も、喉が潰れる音も、全てを数文字に圧縮してしまう。
その圧縮が必要だった。
全てをそのまま抱えていたら壊れる。
だが圧縮してしまうこと自体が、もう既に壊れ始めている証拠なのかもしれなかった。
その夜、ハルトは頭を壁に打ち付けながら記録を脳に刻んでいた。
石の欠片を使い、一回ずつ、死の回数を数える。
ー宿で死んだ。
ー黒い影に殺された。
ーリリィに殺された。
ー首を裂かれた。
ー心筋梗塞。
ー脳死。
ー事故死。
ー感電死。
ー窒息死。
ー失血死。
ーショック死。
ー瓦礫。
ー落下。
ー焼死。
ー椅子。
ーベッド。
ー剣。
ー森。
ー橋。
ー看板。
数えているうちに、どれが何回目だったのか曖昧になる。
だが痛みだけは曖昧にならない。
線が増える。
十五本。十六本。十七本。十八本。十九本。
そして二十本目を刻んだ時、ハルトの手が止まった。
二十回。
今までで二十回は死んだ。
二十回も人生が終わった。
二十回も身体が壊れた。
普通なら、その事実だけで膝から崩れ落ちるべきだった。
だがハルトの頭に最初に浮かんだ感想は違った。
意外と少ないんだな。
その瞬間、呼吸が止まった。
「……は?」
声が漏れた。自分の声なのに、自分のものではないように聞こえた。
少ない。
今、自分は確かにそう思った。
二十回も死んだのに。
二十回も恐怖を味わったのに。
まだ少ない。
まだ検証が足りない。
もっと死ななければ分からない。
もっと観測しなければ勝てない。
そう思った。思えてしまった。
ハルトは壁に刻まれた線を見つめる。
二十本の傷。死の数。命の終わりの数。それが、実験回数なのだと。
ハルトは急に自分の掌が恐ろしくなった。
この手で刻んだのは記録ではない。
自分が人間から離れていく速度だ。
「俺は……」
続きが出ない。
俺は何だ。
まだ普通の人間か。
まだカミシロ・ハルトか。
それとも死んだら時間を遡るという異常に適応し始めた別の何かなのか。
リリィは身体を殺す。
けれど本当に恐ろしいのは、死が繰り返されることで、心が"死に慣れてしまう"ことだった。
死を恐れなくなるのではない。
死を恐れながら、それを利用し始める。恐怖と合理性が同じ場所に並ぶ。
その歪さが、ハルトの内側で静かに根を張り始めていた。
翌日の夕方、王都の屋台街は朱色の光に包まれていた。
炭火の煙が低く漂い、焼かれた肉の脂が火に落ちるたび、甘く焦げた匂いが広がる。
人々は笑い、酒を飲み、今日の稼ぎを数え、明日の天気を話している。ハルトはその中を歩きながら、自分がひどく遠い場所からその光景を見ているように感じた。
目の前にあるのに、手が届かない。
そこにいる人たちは今日一度も死んでいない。
明日も死なないと思っている。その当たり前が、今のハルトには眩しかった。
屋台の一角にレオンがいた。
大きな身体を木の椅子に預け、串焼きを豪快に齧っている。
腰には短剣。
手の届く位置には投げナイフが何本も隠されている。
背中には巨大な二本の針。
槍でも剣でもない、異様な武器が揃っていた。
細長く、重く、先端だけが冷たく光るそれは、刺すためというより、怪物の命そのものを縫い止めるための道具のように見えた。
あの巨大な狼を討伐した男。
あの異常な魔物を正面から殺した男。
『勇者レオン』
その向かいに、エルドが座っていた。
灰色とも言えるような銀髪が髪が夕日に照らされている。
彼は小さな手で菓子をつまみ、レオンの話を楽しそうに聞いている。
二人は笑っていた。
片方は恐らく世界でも有数の魔術師。
もう片方は狼を殺した勇者。
人混みの中で向かい合う二人は、普通の知り合いのようにも見えたし、世界の均衡を壊す二つの怪物のようにも見えた。
ハルトは立ち止まった。
これまで自分だけを観測対象にしていた。
自分が死ぬことで赤ずきんを調べた。
だが限界がある。
ハルトでは弱すぎる。
触れられれば死ぬ。
逃げても死ぬ。
対象をずらされても死ぬ。
なら、次は別の対象を使うしかない。
より強く、より速く、より危険で、リリィに対抗できる可能性のある存在。
勇者レオン。
彼ならどうなる。
赤ずきんに触れられる前に殺せるのか。
死因を与えられても動けるのか。
物質を殺されても突破できるのか。
ハルトの胸の奥に、久しぶりに別の感情が生まれた。
希望に似ていた。
だがそれは綺麗なものではなかった。
自分では勝てないから、誰かをぶつける。
レオンを危険に晒す。
そう理解していても、その考えを捨てられなかった。
二十回死んだ頭は、もう以前のように綺麗な判断を選べない。
生き残るために、勝つために、観測するために、使えるものを探してしまう。
ハルトは二人へ近付いた。レオンが先に気付く。口元に肉の脂をつけたまま、いつものように笑った。
「おう、ハルト。顔色悪いぞ。ちゃんと食ってるのか?」
ハルトは一瞬、答え方を忘れた。
普通の会話が遠い。
飯。顔色。そんなことがまだ意味を持つ世界に、どうやって戻ればいいのか分からなかった。
「レオン」
「ん?」
「もし、凶悪で王国の存続を脅やかす凶悪犯がいたらどうする。勇者として。」
レオンは一秒も考えなかった。肉を噛み、飲み込み、笑う。そこには迷いも、緊張も、恐怖もなかった。
「じゃあ止めないとね」
即答だった。
その言葉はどこか乱暴で、単純で、あまりにもレオンらしかった。
だが今のハルトには、それが祈りの言葉のように聞こえた。
止める。
できるのか。
リリィ相手に。
それをこの男は本当にやるのか。
エルドは隣で楽しそうに笑っている。
何か自分の知らないところで面白そうなことが起きていると、スナックのような菓子を口へ運びながら足を揺らしている。
夕日が赤い。金色の髪がオレンジ色に染まる。
レオンの背中の二本の巨大な針が、沈む光を受けて鈍く輝く。
ハルトだけが笑えなかった。けれど二十回死んで、初めてこう思った。
もしかしたら、この勇者なら、リリィ・ローゼンフェルトを殺せるかもしれない。
その希望が、次の地獄の入口であることを、ハルトはまだ知らなかった。




