第十二話『余韻』
夕暮れの屋台街は、まるで今日という一日がまだ終わりたくないと駄々をこねているように、赤と金の光を石畳の隙間へ薄く流し込んでいた。
炭火の上で脂が弾ける音、焼けた肉の甘い匂い、濃い酒の酸味、荷車の車輪が石を噛む乾いた響き、どこかの子供が転んで泣き、それを母親が叱りながら抱き起こす声、その全てがハルトの耳には少し遠かった。
世界は普通に動いている。
二十回死んだ人間がその中心を歩いていることなど、誰も知らない。
知らないから笑う。
知らないから腹を空かせる。
知らないから明日の話ができる。
その当たり前が、今のハルトには眩しすぎた。
眩しいものを直視すると目が痛むように、生きている人間の匂いを吸うだけで、胃の奥が小さく痙攣した。
屋台の一角にレオンとエルド、そのそばに立っているハルトがいた。
片手に串焼き、もう片方の手には木杯。
背には異様な二本の巨大な針。
腰には短剣。
袖口や腰帯の影には、恐らく投げナイフがいくつも隠されている。
だが本人は、その全てを物騒なものとして身に着けているのではなく、晴れた日に傘を持つ程度の自然さでそこに座っていた。
勇者。
狼を殺した男。
怪物と呼ぶにはあまりにも人懐っこく、人間と呼ぶにはあまりにも奥底の熱が違う男。
向かいにはエルドがいて、小さな菓子を口に運びながら、レオンの話を聞いて楽しそうに笑っていた。二人の周囲だけは妙に穏やかで、そこに近付く自分の足音だけが場違いに聞こえた。
「レオン」
ハルトの声は掠れていた。レオンは振り返り、すぐに眉を寄せた。けれどその表情に大げさな驚きはなく、寒そうな子供に上着を掛ける前のような、自然な心配だけがあった。
「ハルト。顔色、かなり悪いけど大丈夫?」
「ーー大丈夫。」
「そっか。座る?」
「座らない」
「水は?」
「いらない」
「じゃあ肉は?」
「いらない」
「そこは少し迷ってほしかったな」
レオンは困ったように笑った。軽い。あまりにも軽い。だがその軽さが、今のハルトには少しだけ救いに似ていた。世界が全部リリィの死因へ向かって歪んでいく中で、この男だけは、まだ肉の焼き加減やハルトの顔色を気にしている。勇者という言葉の重みよりも先に、目の前の人間を見ている。それが眩しく、同時に痛かった。エルドが菓子を摘んだまま、目だけを細める。
「何かあったね。君、さっきより匂いが違う」
「匂い?」
「比喩だよ。死にかけた人間みたいな顔をしている」
ハルトは答えなかった。死にかけたのではない。死んだ。二十回。だがそれは言わない。言ってはいけない。言葉にした瞬間、それは説明になってしまう。説明できるものになってしまう。自分の中にだけ閉じ込めておくべき地獄を、他人の理解へ差し出すことになる。信じられないと言われるのも嫌だった。信じられるのも、もっと嫌だった。
「白髪の少女を探してるんだ」
レオンの笑みが少しだけ薄くなった。
「知り合い?」
「知らない」
「知らない子を探してるの?」
「ああ」
「うん。最初から少し難しい話になってきたね」
「名前はリリィ・ローゼンフェルト。年齢は十五、十六歳くらい。白髪のロング。血みたいに赤いリボンをしている。服装は白を基調にした軽装。清楚に見えるけど、動きやすい。市場か路地裏に現れる」
「見たの?」
「……見た」
嘘ではない。何度も見た。何度も笑われた。何度も殺された。
だがいつ、どこで、どうやって見たのかは言えない。
レオンは串焼きを皿に置き、木杯も置いた。
その動作だけで、彼の空気が変わった。周囲の喧騒は変わらない。
商人は笑い、客は値切り、炭火は脂を焦がし続ける。だがレオンの内側で、何かが静かに剣を抜いたような気配があった。
「その子が危ないんだね」
「危ないなんてもんじゃない」
ハルトは唇を湿らせた。喉が乾いている。舌が上顎に貼り付く。言葉を出すたびに、死の記憶が喉を逆流してくる。
落下。焼死。窒息。失血。感電。爆発。リリィの笑顔。赤いリボン。白い髪。
「能力者だ。
能力名は『赤ずきん』。接触した対象に死因を与える。対象判定は物理的な接触面じゃない。リリィ本人の認識に依存する。肌、服、持ち物、椅子、寝具、武器、地面、壁。あいつが対象だと思えば対象になる。距離は関係ない。王都の外へ逃げても届く。時間差も一定じゃない。五秒後もあれば、数時間後もある」
レオンは黙って聞いていた。エルドの目から笑みが消える。菓子を持っていた小さな指が止まり、その指先だけが妙に白く見えた。
「死因を与える、ね」
エルドの声は低かった。
「また能力者か。しかも随分と物騒な」
「攻撃は偶然の事故に見える。でも違う。
火があれば燃やす。油があれば広げる。腐敗ガスがあれば爆ぜさせる。粉塵があれば火を走らせる。金属があれば電気を通す。木材があれば折る。石壁があれば崩す。魔法みたいに何もない場所から炎を出すわけじゃない。現実にある物質と現象を使って、死因を成立させる」
そこまで言って、ハルトは自分の声があまりにも平坦なことに気付いた。
自分が殺された理屈を説明している。
自分の身体が焼けた理由を、骨が砕けた仕組みを、肺が空気を失った過程を、まるで授業の復習のように並べている。
その異常さに胸の奥が冷えた。だが止まれない。止まった瞬間、ただの恐怖に飲まれる。
「情報源は?」
レオンが静かに聞いた。責める声ではなかった。ただ、当然の問いだった。ハルトは一瞬だけ目を伏せる。
「言えない」
「そっか」
レオンはそれ以上追及しなかった。
優しすぎる。普通なら疑う。笑う。怒る。お前は何者だと詰め寄る。
だがレオンは、ハルトが言えないと言った場所へ無理に踏み込まなかった。その距離感が、逆にハルトの胸を刺した。
「でも、君は助けを求めに来た。そうだよね?」
「……ああ」
「なら行こう」
「信じるのか」
「全部は分からないよ。でも、君が嘘でそんな顔をするとは思えない」
レオンは立ち上がった。背の双針が夕光を受け、鈍く赤く光る。それは武器というより、夜へ打ち込む二本の杭のようだった。
「それに、放っておいたら誰か死ぬんだろ?」
ハルトは答えられなかった。もう死んでいる。自分が。何度も。だがその言葉だけは飲み込んだ。
「なら止めるよ。勇者だからっていうより、普通に嫌だからね。目の前で誰かが死ぬのは」
軽く、柔らかく、少しふざけたような声だった。けれどその奥にあるものは動かなかった。
善性。
使命感というより、もっと単純で強いもの。
困っている人間がいるなら手を伸ばす。それを特別なことだと思っていない。ハルトはその眩しさから目を逸らし、屋台街の先にある細い路地を見た。そこへ行けば、白い髪がいる。赤いリボンが揺れる。笑う。殺す。世界が死因へ向かって形を変える。
夜明け前の路地裏は、夕暮れとは違う青をしていた。
正確には夜と朝の境目が薄く伸び、石壁の上に澄んだ灰青色の膜を張っているようだった。
湿った石の匂い、古い雨、黴、排水溝の奥にこびり付いた腐敗臭。
遠くでは市場の片付けがまだ続いているのに、この路地だけは音が吸われていた。
ハルトは歩きながら、呼吸の回数を数えていた。
一つ。二つ。三つ。数えていなければ、過去の死が勝手に身体へ戻ってくる。
ここに似た場所で首が裂けた。
あの角に似た場所で看板が落ちた。
あの壁と同じ色の石が崩れて胸を潰した。
目の前にあるもの全てが、すでに一度は自分を殺した道具に見える。
レオンは隣を歩いていた。足音が静かすぎる。重い武器を背負っているはずなのに、石畳を踏む音が驚くほど薄い。
強い人間は、存在そのものがうるさいのではない。必要な音しか立てないのだと、ハルトは妙なところで理解した。
「この先?」
「ああ」
「ハルト」
「何だ」
「怖いなら、後ろにいていいよ」
その言葉は優しかった。だがハルトの足は止まらなかった。後ろにいても死ぬ。離れても死ぬ。安全な場所などない。赤ずきんにとって距離は防御ではない。なら、前にいる方が情報が得られる。
「見る」
「見る?」
「リリィの能力を。レオンの戦い方を。両方見なければならない。」
レオンは少しだけ黙り、それから小さく笑った。
「君、やっぱり変わってるね」
「変わってしまった、の方が正しいかもな」
「でも今のは、そこそこ褒めてる方の変わってる、だよ」
「分かってる」
路地の角から、白が現れた。
夜明けの澄んだ青の中で、その髪は雪よりも冷たく、月光よりも柔らかく見えた。
腰まで届く白銀のロングヘア。白を基調とした軽装。膝丈の動きやすいワンピースの裾が、細い風に小さく揺れる。
足元は短いブーツ。清楚で、可憐で、どこか童話の挿絵から抜け出してきたような姿だった。
首元の赤いリボンだけが異様だった。血を吸った布のように深く、朝の青の中で不自然なほど鮮やかに浮いている。
リリィ・ローゼンフェルトは、路地の角から半身を覗かせるようにして、こちらを見て笑っていた。無邪気な笑顔。友達を見つけた子供の顔。けれどその奥にあるものは、人間の倫理と同じ場所に住んでいない。
「やぁ、ハルト」
レオンが僅かに視線を動かした。
「知り合いじゃないんじゃなかった?」
「知らない」
リリィがくすくす笑う。
「うん。初対面だよ」
「……なるほど?。余計分からなくなった」
レオンは困ったように笑い、それからリリィへ向き直った。その姿勢は驚くほど穏やかだった。殺気を叩きつけるわけでも、威圧するわけでもない。けれど足の位置、肩の角度、指の緩み方、その全てが、いつでも動ける状態に収まっている。
「君がリリィ?」
「うん。そして、あなたが勇者?」
「一応、そう呼ばれてるね」
「さっき、狼を殺した人?」
「うん。緊急でやむを得ずね」
「やっぱりすごいな〜」
リリィは本当に感心したように笑った。褒めている。嘘ではない。だがその声には、人間の命を重く見る者の震えが一切なかった。綺麗な石を見つけた時と同じ調子で、狼を殺した勇者を見ている。
「できれば話し合いで済ませたいんだけど」
レオンが言った。
「君、人を殺してるのか?」
「うん」
即答だった。レオンの表情がほんの少しだけ曇る。怒りではない。悲しみに近いものだった。
「ーーじゃあ、止めるしかないな」
「殺すの?」
「できれば殺したくはない」
「でも殺さないと止まらないかもよ?」
「それは困るなぁ」
レオンは苦笑した。
次の瞬間、彼の姿が消えた。
いや、消えたように見えた。
ハルトの目は確かに追おうとした。
だが脳が目の前の映像を処理するより先に、石畳が低く鳴った。
レオンの足が地面を蹴り、空気が遅れて潰れ、四本の投げナイフがリリィの周囲へ放たれていた。右、左、後方、上。殺すための刃ではない。
逃げ道を縫い止める配置。
ハルトは息を忘れた。速い。速いという言葉では足りない。レオンは単純に前へ突っ込んだのではない。リリィが逃げる可能性を先に潰し、その上で自分の身体を最短距離へ滑り込ませている。判断、投擲、踏み込み、間合いの制圧。その全部が一つの動作に見えるほど滑らかだった。リリィの身体能力では対応できない。できるはずがない。
ハルトは理解した。純粋な戦闘なら、勝負にならない。リリィは弱い。少なくとも身体は普通の少女だ。レオンの指が彼女の首元へ届く。殺すのではなく、掴んで制圧する動き。優しい。甘い。だが恐ろしく正確だった。
リリィの指先が石壁に触れた。
ハルトの思考が跳ねた。壁。古い石。隙間。湿気。黴。排水。油。腐敗臭。可燃性の気体。火種。どこだ。
レオンの針。まだ抜いていない。投げナイフの刃が石を擦る。金属と石。火花。
「爆死」
リリィの声が落ちた瞬間、壁の隙間から青白い火が走った。
炎というより、空気そのものが一瞬だけ薄く光った。次いで爆圧。
路地の片側が膨らんだように揺れ、石粉が吹き出す。
ハルトは反射的に腕で顔を覆ったが、レオンは既にそこにいなかった。
爆発の直前、彼は身体を沈め、リリィの横を抜けるように回避している。
爆風を背中で受けながらも軸が崩れない。ありえない。ハルトなら死んでいる。
さっきの爆発だけで肺が潰れ、鼓膜が裂け、破片で首を切られていた。だがレオンは少し眉を上げただけだった。
「ほんと物騒な能力だなぁ。今のは俺でも"当たれば"死んじゃうやつだよ」
彼は笑っていた。
ふざけているわけではない。恐怖がないわけでもない。
ただ、死に至る現象を現象として受け止め、その上で身体が間に合っている。
ハルトの胸の奥に、久しぶりに熱が灯った。
勝てる。いや、少なくとも戦えている。リリィの理不尽に、初めて人間が追いついている。
レオンが双針を抜いた。
二本の巨大な針は、剣でも槍でもない異様な武器だった。
刃で斬るのではない。貫く。縫い止める。距離を固定する。
レオンが片方を地面へ軽く突き立てただけで、石畳に細い亀裂が走った。
もう片方が空気を裂く。
リリィが後ろへ下がる。遅い。レオンの踏み込みの方が圧倒的に速い。投げナイフが追加で二本、リリィの足元へ刺さる。進路封鎖。双針の一撃。逃げ場が消える。
リリィは笑ったまま、今度は路地に積まれていた木箱へ触れた。
「焼死」
木箱。乾燥した木材。中身は布か。油か。違う、匂い。
魚油。灯油に近い臭い。火種はさっきの爆発の残り火。酸素は十分。燃焼。延焼。ハルトの頭の中で言葉が勝手に並ぶ。
直後、木箱の隙間から炎が立ち上がり、油を吸った布が蛇のように燃え広がった。
普通の火災ではない。燃え移る順番が死因に向かって最適化されている。
炎はレオンの逃げ道を塞ぎ、熱風が正面から肺を焼きに来る。
だがレオンは双針の一本を石畳へ突き刺し、それを支点に身体を横へ跳ね上げた。火の壁を越える。空中で投げナイフを放つ。一本はリリィの足元。一本は肩の横。一本は背後の壁。殺さない。だが逃がさない。着地と同時に短剣を抜き、リリィの首元へ刃を添える距離まで踏み込む。
ハルトは喉の奥で息を呑んだ。
リリィは追い詰められている。間違いなく。レオンは強い。強すぎる。
ハルトが二十回死んで少しずつ輪郭を掴んだ地獄を、この男は初見で駆け抜けている。
しかしリリィは怖がっていなかった。彼女は笑っていた。心から楽しそうに。レオンの刃が首筋へ届く寸前、リリィの指が自分の赤いリボンへ触れた。
「窒息死」
ハルトの思考が一瞬詰まった。
対象は誰だ。レオンか。リボンか。空気か。窒息。酸素欠乏。一酸化炭素。煙。粉塵。燃焼で酸素が消費される。狭い路地。炎。爆発後の粉塵。熱された空気。対流。
レオンの周囲だけ、呼吸可能な空気が薄くなる。
違う、もっと局所的だ。赤ずきんは現象を死因へ寄せる。
炎が酸素を奪う。煙が肺に入る。粉塵が気道を塞ぐ。ハルトの喉が勝手に苦しくなった。
自分が窒息死した時の記憶が戻る。喉が潰れ、空気が入らず、肺が暴れ、目の奥が熱くなる感覚。
だがレオンは口元を布で覆うことすらしなかった。息を止めた。短剣を捨てる。双針を回収する。
燃える木箱を蹴り飛ばし、煙の流れそのものを変えた。
いや、変えただけではない。爆風の残り、火災による上昇気流、路地の出口の位置、それらを一瞬で読んで、空気の薄い場所から抜けている。
戦闘だけではない。環境を読んでいる。経験値が違う。身体能力が違う。判断速度が違う。"勇者"という言葉が、初めてただの称号ではなく、事象に対する回答のように見えた。
「君さ」
レオンが煙の向こうで笑った。
「戦ってるっていうより、ただ単純に殺そうとしてるんだね」
リリィの笑みが、ほんの少しだけ止まった。初めてだった。白い睫毛の奥の赤い瞳が、レオンを少しだけ深く見た。
「どういう意味?」
「うまく言えないけど、君は俺を殴ってるわけじゃない。斬ってるわけでもない。ただ死ぬ理由を置いてる。あとは周りが頑張る、みたいな感じ?」
「勇者様って、変なの」
「よく言われるよ」
レオンは穏やかに答え、次の瞬間にはもう踏み込んでいた。
リリィが左へ逃げる。レオンは追わない。代わりに投げナイフを右へ投げる。
なぜ右か、とハルトが思った瞬間、リリィは右へ動いていた。
誘導。レオンはリリィの逃げたい方向ではなく、逃げざるを得ない方向を作っている。
双針の片方が地面を叩き、石畳が跳ねる。足場を乱す。リリィの小さな身体が傾く。
もう片方の針が空中を滑り、彼女の肩布を裂いた。血は出ない。だが服の一部が飛ぶ。
次で届く。ハルトはそう確信した。レオンは殺せる。リリィ本人は弱い。
赤ずきんが発動しても、発動する前に、あるいは発動した現象ごと突破して、レオンなら届く。
リリィが笑った。近くの壁ではなく、地面でもなく、倒れた木箱でもなく、路地脇に立つ古い魔導灯へ触れた。
「感電死」
魔導灯。魔石。金属支柱。雨水。濡れた石畳。火災で溶けた油。導電。レオンの足元。
だがレオンは既に飛んでいる。電流が地面を走るより速く、彼は双針を壁へ刺して身体を浮かせていた。
火花が石畳の水たまりを青く照らす。
ハルトの足元にも微かな痺れが走り、心臓が縮んだ。対象はレオンだ。自分ではない。なのに余波だけでこれか。
レオンは壁を蹴り、上からリリィへ落ちる。双針の先端が朝の青を裂く。リリィの頭上へ、まっすぐ。
捕縛ではない。今度は本気で止める一撃だった。殺すのか。殺さないのか。その境界は分からない。
ただ、これを受ければリリィは動けない。
その時、ハルトは気付いた。
リリィがレオンを見ていない。赤い瞳が、ほんの一瞬だけこちらへ向いた。
レオンではなく、ハルトへ。
笑っている。友達を見つけたように。遊びを思いついた子供のように。
ハルトの背中に氷水を流し込まれたような感覚が走った。自分。対象。巻き添え。違う。
これは巻き添えではない。リリィは最初から、レオンとの決着だけを見ていない。ハルトが見ていることを、リリィも見ている。ハルトが観測者であることを、彼女は感覚で理解している。
「爆死」
言葉が落ちた。
ハルトの思考が暴走する。爆死。火薬。ない。油。燃えている。粉塵。ある。腐敗ガス。路地裏。あり得る。だが違う。匂いがない。いや、水素は無臭。軽い。上へ溜まる。どこから。
魔導灯の魔石反応か。金属と酸。古い配管。水。鉄。腐食。酸との反応。
あるいは魔導具の破損による水の分解。水素。酸素。混合。爆発限界。火種。レオンの双針。石壁を削る金属。火花。駄目だ。条件が揃っている。揃えられている。赤ずきんは無から奇跡を起こさない。だが必要な材料を、死因のために世界から拾い上げる。見えない。臭わない。だから遅れる。だから死ぬ。
レオンの双針がリリィへ届きかけていた。
白い髪が風で舞い、赤いリボンが血のように跳ねる。
針の先端は確かに彼女の肩口へ向かっていた。あと一瞬。あと半歩。
レオンの表情は穏やかなままだった。怖くないのか。違う。怖いかどうかの問題ではない。彼は間に合うと判断している。
自分の身体と、武器と、距離と、リリィの反応と、全てを計算して、届くと判断している。勇者は届く。
ハルトはそう思った。思ってしまった。
次の瞬間、光が来た。
音より先だった。
世界が白く剥がれ、青い夜明けも、赤いリボンも、レオンの背中も、石壁も、全部が一枚の白に塗り潰された。遅れて衝撃。
耳の奥で何かが破裂し、鼓膜が音ではなく痛みとして爆発を受け取る。熱。熱いではない。
皮膚が自分の輪郭を失う。肺に空気を入れようとした瞬間、焼けたものが喉の奥へ流れ込み、内側から身体を焦がす。足が地面を離れた。
爆風に持ち上げられたのだと理解するより先に、背中が石壁へ叩きつけられる。骨が鳴る。どこが折れたのか分からない。分からないほど同時に壊れる。視界の端で、石畳がめくれ、魔導灯が折れ、炎が横へ走り、粉塵が白い煙になって膨らんでいく。水素爆発。ハルトの頭のどこかが、まだ冷静にその言葉を拾っていた。水素。酸素。火花。爆轟。衝撃波。熱傷。肺損傷。鼓膜破裂。破片。死因の成立。
レオンは。リリィは。届いたのか。
刺さったのか。
止めたのか。
殺したのか。
殺せなかったのか。
ハルトは見ようとした。
見なければならない。
自分はそのためにここにいる。
レオンの格を、リリィの異常を、赤ずきんの応用を、全部見て、全部覚えて、次へ持っていかなければならない。だが視界が戻らない。白が赤に滲む。熱で涙が蒸発したのか、目が乾いて痛い。喉から音が漏れる。声ではない。焼けた肺が潰れる音。身体が落ちる。石畳に叩きつけられたはずなのに、痛みはもう遠い。遠いということは、終わりが近いということだ。何度も死んだから分かる。痛みが遠ざかる時、人間は死に近付いている。
最後に、ほんの一瞬だけ、黒い影が見えた。
レオンの背中だったのかもしれない。双針の片方が、白い煙の中でまだ光っていた気がする。赤いリボンが揺れた気もする。
けれど、どちらも確かではなかった。勝ったのか。負けたのか。決着がついたのか。つかなかったのか。ハルトには分からない。分からないまま死ぬ。その事実が、焼ける痛みよりも深く胸を抉った。
見届けられなかった。
その悔しさを最後に、世界が暗く沈んだ。
目を開いた瞬間、ハルトは石畳へ倒れ込むように手をついた。冷たい。
夜明け前の路地裏の石は、相変わらず世界の底に沈んだ骨のように冷え切っていた。肺が勝手に空気を吸い、喉が痙攣し、胃が空なのに吐こうとする。酸っぱい胃液が舌を焼く。鼻の奥が痛い。耳の奥には、まだ爆発の白い音が残っている。皮膚は無事だった。鼓膜も戻っている。骨も折れていない。だが熱だけが残っていた。水素が爆ぜた瞬間の白。肺を焼いた空気。石壁に叩きつけられた衝撃。レオンの双針。リリィの赤いリボン。全部が脳の奥に焼き付いている。
ハルトは震える手で石畳を掴んだ。
爪の間に冷たい砂が入り込む。
その感触だけが、今ここに戻ってきたことを教えてくれる。レオンは勝てたのか。リリィは倒れたのか。あの一撃は届いたのか。分からない。分からない。分からない。二十回死んでも分からなかったことが、二十一回目の死でまた一つ増えた。
勇者でも倒せない。
そう言うには早い。
勇者なら倒せる。
そう信じるには、見届けていない。
ハルトは荒い息を吐きながら、ゆっくり顔を上げた。夜明け前の路地は静かだった。遠くで鳥が鳴く。王都はまた、何も知らずに朝を迎えようとしている。自分だけが白い爆発を覚えている。自分だけがレオンの背中を覚えている。自分だけが、決着の直前で死んだことを覚えている。
「……もう一回」
声が落ちた。
それは決意ではなかった。祈りでもなかった。もっと冷たく、もっと機械的な響きだった。
足りない情報を取りに行く研究者の声。壊れた命をもう一度実験台に乗せる声。
ハルトは自分の声にぞっとした。だが立ち上がった。膝は震えていた。喉は焼けるように痛んでいた。心臓はまだ爆発の余波に怯えていた。恐怖は消えていない。むしろ濃くなっている。それでも頭は動いている。水素。火花。魔導灯。金属。酸。配管。レオンの双針。リリィの視線。対象は自分。観測者を殺した。
なら次は、どこに立てば見える。どれだけ離れれば爆発に巻き込まれず、なおかつ決着を観測できる。レオンには何を伝え、何を伝えない。戦闘には口を出さない。自分が言うべきは赤ずきんの理屈だけだ。勇者の戦いを汚してはいけない。だが観測はする。死んでもする。死ぬからできる。死を使って、あの一瞬の先を見る。
ハルトは壁に手をつき、呼吸を整えた。指先は冷たい。掌は震えている。なのに頭の奥だけが異様に澄んでいた。その澄み方が、何よりも恐ろしかった。
勇者レオンは、リリィ・ローゼンフェルトに届きかけた。
だが、ハルトはその結末を知らない。
だからもう一度、死地へ向かう。
その事実を当然のように受け入れている自分に気付いた時、ハルトはようやく理解した。
リリィが殺しているのは、身体だけではない。
死を繰り返すたび、自分の中の何かが、少しずつ、確実に、人間ではない形へ削られている。




