幕間 逃走者
息が乱れる。
肺が焼けるように痛い。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
……あれは、化け物だ。
歯を食いしばる。
森の中を、駆け抜ける。
枝が顔を掠めても構わない。
速度は落とさない。
ありえない。
思い出す。
あの光景。
炎の中で、変異した男。
瘴気を喰らうように取り込みながら、肉体を
変質させていく様。
「——ああああああああああああああ!!!!」
あの叫びが、耳から離れない。
間違いなく、それは魔人化だった。
だが、あれは……通常の魔人じゃない。
確信がある。
現場で何度も魔人と対峙してきた。
だが、あれは知らない。
異質。
明らかに、異常だった。
四肢を欠損した人間が魔人化した際に
変異に伴い失われた箇所を再生する
例は知っている。
しかし、奴の変異は再生に留まらなかった。
禍々しくさまざまな形状に変形する右腕。
あんなものは知らない。
しかし、その異常な変異さえ些事に思える
光景が脳裏に焼き付いていた。
ほんの一瞬、見てしまった光景。
左腕。
あの異形の鉤爪。
振り下ろされた瞬間。
兵の身体が吹き飛ぶ、その“直前”。
魔力の流れ。
確かに見えた。
兵の体内を巡っていた魔力が——
僅かに、削れた。
そして、その削れた魔力は魔人の方に
移っていた。
ほんのわずかだが、確実に。
……喰っている。
結論に至る。
あまりにも冷静に。
肉体を傷つけた瞬間に。
同時に、その内側の魔力を奪っている。
魔術もそうだ。
魔術があの左の手のひらに触れた瞬間…
霧散して奴の体内に魔力が流れ込んでいた…
そんな魔人、見たことも聞いたこともない。
知識と照らし合わせる。
該当する情報はない。
あれは“捕食”に近い。
力を奪う……特異個体だ。
思わず舌打ちしそうになる。
だがそれ以上に……
理解してしまう。
あれは戦いではない。
一方的な“狩り”だ。
そして。
その異常性はそれだけではない。
思い出す。
あの目。
振り向いた瞬間。
確かに視線が合った。
左目。
黒く染まり、瞳は黄金に輝いていた。
……見えている。
確信があった。
あれはただ見ているだけではない。
魔力。
瘴気。
すべてを視認していた。
背筋に冷たいものが走る。
少なくとも、俺一人では対処不可能だ。
判断は一瞬だった。
退く。
それが最適解。
周囲の兵も、命令も——すべて切り捨てた。
任務は失敗だ。
だが、全滅するよりはマシだ。
冷静に結論づける。
呼吸を整えながら、さらに速度を上げる。
あの個体は異常だ。
既存の分類に入らない。
異常個体。
特異危険種。
戦力の再編が必要だ。
あの術式を使うときが来たのかもしれない。
でなければ…
我々が受ける被害は、この程度で済まない。
歯を食いしばる。
「……化け物め」
吐き捨てる。
だが、その奥にある感情は違う。
恐怖。
本能が、警告していた。
あれは、ただの敵じゃない。
“災害”に近い。
そして。
一つだけ、はっきりしている。
……見逃されたのは、俺の運がよかっただけだ。
優先順位。
あの状況で自分は“後回し”だと判断されただけだ。
次は、ない。
断言できる。
一度でも対峙すれば……
次に助かる保証はない。
森を抜ける。
減速せず、そのまま進む。
「……本国に報告だ」
小さく呟く。
あの存在は……
処理対象の枠を、越えている。
我々にとって明確な"敵"だ。
足を止めない。
一度も振り返らない。
ただ、逃げる。
生き延びるために。




