第003話 王宮は私を思い出せない
翌日の午前、王宮の婚約式で、リリアは自分の新しい名前を三度間違えた。
「リリア・ベルレイン……ではなく、エレ……」
神官が困った顔で咳払いをする。
大広間には、王族と高位貴族が集まっていた。白い花で飾られた祭壇。磨き上げられた床。王太子ユリウスの隣には、薄桃色のドレスを着たリリアが立っている。
本来なら、そこで発表されるはずだった。
王太子ユリウスは、聖女名エレノアを持つベルレイン伯爵令嬢を妃に迎える、と。
けれど、名簿は空白だった。
神官の手元にある儀式書には、王太子の名だけがはっきり記されている。隣にあるべき妃候補の名は、白く抜けていた。
「ベルレイン伯爵」
神官は低い声で言った。
「候補者名を確認してください」
ベルレイン伯爵は額に汗を浮かべていた。
「それは、リリアで……いや、エレノアで……」
「どちらです」
「それが」
伯爵は言葉を詰まらせる。
昨朝、食卓にいた見知らぬ娘。
黒髪で、落ち着いた声をしていて、家系図の箱を開けた娘。
伯爵は彼女の顔を思い出せた。いや、思い出せる気がした。けれど、名前を呼ぼうとすると、喉の奥で音が消える。
娘だったはずだ。長女だったはずだ。しかし、家系図にその名はない。家系図にない者は、ベルレイン家の娘ではない。
「お父様」
リリアが小さく呼んだ。
「早くしてください。皆が見ています」
「分かっている」
ユリウス王太子の顔にも苛立ちが滲んでいた。
「神官。この程度のことで儀式を止める必要はない。リリアを王太子妃候補として登録すればいい」
「殿下。名の祝福が通りません」
「何?」
神官は儀式書を見せた。
そこには、細い金の糸が何本も絡んでいた。王家の名、ベルレイン家の名、聖女名エレノアに結ばれていた祝福。
その中心が、白く途切れている。
「聖女名は譲渡されていません。抹名によって白紙化されています。この状態で別人を登録すれば、王家の婚約名簿全体に歪みが出ます」
「ならば、その抹名を取り消せ」
「本人の署名による抹名は、家長にも王太子にも取り消せません」
大広間にざわめきが広がった。
リリアの顔が白くなる。
「そんな……。では、わたしはどうなるのですか」
誰もすぐには答えなかった。
そのとき、広間の奥で侍従が慌てて入ってきた。
「殿下、失礼いたします。北門守備隊より緊急連絡です。冬期守護名簿の一部が白紙化し、倉庫の開錠祝福が通らなくなっています」
「今は婚約式の最中だ」
「孤児院の配給名簿も同様です。王宮医療院の薬草搬入名簿も、修正者名が消えて確認待ちに」
ユリウスの眉間に深い皺が寄った。
「なぜ一斉にそんなことが起きる」
侍従は青ざめたまま言った。
「すべて、同じ名で修正されていたようです。ですが、その名が読めません」
大広間のざわめきは、もう祝福のものではなかった。
誰かが、ベルレイン伯爵を見た。伯爵は唇を震わせている。リリアは、床に落ちた自分の影を見つめていた。
王太子ユリウスだけが、まだ怒りの形を保っていた。
「探せ」
彼は命じた。
「昨日、ベルレイン家から出ていった女を探せ。名前が分からなくても、顔は分かるはずだ」
けれど、その場にいた誰も、はっきりした顔を思い出せなかった。
黒髪だったような気がする。静かな声だったような気がする。名前を大切にする娘だったような気がする。
それだけだった。
◇
名簿院は、王宮の北側にある古い建物だった。
外から見ると地味だが、中に入ると空気が変わる。高い天井まで続く棚には、羊皮紙と木札と糸巻きが整然と並んでいた。窓から入る光の中で、無数の名の糸が細く揺れている。
わたしはリネアとして、臨時職員用の机を与えられた。
まだ仮名の登録しか済んでいない。正式な身分は、七日後の審査まで保留だ。それでも、机があるだけで少し落ち着いた。
誰かの家から消えたわたしに、座る場所がある。
それは、思った以上にありがたいことだった。
「緊急修正依頼が来た」
ノア様が書類の束を置いた。
彼は朝からずっと働いているらしい。外套は脱いでいたが、白いシャツの袖をきちんと留めたまま、少しも乱れていない。
「王宮からですか」
「北門守備隊、王宮孤児院、医療院、婚約式典管理室」
最後の名前で、わたしは手を止めた。
ノア様は書類を四つに分ける。
「優先順位は君が決めていい」
「わたしが?」
「抹名によって白紙化した名簿は、元の名を知る者が触れると最も安定する。だが、君に直す義務はない」
義務はない。
昨日までなら、誰もそんなことは言ってくれなかった。
わたしは書類に触れた。
まず、北門守備隊。冬用倉庫の開錠名簿が白くなっている。春とはいえ、北門は夜になると冷える。毛布や薬湯が出せなければ、見張りの兵が倒れるかもしれない。
次に、王宮孤児院。配給名簿の一部が消えている。昼食が止まる子が出る。
医療院。薬草搬入名簿。これは急ぐ。
最後に、婚約式典管理室。花飾り、席次、祝福灯、王太子妃候補名。
わたしは最後の書類を横へ避けた。
「こちらは、後回しで」
「理由を聞いても?」
「花は、一日遅れても枯れるだけです。人は、場合によっては死にます」
「妥当だ」
ノア様は婚約式典の書類を、わたしの手が届かない棚へ置いた。
それだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなった。
わたしは北門守備隊の名簿を開いた。
そこには、わたしが十六歳の冬に整えた名が並んでいる。隊長のグレン。左足を怪我してから夜番を減らした兵士。新しく配属された双子の兄弟。名前の横には、それぞれ短い注釈がある。
寒さに弱い。薬湯を多めに。妹の出産予定が近い。休暇調整。
誰かに命じられたわけではない。名簿を直すついでに、わたしが書き足していたものだ。
そういう細かいことを、ユリウス殿下は嫌った。
けれど、細かいことが人を助けることもある。
わたしは薄青い糸を針に通した。
「修正者名は、リネアで登録します」
ノア様が頷く。
「古い名は使わなくていい」
「はい」
名簿の空白に触れると、昔の名前が奥で揺れた。
エレノア。
母がくれた名。嫌いになったわけではない。捨てたかったわけでもない。でも、あの家に奪われるくらいなら、白紙に戻すしかなかった。
今は、新しい名でできることをする。
「北門守備隊、冬期倉庫開錠名簿。修正者、リネア」
声に出して糸を結ぶ。
白く抜けていた部分に、細い文字が戻っていく。完全に元どおりではない。けれど、命に関わる開錠祝福は通るはずだ。
次に孤児院。
配給名簿の空白を直していると、昨日のトマの顔が浮かんだ。パンを抱えて走っていった小さな背中。
わたしは一人ずつ名前を確かめた。
雑に結ぶと、弱い子から漏れる。
名簿は公平でなければならない。けれど、公平とは、全員を同じに扱うことだけではない。小さな子、病み上がりの子、まだ自分の名前をうまく言えない子。それぞれに、届く形がある。
医療院の名簿を直し終えるころには、窓の外が夕方の色になっていた。
指先が少し痛い。
けれど、嫌な疲れではなかった。
ノア様が温かい茶を置いてくれた。
「休んだ方がいい」
「あと少しです」
「婚約式典の名簿なら、急がなくていい」
「触るつもりはありません」
わたしは茶を受け取った。
香草の匂いがする。ベルレイン家で出されていた高価な紅茶とは違う。けれど、冷えた指にはこちらの方がありがたかった。
「王宮は困るでしょうね」
「もう困っている」
ノア様は淡々と言った。
「先ほど、正式な捜索依頼が出た。ベルレイン家から消えた長女を探せ、と」
わたしは茶碗を両手で包んだ。
「名前がないのに、探せるのですか」
「難しい。顔の記憶も曖昧らしい。抹名は、家名に結ばれた記憶を曇らせるからな」
「では、見つかりませんね」
「古い名で探すなら」
ノア様の視線が、わたしの机の上にある仮名登録票へ落ちた。
そこには、まだ乾ききらない文字で書かれている。
リネア。
「新しい名で探されたら?」
わたしは尋ねた。
「守る方法がある」
ノア様は一枚の書類を差し出した。
雇用契約書だった。
名簿院臨時職員、リネア。契約期間は三か月。職務は名簿修正補助、名札繕い、緊急時の祝福糸確認。住み込み可。食事付き。
そして、最後に小さく条項があった。
本人の同意なく、旧名の照会、名譲り、家系図への再登録を行わない。
わたしはその一文を、何度も読んだ。
「これは」
「君の新しい名を守る契約だ」
ノア様の声は静かだった。
「名簿院は中立機関だ。王家から圧力が来ても、正式な契約があれば時間を稼げる」
「どうして、そこまでしてくださるのですか」
ノア様は少し考えた。
「名前を奪われかけた人間が、自分で名を選ぶところを見たからだ」
それは、甘い言葉ではなかった。
けれど、今のわたしには十分だった。
わたしは契約書に手を置く。
「署名します」
「急がなくていい。内容をすべて読んでからでいい」
その言葉に、思わず笑いそうになった。
契約書を読む時間をくれる人がいる。
それだけで、かなり信用できる気がした。
わたしは一条ずつ確認した。難しい言い回しは少なく、条件は明瞭だった。給金は高くないが、住む場所と食事がある。何より、名に関する本人同意の条項が何度も明記されていた。
最後まで読んでから、わたしは署名欄に筆を置いた。
リネア。
新しい名前を書く。
文字が乾くと、胸元の白い名札がかすかに温かくなった。
その瞬間、名簿院の受付から慌ただしい足音が聞こえた。
「院長代理!」
若い職員が扉を開ける。
「王宮から追加の依頼です。婚約式典の祝福灯がすべて消えたそうです。それと、王太子殿下が、修復者リネアを至急呼び出せと」
部屋の空気が一瞬止まった。
ノア様がわたしを見る。
「どうする?」
わたしは契約書を畳んだ。
怖くないわけではない。
けれど、今のわたしには机がある。名前がある。契約がある。そして、もう誰かの都合で自分を差し出すつもりはなかった。
「婚約式典の祝福灯は、命に関わりません」
わたしは言った。
「明日でよろしければ、通常料金の三倍で見積もりを出します」
若い職員が目を丸くした。
ノア様は、ほんの少しだけ笑った。
「名簿院の規定では、王宮急ぎ案件は五倍まで認められている」
「では、五倍で」
わたしは初めて、自分の新しい名前で仕事を受けることにした。
王宮が思い出せない令嬢ではなく。名簿院のリネアとして。




